「君は保護されて然るべき存在だ。検査の結果、心身に多数の損傷が見られる。君の経過観察は私が請け負うことになった」
地獄の果てにしては随分優しいふりをされた。
「ナワーブ・サベダー。階級は大佐だ。君が良くなるまで、よろしく頼むよ」
僕を迎えた男は、こんな最果てに立っているくせにとても静かな顔をしていた。
夜明け前に目を覚ます。体に染み付いた癖は一向に抜けることなく、今日も今日とて僕の目は暗い天井を見た。瞼を下ろして、開けて、これをゆっくり三度繰り返してから体を起こす。一度目を開けてしまえばもう二度と夢の中に戻れないとは知っているので、これはてんで無駄な行為だ。でも「日々をゆっくり過ごせ」という命令があるから、念の為行なっている。この命令は実のところ命令なんかじゃなくて、随行できなくたって叱られないし打たれない。食事を抜かれたりしない。解っているのにどうにか熟そうとする。これも、癖の一種だ。
サイドテーブルに置いたタオルを持ってベッドを降りる。冷や汗だらけの体を拭うためのタオルだ。シャワーの水が床を叩く音で彼を起こしかねないので、いつもタオルで拭っている。でも今日と一昨日は夢を見なかったので、乾いたまま脱衣所に戻せる。これに、僕は安心した。昨日は夢を見て全身汗みずくのまま起きたから、使うしかなかった。
キッチンの照明を灯して冷蔵庫を開ける。最初の頃は、つまり、僕がここで暮らすようになって始めの頃は空っぽだった冷たい箱には、今や幾らかの食材とボトルが詰め込まれている。玄関に備えられた鍵付きのボックスには少し冷めた料理ではなく、原型を留めた野菜やら肉やらが収まるようになった。「料理の過程は脳と心の整理を効率よく行う効果がある」当時まだ新品同然だったキッチン道具の居所を説明しながら彼は言った「医者の受け売りだ。私には無用だったが、君は違うかもしれない」貴方に無用なのに? とは、聞かなかった。その頃、彼はまだ私や君という呼称を使っていて、僕も命令通りに従うばかりの人形だったので、僕は必要以上に口を開かなかった。ただ「はい」とだけ頷いた。この命令を、僕は今も守っている。これが命令ではなくお願いや提案だと、今はもう解っているけど、それでも従っている。脳と心の整理に役立っているのかはわからない。役立たなくても、続けたいと思う。
「サフィール」
声はいつもサラダを作り終えた頃に届く。僕は、実はその声を楽しみにしているので、時々聞こえなかったふりをする。「サフィ」と、二度目の声が聞こえたら必ず手を止めて振り返る。キッチンは二階に続く階段の側にあるので、降りてきたばかりの彼の姿がすぐに見て取れた。彼は僕の保護と観察の命を受けているので、僕のそばに来てくれる。「電気をつけなさい」言いながら、リビングの電気も全てつける。リモコンひとつで灯はついた。サフィール。もうずっと前に聞かなくなった名前を簡単に取り戻したみたいに、とても簡単に。
「つけていた」
「キッチンだけだろう。いつも言っているが、リビングもつけなさい」
「キッチンで十分」
「私のことは気にするな。いつもこの時間に起きるだけだ」
知っている。彼も僕と同じだからだ。体に癖が染み付いていて、瞼を閉じても開けても悪夢に苛まれている。それは目の下に滲んだ隈だとか、表情をなくした頬とか、腕の裾や襟元からはみ出てる皮膚がどこもかしこも傷だらけなところだとか、暗い色をした瞳だとか、色んなもので見つけられる。でも僕は、出来れば彼に長く寝ていて欲しかったし、悪夢なんて見ないで欲しかった。それにこの人の目は、暗い色をしていても綺麗だ。
「ハムと卵のサンドイッチ」
だからこれからも電気はつけない。そんな予感の代わりに、見逃してもらうに値する言葉を吐く。案の定、彼は一旦諦めてくれたらしかった。食器棚を開いて、マグカップをふたつ取り出して、ドリッパーも持ち出す。大きな手はみっつを軽々と持ち合わせていて、少し行儀が悪い。それをことことと軽い音を立てて後ろの方の台に置く。
「好物だ」
知ってる。とは、口に出さなかった。僕のこの気持ちが卑しいと知っていたから。もしかしたらバレているのかもしれないけど、わざわざ白状するのは気が引ける。この人は食べることが好きで、特にハムと卵のサンドイッチが好きだ。料理を勧められた僕が最初にこの簡素なサンドイッチを作ったとき、彼は大きな一口で次々に食べて「美味い」と頷いた。表情は全然変わらなかったけれど、その食べっぷりで言葉の真実は裏付けられていた。別の料理を作っても同じように食べたつまりは、こんな怪しい人間の料理を平らげるくらいに、食べることが好きなのだ。その中でもこのサンドイッチは一番多く食べるから、僕はよくハムと卵を手にする。ハムは切り分けられたものだし、卵を湯に入れるのも、具合のいいときに取り出してマヨネーズとあえることも、どれも慣れたものだ。昔からずっと作っていたものだったので、助かっている。
「おそらくだが、今日は早く帰れる」
珈琲の独特で香しい匂いが鼻頭を撫でた幾度目かのとき。彼は徐にそう言った。僕より多めに盛り付けたサンドイッチは、もうあと一切れになっている。サラダなんて疾うの前に食べ終えていた。食事が全て口の中に無くなることの喜びは途方もないのに、彼はもっと嬉しいことを言ってくれた。僕はちっとも動かない頬をそのままにしながら、何とか動かせないか考えながら、小さく頷いた。
「遅くなるようであれば連絡を入れる」
「気にしないで」
サンドイッチを飲み込んで言いながら、僕は、彼が続けて何を聞くのか知っていた。帰る時間を告げた後、彼はいつも同じことを聞く。
「何か欲しいものは?」
マグカップの取っ手を握り、傾けて、僕は考える。考えるふりをする。砂糖とミルクが溶け合った珈琲は、今日も今日とて僕の味蕾によく馴染んでいる。この家に住んでようやく見つけられた好みの味だ。屋敷に居たときには好きだとか嫌いだとかを考える暇なんてなかった。どんなものでも好きだと微笑んで、どんなものでも嫌いだと眉を顰める必要があった。だから、砂糖とミルクをたっぷり入れた、もう珈琲なんて呼べないものが好きということを、僕の頭も体も舌も、何もかも忘れていた。
この人が思い出させてくれた。
これ以上に欲しいものなんてない。
「牛乳、が」
「ああ」
「もう無いと思う」
「解った」
彼は頷いて最後の一切れに手を付ける。僕は内心とてもほっとして、まろやかで甘いそれを喉に通した。牛乳はいつも彼が飲む。沢山あって問題はないだろう。素直に首を横に振ると、彼はほんの少し悲しそうな顔をする。だから、この家のなんてことはない不足を僕は覚えるようになった。でもこれだって、バレてる気がする。この人は異様なくらいに敏い。そして不思議なくらいに優しいから、僕の嘘を見逃してくれる。
「欲しいものがあれば、いつでも言いなさい」
優しい赦しを、僕は頷いて飲み込む。甘受する。サンドイッチを手にして、口に運ぶ。甲を鞭で打たれない平和な食事を堪能する。外にいる鳥の鳴き声が聞こえる。レオンに話しかけてくれる鳥だ。僕たちの間には会話が少ないから、いつもこうして鳥の鳴き声が入り込む。この沈黙が、不思議と嫌にならない。焦らない。どうしてだか穏やかで、心地いい。
今日も、優しい日々が続く。
僕は、裁かれる痛みを待っている。