「……ナワーブ」
五本の指全てを手の内に握り締めて、イライは口を開く。喉を通した声が震えて出ないように心掛けたが、舌に乗ったのはやや弱弱しい声だった。己を恥じ、唇を一度噛みしめて、言葉を選ぶ。何と言うべきか。ドアノブを見下ろしながら、懸命に考えようとする。
「ナワーブ……わた、し」
イライはたどたどしい思考で言葉を選び取り、舌に乗せようとしていた。しかしその殆どが形にならないまま途切れてしまった。イライが臆病だったからではない。唐突に扉が開いて、そこから伸びたひとつの腕がイライを抱き攫ったのだ。立ち尽くしていたイライの体は、ひどく強い力で床から引き離され、その場からも遠のいた。
バタン。と扉の閉まる音が聞こえ、次いで錠の閉まる音を認識したとき。イライは吃驚の余り止めていた息を恐る恐る吐いた。目を幾度も瞬かせて状況を理解しようとする。目の前は暗がりだ。先ほどのような、背後でランプの光が揺らめく薄暗がりではない。光が殆ど入らない……カーテン越しに通る淡い光の他には何をもない薄闇。まず間違いなく、先ほど立ち尽くしていた廊下ではない。ではここは?
疑問を持ち、辺りを見渡そうとして……イライは自分の体が微々とも動かないことに気付く。顔だけではない。腕や足も、何故だか碌に動けやしない。薄く零れていた呼吸が今一度詰まり、目が幾度目かの瞬きを繰り返す。体中が強張り、暴れることも試みることができない。これが日頃ハンターを相手にしている人間の有り様か。自嘲じみた叱咤を体に飛ばし、どうにか腕だけでも振り上げようとした途端。ぎゅ…っ、と、腹を何かに抱き締められ、イライは音もなく息を飲んだ。動き出そうとした勇敢な腕は、固まったままびくりともしない。とにかく、考えなければ。どうにか頭ばかりは回し続けようとイライは苦心した……その為だろうか。今、自分は抱き締められているということに、正しく気付いたのは。
「……ナワーブ?」
もしや。と、脳裏に浮かんだ名を紡げば、腹に感じた力が更に強くなる。これは腕だろう。背から脇に通し、大きな手を反対の脇にまで行きつかせた逞しい腕。指から腕まで、皮膚の全てが包帯に巻かれている、逞しくも草臥れた腕だ。イライはその腕に見覚えがあった。後頭部から耳、頬にまで当たるのは顔だろうか。数日前の夜に見たとき、彼の顔は獣のような有り様をしていた。狼のような、犬のような口元がフードの影から飛び出ていたのだ。摺り寄せられているのはあの口元だろうか。
これは、間違いなく抱擁だ。幾らか平静さを取り戻した思考でひとつひとつを整理しながら、イライは確信を得ていた。記憶に合致する抱擁だったのだ。背後から抱き寄せ、縋るように腕を回し、無言のまま擦り寄る。ふたりきりになった際、そして疲弊しきったときの彼が行うものだ。言葉もなく雄弁に内情を語るこの甘えが、イライは大好きだった。他の誰が、彼にこうして甘えて貰えるだろうか? そんな、恋人ならではの優越感さえ覚えた程だ。
イライは片手をそろりと擡げ、顔の傍に寄せられた彼の口元へと触れる。いつもならば頬にあたるはずだが、今指に触れるのは口元だろうか。口を縦に緩く縫い付ける糸が作り上げる浅い凹凸を、指の腹に感じられる。それを辿る様に頬へと指を伸ばすと、面持ちが更にイライの首元へと摺り寄せられた。
それによって、イライの手が自然と彼の頭にまで及び、それを切っ掛けにフードが頭から滑り落ちる感覚があった。口の横より奥へと手をやれど、耳らしきものには触れない。頭部にあるようだ。顔を覆うのは柔らかな毛で、人でないのだと明確に理解できる。
触れるごとに彼と異なる箇所を手に感じ得る。だのに、畏れる心がちっとも沸いて来ないことをイライは疾うに認識していた。数日前は体の芯まで底冷えするほどのおぞましさを覚えたというのに、今はどうしてだか同じような心地に陥らない。どころか、暖かな感情まで芽生えている。彼が、彼と似た甘え方をしたからだろうか。それとも、己の全身を覆い包む体躯から彼と酷く似た匂いがするからか。定かでない。ただ、探る様に触れていたイライの手が、いつしか愛撫するように撫で始めたことだけが明確だ。
「この前は、ごめん……私、驚いてしまって…」
「…………」
擦り寄る彼を撫でる内、謝罪は自然と舌へと登った。吃驚は事実だ。しかしリッパー曰く……そして今の彼の様子からして、彼は酷く落ち込んでしまったに違いない。互いに事情が解からなかったとはいえ、こうも縋られては悪いことをしたと思わざるを得ない。事実、イライが謝ったとたん、彼は腕の力をまた少し強め、ぐり…と鼻先を首元に押し付けた。少し苦しいくらいの抱擁になってきたが、甘んじて受けるべきだろうとイライは思う。耳の付いた頭を優しく撫でてやるまま、イライはこうも続ける。
「……寂しかった?」
少しの間があった。そして、声らしい声は返ってこなかった。けれどもイライは、彼の内情をよくよくと理解できたものだ。ぎゅう……っと、離さないとばかりに抱き締められる腕の力によって。そして摺り寄せられる毛並みの柔らかな口元によって。そこから零れた、くぅぅ……という弱弱しい声によって。全てを察せられた。同時。胸の底から鼓動と共に沸き出でる熱い感情と共に、イライは深く理解する。
「君は…間違いなく、ナワーブなんだね……」
笑む様に伏せた瞼の裏には、ナワーブの姿がある。草臥れ切ったとき。試合で数日会えず、ようやくふたりきりになれた夜。顔を隠すように後ろから抱き寄せ、首元に口を寄せ、縋るような抱擁によって声もなく感情を露呈する姿が、ありありと重なって見える。それだけで、イライには十分だった。それだけで、彼が愛すべき人なのだと思えた。