尿瓶が公式は勝利「傷が開くといけないので、小用の際はこちらをご使用くださいね」
「う……」
差し出された瓶の、つるりとした輪郭に眉を寄せる。厠くらい歩いて行けると言い返したかったが、優秀な医者の言葉だ。妙な意地を張って回復が遅れでもしたら困る。鯉登は頷くでも首を振るでもなく、大人しく尿瓶を受け取った。
訓練で怪我をすることはあれど、ここまでの重症を負うのは初めてだった。持ち前の運動神経を発揮し、飛行船から落ちた時だって、次の日には通常通り任務に当たっていたほどである。つまり、鯉登は今まで尿瓶というものを使ったことがなかった。
悪あがきで水を飲む量を減らしてみても、いずれ限界は訪れる。
一人になった病室でしばらく太ももを擦り合わせてから、やがて観念し、渋々尿瓶を持ちあげた。しかし、ひやりとした感覚が伝わるのみで動けない。鯉登にはその使い方が分からなかったのである。家永に聞いてみるかと思ったが、体調に異変があるとき以外、不用意に家永を呼び出すなと月島から言われている。同物同治の思想持ちが排泄物にまで興味があるとは思えなかったが、補佐に余計な心配をかけるわけにもいかない。
とにかく、この中に出せば良いのだ。
思わず周囲を見回し、誰もいないことを確認する。静かな病室に音が響き渡るのも居た堪れないが、他人に聞かれるよりはましだろう。意を決して布団の中に瓶を入れたとき、突然ドアの開く音がしてびくりと身体を揺らす。
「お加減はいかがですか、少尉殿」
「つ、月島」
敬礼をしてから室内に足を踏み入れた月島に、鯉登は内心これ以上こっちに来ないでくれと青ざめる。
「なんとも無い。はやく回復して鶴見中尉殿のお役に立ちたいものだ」
「それは何よりですが、無理は禁物です。医者の話ではまだ起き上がることも難しいはずだと……おや、顔色があまり優れませんね」
「キエッ?」
心臓がどっと跳ねる。じっとこちらを見つめながら距離を詰める月島に、お前はインカラマッかと心の中で毒付く。鈍そうなこの男は、案外人をよく見ているのだ。
「……なにか心配事でも?」
布団を引き上げて身を隠しても誤魔化しきれそうにない。まるで謀反でも疑うように重い視線をじっとりと注がれ、背中に汗が滲む。
「な、何もないからあっちへ行け!」
「何もないことはないでしょう。……ああ」
ふと逸された視線はベッドの横の棚に向いていて、そういえば尿瓶を渡されたときに月島もその場にいたなと思い至る。そこに瓶がないなら、使用中だと気付くだろう。
「気が付かずすみません、席を外します」
ぺこりと小さく会釈して立ち上がった月島の裾を慌てて掴む。正直、頼めるとすればこの男以外いなかった。月島は少し驚いたように目を開いて鯉登が掴んだ裾を見る。
「何か」
「あ、いや、その」
咄嗟に縋ったところまでは良かったものの、言葉にして聞かせるのは情けなく思えて躊躇う。上官相手では断れないのも気の毒だ。
「あのな、月島は使ったことがあるか? その、尿瓶……」
「……それはまあ、何度か」
月島は何度も戦場に出ている。軽症で戻れることは少なかっただろう。
「私は使ったことがないから……やり方が分からないんだ」
今教えてもらえなければ、このまま漏らしてしまうことになる。不安に駆られながら目の前の男を覗き込むように見つめる。
「月島あ、教えてくれ……」
「…………」
途端に月島は物凄い顔になった。額にも首にも青筋を立てて、鬼の形相で鯉登を見下ろしている。何か怒らせるようなことを言っただろうか。
「つ、月島?」
「ああ、いえ……尿瓶はですね、受け口に入れて出せば良いだけですよ」
「……それは分かっとる……」
いじけたように口の先を尖らせる鯉登を見て、月島は、理解することと実践できることが別であると察した。世話の焼ける将校に元来の世話好きスイッチが押されたのか、据わった目で横たわったままの鯉登に手を伸ばす。
「失礼します」
「あっ!?」
ずぼ、と布団に腕を入れると、月島はすぐに尿瓶を見つけて掴んだ。しばらく布団に入れていたおかげか、冷たかった瓶はいつの間にか温度を持っている。
「やっ、月島やめろ!」
ベッドに片膝を乗り上げたせいで、ぎしりという音とともに身体が傾く。月島は布団に手を突っ込んだまま中の浴衣を肌けさせ、つうっと太ももの付け根までさすり上げる。鯉登はあまりの羞恥とこそばゆさに首元まで肌を赤く染めた。睨むように見開かれた両目には涙の膜が張っている。
「うう、不敬だぞ……!」
「はあ? あんたが教えてくれと言ったんでしょうが」
「キエエ……」
予想外に強気な言葉を返されて思わず黙る。確かに頼んだのは鯉登だ。文句を言って「じゃあご自分でどうぞ」と放り出されては困る。
「あ、あぅ」
大した抵抗もできないまま褌に手をかけられて身体が強張る。
「やっせん……」
「大丈夫ですよ、恥ずかしいことではないですから」
「んっ……つきしまあ」
「はい」
「手え、冷たい」
「すみません」
布団を捲ろうとすると慌てた鯉登が暴れるため、腕だけ入れて手探りで陰茎を探す。布を緩めて触れるとびくりと身体を揺らして、月島の背に縋り付く。その怯えた子供のような仕草に、庇護欲にも征服欲にも似た何かが稲妻のように走った。
「鯉登少尉、入れますよ」
「うん、早よ……」
尿瓶の受け口に先が当たる。どうぞと囁けば、一息置いてちょろちょろと水音が始まった。やりとりの間も我慢していたのか限界だったようだ。
浅い呼吸が首元にかかるのを感じながら上官が用を足す音を聞く。手を離しても良かったが、しがみつかれて下手に動けないのでそのまま待った。時折「ふ」だの「んう」だのと漏れ出る声のほうが余程聞いてはいけない気がして、わざとらしくならない程度に咳払いをする。
「情けんなか……」
「情けなくなどありませんよ。ひとりで出来なければ、次も家永でなく私を呼んでください」
分かったと頷くか細い声にほっと息を吐く。将校のこんな初心な姿を囚人などに晒すわけにはいかなかった。囚人どころか、他の誰にも見せてやるわけにはいかない。
「鯉登さん、どうかされました?」
全て出しきった頃、家永が戸を叩いて入ってきた。鯉登はまるで鯉のようにはくはくと口を開閉しているかと思えば、涙目になって口を開く。
「月島がッお、おいの……」
鯉登の絞り出すような声にぎょっとして手を離すと、冷えきった目の家永と視線がぶつかる。
「月島さん……抵抗できない鯉登さんに手を出すなんて、見損ないましたわ」
「違う! 誤解だ」
「鶴見中尉にご相談するべきでしょうか……」
「待て、話せばわかる」
冷や汗をかきながら上官を振り返っても、恥ずかしそうにこちらを見るだけで助けは望めそうにないのだった。
おしまい。
この後また「月島ぁん😭💦」されて
は〜やれやれ…(やぶさかではない)と尿瓶を取り出す軍曹はいます