目を開けると、そこは知らない場所だった。
「ここは……」
まばたきを、ひとつ。身体が重い。どこかぼやけた思考のままで、夜鷹は周囲を見渡した。簡素なつくりをした座席がいくらか並べられている。かなり古い列車のようだ、と思った。窓の外には、一面の星海が広がっていて、それらは列車の動きにあわせてちかちかと明滅していた。夜鷹はそっと目を細める。……列車とは、宙を泳ぐものだっただろうか? そう、だったかも、しれない。ひとまずは深く考えないことにした。
通路の真ん中でただ立っていたことに気がついて、夜鷹は一歩足を踏み出した。丁寧に張られた床板が、ぎしりと痛々しい音を立てる。途端、誰かがはっと息を呑んだのがわかった。
「誰か、いるのかい」
「……なんだ、車掌さんかー、脅かさないでくださいよ」
声をかけてやれば、驚くほどにあっけらかんとした、明るい声が聞こえてくる。二、三向こうの座席からひょこりと顔を出して、彼はこちらに笑ってみせた。車掌、とは、自分のことらしい。たしかに、自分はそれらしい格好をしているようだったから、きっとそうなのだろうと納得した。……そんな記憶は、ないのだけれど。
「どーせオレ以外に乗客なんていないんスから。さっさと切符確認しちゃってくださいよ」
どこかぶっきらぼうにそう言った彼は、ひらひらと薄黄色の紙をこちらに向ける。一目見て、月の色だ、と思った。列車の見目から予想はしていたけれど、切符もやはり、古風なものだった。いまどき記念切符でもなければ、お目にかかれない代物。その思考にさして疑問を抱かないままで、夜鷹は差し出された紙片をそっと受け取る。
『⬛︎⬛︎より ゆき ⬛︎⬛︎鉄道』
もやがかかったように、その切符上の文字がゆらいで、うまく読み取れなくなる。——ああ、そうだった。この列車には、行き先がないんだ。不意に夜鷹は、そのことを思い出す。停車駅も、終着駅もないままに、星の海を漂うだけのちっぽけな列車。彼以外に乗客がいないのも、当然のことだった。
黙り込んだこちらを訝るように、彼が眉をひそめて首を傾げたのがわかった。何かを言おうとして、彼はすぐに口を噤む。それを見て、とっさに言葉が口をついて出た。
「どうして、キミはこんな列車に乗っているんだい」
「え?」
「この列車には、行き先がないだろう」
それなのに、どうして彼はこんな泥舟のような、儚いこの列車に乗り続けているのだろう。彼にはきっと、彼自身の人生があるはずなのに。そう、続けようとして、而して夜鷹は押し黙る。彼が、心底おかしそうに、けれど愛おしそうに、笑っていたから。
「はは……それ、あんたが言うんスね」
ほーんと、あんたってそういうとこありますよね、なんて呟いて、眉を下げてまた笑う。それに合わせて、車窓に映る星たちも瞬いていた。
「行き先のわからない列車でいいんですよ。終点がどこだっていい。だってオレは、乗客として、それを見つめていたいだけなんですから」
「キミは……」
急速に意識が遠のいていく。足元が覚束なくなって、通路にしゃがみ込んでしまう。ぐらつく視界で、彼の表情だけが明瞭に映った。
「オレはまだ、あなたの人生の続きが見たい」
今にも泣きそうな顔をして、彼はそう言った。まるで、自分には叶えられないと知っている夢を、諦められずに溢してしまったような、そんな顔をしていた。
「⬛︎⬛︎⬛︎さん」
名前を呼ばれた気がするのに、なぜかそれは音にならない。眼前が明滅する。頭を押さえて、それから、それから——
◇
目を開けると、そこは知らない場所だった。
「ここは……」
薄暗がりの中で、夜鷹は思案する。目の前には、銀幕。どうも、レトロな映画館のようだった。そうだ、上映中につい、うたた寝をしてしまったのだ。欠伸を噛み殺して、姿勢を少しだけ正してみても、オブラートのようにかかる眠気は立ち去ってくれそうにない。良く言えば王道、言葉を選ばなければどこかありきたりなスパイ映画だった。フィルムは劣化しているのか酷くぼやけていて、それが余計に瞼を重くする。
「つまんない?」
不意に背後から声をかけられて、一気に意識が浮上する。観客は夜鷹一人しかいないのだから、話しかけられたのは十中八九自分のはずだ。階段を降りる足音が聞こえて、ついそちらへと視線を向けた。
「オレはこの映画、好きですけど」
段ボール箱を抱えたその青年は、そう言って屈託なく笑った。箱の中には、年季の入ったフィルムの数々が収められていて、そのときになって初めて、夜鷹は彼がここのオーナーなのだと気がついた。
「他には、どんな映画があるんだい」
「うん? お客さん、変なこと聞くんスね」
映画の内容なんて、上映してみるまでわかんないでしょ、と彼はあからさまに不思議そうな顔をした。そう、だっただろうか。自分が知らないだけで、フィルム映画とはそういうものなのかもしれない。段々とそんな気がしてきた。
「あんた、やっぱりつまんなそうだし。別のにしましょうか?」
そう言って、青年は箱を漁る。比較的新しく見えたものを指差せば、じゃあこれにしましょうか、とまた彼は笑った。
「……どうせ、オレはこれも好きになるんだろうな」
「え?」
「や、何でもないッスよ! さっそく替えましょうか」
一瞬だけ見せた表情にはどこか覚えがあって、聞き逃したそれをもう一度尋ねる。けれどひらりとかわされてしまって、それ以上を聞くことはできなかった。
映写機の回る音が聞こえる。——さっきまで映していたフィルムは、どうなったのだろう。なぜか、そんなことが気に掛かった。
「さっきのやつなら、オレが大事に保管しときますよ」
夜鷹の思考を先回りするようにして、彼は背後から言う。
「キミが?」
「いつかまた見たくなるかもでしょー」
戻ってきた彼はそう言いながら、少し離れた席に座る。せっかくだからと手招いてみせれば、青年は戸惑いと喜びがないまぜになったような、なんとも形容しがたい表情をして、それから、一つ席を空けた隣に腰を下ろした。
落ち着いた音楽と共に、映画は先へと進んでいく。それは一人称視点の多い、平凡な旅行記のようだった。退屈というわけでは、決してないのだけれど。穏やかな情景が、やはり睡魔を誘ってしまう。瞼が重い。耐えられないほどの眠気に、自分が舟を漕ぎ始めるのがわかった。
「もう、寝ちゃうんスか? ……まあ、いいですけど」
少し呆れた声がして、そうして何ごとかを考えているような気配がした。耳を澄ませようとして、すぐに深い眠りに沈んでいってしまう。
「エンドロールにオレはいないけど、今のあなたなら、自分で続きを選べる」
平静を装ったその声が、震えていることに気付いていた。
「ねぇ、⬛︎⬛︎⬛︎さん」
また、名前を呼ばれた、はずなのに。音は霧散して、鼓膜を震わせることはなかった。思考がぐらつく。景色が一段と歪んでいく。それに抗おうとして、それから、それから——
◇
目を開けると、そこは知らない場所だった。
「ここは……」
頭がズキズキと痛む。眩しい光に目が慣れず、夜鷹は軽く顔をしかめた。腹の下に力を入れて、ゆるゆると起き上がる。徐々に順応していく目に飛び込んできたのは、一面に広がる花畑だった。月光の下で輝くそこは、花々が淡く発光しているかのようで。少し遅れてようやく、ああこれが眩い光の正体か、と合点がいった。
「あ、ようやく起きた」
声のした方をはっと見遣る。男は、読んでいた本を閉じると、こちらに向かって微笑んだ。すぐそばに一本だけ生えた木が、彼の顔に薄く影を落としているせいで、その表情は上手く読み取れなかったけれど。
「あ、この木? 寝てる間に植えちゃった。もたれるのに丁度いいッスよー」
「月桂樹かな」
「お、正解ー! さすがッスね」
「料理でも使うからね」
心地良い会話を交わしながら、夜鷹はそっと考えを巡らせていた。一体、ここはどこで、彼は誰なのだろう。他人だとはとても思えないのに、そのかたちはおぼろげで、ひどく不鮮明だ。一歩、踏み出そうとして、けれどすぐに立ち止まってしまう。そうだ、確かこの花庭は、自分とあの男が造ったものであるはずだ。その、はず、なのに。まるで、見えない線がそこにあるかのように、夜鷹の足は動かない。
「キミは……」
二の句が継げなくなった夜鷹を、彼はどう解釈したのだろうか。瞬間、くしゃりと表情を歪めたかと思えば、すぐに笑顔を作り直す。それが、どんな涙よりも、ずっと痛々しかった。
「もう時間切れ?」
どういう意味なのかを問おうとした。けれど、それは叶わない。その言葉は、自分に向けられたものではないような気がして、開きかけた口をぐっと噤むことしかできない。男はじっと、こちらを見つめて、ただそこに立っている。夜鷹の言葉を待っているのだと、都合よく理解したかった。——自分は、彼のことなど、ひとつたりとも覚えていないのに?
「……なにも言わないで、聞いてくれます?」
諦めたように、祈るように、男は目を伏せる。その睫毛が、ささやかに光を反射しているように見えた。それを拭うのが自分ではないことを、どうしようもなく知っていた。
「ずっと、夢みたいだった。大好きだったんです、ここが」
その声の優しさが、夜鷹には突き刺さるような悲鳴に聞こえた。耳を塞ぎたくなる。けれど、心の奥底で「目を逸らすな」と、誰かが低く唸る。
「でも、オレ、もうここに居られない」
隠しようもない震えが、男の声を、空気を伝って、身体中に伝播していく。雨垂れのように、堰を切ったように。涙のしずくが庭に落下して、吸い込まれていく。眉間に深くしわが刻まれるのがわかった。嗚咽すら零さずに、彼は必死に声を抑える。けれど堪えきれずにあふれた息が、彼をひたすらに傷つけていた。何ひとつ落ち着いていないのに、男は無理やり呼吸を整えようと、大きく息を吸う。
「……ゆるせなくていいから。ゆるしたいと、思ってくれますか」
目を瞠る。意図を掴み損ねた言葉が、風にかき消されそうに、そこに在る。拾い上げて、抱き締めたくて、思わず足を踏み出した。今度は、何にも阻まれない。彼の瞳に一瞬動揺の色が浮かんで、すぐ嫌に冷静な声が響く。
「ダメですよ。もう、魔法は解けたんだから。あなたの時間は進み始めてる」
ぐらりと、足元から崩れていくような感覚がした。気味の悪い浮遊感に、たまらず口許を押さえる。頭がぐらぐらと煮立つような不快感。意識が薄れ始めていた。
「なつめさん」
呼ばれた名前は、借り物のように、ただ目の前を素通りする。ようやくそれが音になったのに。私は、キミの名前すら、思い出せないのに。酷い目眩に瞼を閉じた。自由落下に身を任せて、それから、それから——
それから?
◇
目を開けると、そこは見知った場所だった。
「ここは……」
「あ、ようやく起きた! もー、今日のマスター、流石に寝過ぎ」
「そう……かな」
「そうっすよ!」
いまだに覚醒しきらない頭では、曖昧な答えしか返せない。夜鷹は緩慢な動作でソファから起き上がる。ふわりと花か何かの香りが漂ってきて、瞬きを繰り返す。開店前の夢十夜は普段よりも静かで、ささやかながらに彼の気遣いを感じていた。
「最近疲れてるんじゃ……ちゃんと寝てます?」
「ふふ、心配いらないよ、由蛇。自分の限界はきちんと把握しているつもりさ」
「……あんたが言うなら、いいですけど」
不承不承といった風にどうにか納得して、由蛇は席を立つ。カウンターに浮かぶ趙雲をちょんとつついて、今日のプレイリストについての相談を始めたようだった。
「今日は太緒くんも来るし、マスターが居眠りしないように気持ちあげてこ! ね!」
「では、今宵はスウィングジャズのプレイリストを、再生しマスカ?」
「いいね趙雲、それでよろしく!」
今日の由蛇は、いつもより機嫌が良いらしい。心なしか趙雲も嬉しそうだ。気がつけば先ほどまで見ていた夢の内容は、忘却の彼方へと置き去られている。普段ならば気にも留めないそのことが、まるでどこかつっかかったように、やけに気掛かりだった。胸の奥がざわついて、かすかに喉が渇く。
「由蛇」
「んん? なんスか」
意識するよりも先に声が出て、とっさに彼を呼び止めていた。
「私の名前を……呼んでくれるかな」
「夜鷹さん? ……ちょっと、やっぱ具合悪いんじゃ」
水の入ったグラスを手にした由蛇が、気遣わしげにこちらを見つめる。喉まで出かかった言葉を、すんでのところで飲み下した。
「大丈夫。……本当に、大丈夫だよ」
手渡されたグラスに口をつける。かすかに香るレモンの匂いに、現実感を取り戻す。その水面は蜃気楼のように、ゆらゆらと揺れていた。
(「キミはいなくならないよね」、なんて)
零れかけたその台詞は、終ぞ発せられることはなかった。彼が看板をひっくり返しに行ったのか、入口の扉が開いて、少しだけ冷えた空気が店内に流れ込む。湿った、夜の匂いがした。
聞けなかった理由を形にするのが、どうしてとても恐ろしい。宙ぶらりんになった言葉も、この夜に溶けていきそうだった。ああ、また、頭が痛い。こめかみを押さえて、彼は——棗夜鷹はゆっくりと立ち上がった。