僕は多くのことを知り得ていたのに、自分のことは殆ど知らなかった。正しくは、知らないようにしていた。
「お前の目は驚くほどに多くのものを見つけ出す」
いつだったか、僕の片方の目を見詰めながら兄さまは言った。
「お前の目に映るのは広く大きな世界だ。そんな世界において、個人などという小さなものに囚われるべきではない」
その個人には僕自身も入っていたので、僕は僕を見つけ出すことを忘れていた。
「お前は、なんにだってなれるんだ」
あなたが望むなら何にだってなりたかった。
そうやって無謀に投げ出した僕を見つけたのは彼だった。
「趣向は個人を識別する為の重要な指標だ。仕事はあまり当てにならない。まずは、お前の趣向を知るべきだ」
まずという割に、この趣向を知るのに多くの時間が費やされた。僕は珈琲が好きか嫌いかも、別の何かが、例えば紅茶や水が好きなのかも含め、何も知らなかった。告げられる飲料の名称を前に、ただひたすらに沈黙を選ぶしかなかった。するとその後から毎日違う飲み物が出され、それが一週間と少し続いた。苦い珈琲、甘い珈琲。ストレートティーニミルクティー。眠る前は決まってハーブティーが湯気を立てていた。
最初は彼が手づから淹れていたそれらは後々になるにつれて僕が淹れるようになる。メロディー家の教育の賜物により、珈琲も紅茶も手際よく淹れられた。鞭を打たれなくなってからというもの、この淹れ方について僕に指示を出す人は誰もいなかった。のに、彼は時々指示を出した。「砂糖をもう少し入れてみなさい」だとか、かと思えば「そのまま飲んでみるといい」だとか、気まぐれにも思える指定が入った。鞭を伴わない指示は初めてで、告げる声は何処か柔らかい。
奇妙な命令に僕は従順と従った。この奇妙の皮の下にあった真実を、僕は一週間後に知ることとなる。
ある昼間、彼はマグカップを差し出した。僕の監視を命じられているために自宅待機が多くなった男の体に軍服はなく、白シャツとスラックスを纏った普通の男がいた。ただ傷跡のある手だけはシャツにもスラックスにも隠せなくて、あらゆる悲惨さを感じさせるその皮膚がどうしてもマグカップにそぐわなかった。
「観察と試行の結果だ。飲んでみなさい」
彼はそう言って対面に座った。マグカップと彼に向かい合いながら、僕は瞬いた。観察と試行。「君の好みだ」なんの? そう思った僕を察した彼は続けて言った。僕の好み。
「そんなものは無い」
正しくは、あってはならない。事実を言ったのに、彼は僕に眼差しを返してこうも言う。
「そのままの珈琲を口にしたとき、左側の眉尻が僅かに下がる」
「は?」
「砂糖を入れると元通りに戻る。ミルクを追加すると微かだが頬の強張りが解ける」
僕は黙った。並べ立てられたのは、何度も消そうとして消した表情達だった。美しいお皿と食事の前に鏡を置かれて、自分の顔を見ながら食べていた。うんと前のあの頃に、僕は恥ずかしさと悲しさと苦しさを一緒に飲み込んでみせた。だから消えていたはずなのに。
「どれも極僅かな呼応だったため、確信が持てない。出来れば君の感想が欲しい」
カップからは白くて暖かな湯気が立っていた。たぶん、それを持って口に運んだんだと思う。慰めみたいな言葉と同じ、甘くて暖かくて柔らかな味で味蕾が包まれていた。目のすぐ下に殆どカフェオレになっている珈琲が見えていた。僕は、何も言えなかった。美味しいというべきなのか、不味いというべきなのか解らなかった。なんの指示も任務もないからだ。感想なんて少しも言えなかった。
「もう少し甘くしてみよう」
言いながら、彼は席を立って台所に行った。何が見えたのかとても気になった。僕がどんなふうに見えていたのか。どの感情を消せばいいのか気がかりだった。これは今も教えて貰っていない。ただ、あのマグカップの熱さと甘さは覚えている。
ミルクと砂糖の入った甘い珈琲。あれはきっと、たぶん、僕の為だけに作られたものだった。