「ねぇマスター、いま時間あります?」
閉店間際の店内。掃き掃除を早々に終えた由蛇は、落ち着かない様子でグラスを弄んでいた。柑橘系の香りが、ふわと鼻孔をくすぐる。テーブルを拭く手を止めて、夜鷹は穏やかに目を細めて見せた。
「うん、私にできることなら、喜んで」
「夜鷹さんさ、そういうの……あんま言わない方がいいッスよ」
「誰にでも言うわけじゃないさ」
はいはい、と雑な返事を寄越して、彼は冷蔵庫の扉を開けた。冷えた空気が一瞬頬を掠めて、すぐにぬるくなっていく。カウンターに肘をついてもたれかかっていた夜鷹は、ひとつ瞬きをする。そうして、グラス——由蛇が先ほどまで手にしていた——の前にそっと腰を下ろした。
「練習に、付き合ってほしいんスけど」
握られていたのは、ウォッカとオレンジジュース。視線だけでこちらが微笑んだ気配を察したらしい。彼は途端に眉をひそめて「練習だから!」と釘を刺してきた。
「度数の調整、なんか上手くいかなくて……ってマスター、ちゃんと聞いてる?」
「ふふ、うん、練習だね」
「あんたって本当……」
美女に振る舞うためですから、などと言い訳をしながら、慣れた手つきでくるくるとかき混ぜていく。——練習なんて、必要ないほどに。一段と香るオレンジに、夜鷹はまた目を細めた。
「おまたせしましたー……」
なぜかばつの悪そうな顔をして、彼はグラスをこちらに差し出した。
「由蛇」
「なんスか」
「今の私は、キミの『お客様』だよ」
「……」
ちゃんと、言ってごらん。薄く笑ってそう促せば、由蛇はうろうろと目線を彷徨わせて、それから小さく息を吐くと、観念したように呟いた。
「お待たせしました。こちら、……スクリュードライバー、です」
練習だと言うのなら、もっと堂々としていればいいのに。お客様方には、いつもの軽快な調子で、平気な顔をして出しているのだから。そう指摘するのは流石に意地が悪いかと、代わりにこう尋ねることにした。
「素敵なバーテンダーさん」
「え、まだ続いてんの」
「もちろん。カクテル言葉を教えてくれるかな」
「知ってんでしょ!? 何、あんたもう酔ってます!?」
由蛇が思わずといった様子で軽く絶叫する。けれど段々とこのテンションにも慣れてきたようで、ため息ひとつと共にすぐ口を開いた。
「『あなたに心を奪われた』。男に言われても嬉しくないでしょー……」
「由蛇の成長を感じられて、私は嬉しいよ」
「成長って何スか成長って」
度数強くないんでさっさと飲んじゃってくださいよ、と半ば投げやりにそう言って、由蛇はこちらに背を向ける。これ以上の戯れには付き合わないぞ、という意思表示だろうか。拗ねたような仕草に笑みを深くして、夜鷹はカクテルに口をつけた。うん、丁度いい。やはり、練習はただの口実に過ぎないのだろう。
「ちょっと、またオレのこと笑ってます?」
「まさか。上手くなったと思ってね」
納得はしていないのだろう、じとりとこちらを振り返りつつも、由蛇はすぐ片付けに戻って行った。その背中を見つめて、夜鷹は手の中のそれを飲み干す。すうと抜けるその香りを、どこか名残惜しく感じていた。
(『あなたに心を奪われた』……)
ぴんと伸びた背筋をぼんやり眺め続ける。嬉しかった。言葉というよりも、その行為自体が。不器用な彼が、不器用なりに、不慣れな形で愛をくれたことが。それを、伝えようとしてくれたことが。本当に、嬉しかったのだ。息をゆっくりと吸い込んで、夜鷹は立ち上がる。
「片付けの続きは、私がやっておくよ」
「え」
「お礼だと思ってくれればいい。ごちそうさま」
一瞬呆けたようにぽかんとしていた由蛇が、はっとしてすぐに首をひねるものだから、思わず声を上げて笑ってしまう。彼の手のひらからしたオレンジの香りに、どうしてだろう、泣き出したくなるような心地がしていた。