「よく来てくれたね! ささ、あがってあがって! ねえ、この前言ったお酒ちゃんと用意した? 七はお酒が好きなんだって、合うおつまみも持ってきてね~」
都内三百坪に建つ眩暈がするような日本家屋。門から玄関までの間にちらちらと見える蔵に収まっているものがおいくらなのか考えたくもない。庭にいる庭師はちょんちょんと松の木を整え、こちらに頭を下げる着物女性たちを雇う資本金も、考え始めると庶民の七海は目の前が真っ暗になりそうなので極力『無』になりながら手を引く男に従った。
家主の五条悟の言いつけ通り、机にはこれまた眩暈がするような高級酒が用意され、ここは竜宮城ですかと逃げ出したくなるようなつまみが山のように皿に並んでいた。そして本人はというとペットボトルに入った炭酸ジュース(ゲロ甘)をコップに注ぎながら美しい蒼い瞳で楽しそうに七海を見つめているのだから本当に居心地が悪い。
神様、私が何をしたというのですか。祖父に言われて連れていかれた教会でもう少し熱心にお祈りをしていたら自分の人生は違ったものになっていたのかもしれない。そんな幼少時代に遡るほどの懺悔をしながら、七海はカブに巻かれたカラスミを丁寧に口に運ぶのだった。
事の始まりは三か月前になる。
ブラックと言えばブラック。ホワイトといえばホワイト。つまり実力があれば早期退社できて間抜けならいくらでも徹夜ができる証券会社に勤めていた七海は後輩のやらかしたミスの修正をしながら社長に呼び出された。
「んでさぁ、相手はどうしてもナナミがイイって言うわけ」
「なぜ私がそんな怪しい顧客を担当しなきゃいけないんですか。怪しい人間は怪しい人間同士社長が相手にすればいいでしょう」
「いうよね~! でもどうしてもナナミじゃなきゃって言うんだもんよ。しくよろ! 一千万はとってきてよね!」
できたらシュークリームあげるから! そう言って去っていく色黒の男に隠さないため息を一回。七海は顧客名簿を持ち上げて目を通した。
『五条悟。勤め先、東京都立呪術専門学校。総資産……』
「怪しい」
そもそもなんだこの勤め先。新興宗教か。そしてこの年齢でこの資産。明らかに堅気ではない。
スマホで名前を入力しても出てこないのだから今流行りのベンチャー企業の何らかでもなければ資産家の御曹司でもない。ネット配信で稼いでるわけでもなさそうだ、この顔のよさなので芸能人なのかと思ったがそうでもないらしい。ならば一択、新興宗教だ。間違いない。
「めんどくさ」
二回目のため息。しかも何故自分なのか、それも意味が分からないしなにより怖い。けれどもこれも仕事なわけで。放り出すわけにもいかず七海は約束の三時になるまで再び後輩のミス修正に時間をかけることにしたのだった。
「やっほ~、この会社めちゃくちゃハイソだね。前面真っ白だし観葉植物すら気取ってるじゃん、ウケる」
子供でももう少し丁寧にドアを開ける。そんな乱雑さで部屋に入ってきたゲストに七海は立ち上がって握手をしようとした瞬間、鼓膜に叩き込まれるマシンガントークと聞くに堪えない軽薄そうな台詞に思わず顔を顰めた。
「あっはは、お前の顔もウケる。客にする態度じゃないでしょソレ」
「失礼しました。どうぞ座ってください」
飲み物は、と聞く前に「僕オレンジジュース、ガムシロップ二個追加で」という悪夢のようなオーダーをされて七海はため息を奥歯で噛み殺し内線で注文する。
「本日はお越しいただいてありがとうございます。当社ではお客様からお預かりした資金を融資し」
「あ、いいからそういうの。まあどうしようかなって、どれくらい預けて増やしてもらおうかな」
「通常ですとまずは全資産のうちこの程度をお預かりし、様子を見て増やすなり減らすなり見限るなりしていただく形ですね」
表を取り出して説明する間も五条は「ふ~~~ん」と全く耳に入った様子ではない。七海の中のナンダコイツメーターがぐんぐん伸びる中、受付嬢がオーダー通りのオレンジジュースを置いて去っていった。
「んー、なんか難しいことはわっかんねぇし、いいや。お前に任せる。どれくらい渡せばいい?」
そして丸投げ。七海は噛み殺してきたため息を耐えきれずに吐き出すと表をゴミ箱に投げ捨てた。
「……これは、私の持論ですが……私たちを信頼し少ない資産の中から預けてくださったお客様の資金から一万円増やすのと、貴方のような天上人の資産を一万円増やすのとでは明らかに後者の方が楽です。だから会社としては貴方のような方たちとばかり取引をしたいわけですがそもそもそれだけの資産がある人間はうちを使わなくても勝手に金が増えていくものです。だから基本的に私、資産家とのミーティングって無意味だと思うんですよね。五条様も今更百万円増えようが減ろうが痛くも痒くもないでしょう。なぜ私を指名してくださったのかはさっぱり分かりませんが、そんなにやる気がないのでしたら三億でもポンと渡してお帰りになったらどうですか。こんな時間を使うくらいならお困りのお客様へ時間を使いたいので」
怒って帰るかな。そうしたら社長がうるさいだろうな。七海は目の前でポケっとしている男を見つめた。
「これ、僕、怒られた?」
「怒ってはいませんが貴方の軽薄な態度に若干嫌気がさしたので投げやりな案を提示しました」
「……僕、怒られるの初めてなんだよね」
「それは大変失礼しました。あと怒ってはいません」
うん、うん。五条は誰もが押し黙るような美貌で深く頷いたあと、七海の渡したファイルから一枚の紙を取り出し、ボールペンで書き込んでいく。案外綺麗な文字を書くのだな、七海はそう思った。
「じゃ、七海の言う通り三億円。預けるね。お前の言う通り減っても別に痛くも痒くもないし好きに使ってよ」
「……は?」
「あとついでに今夜飯食いにいこ。もちろん僕も奢りだから。食べたいもの決まったらここにメールしてね」
さらさらと適当な紙にメアドを書き込んだ五条は立ち上がった。
「じゃ、終業時間にまた来るね。よろしく七海」
ヒラヒラと手を振って去っていく黒づくめの男を茫然と見送り、七海は空になった来客用カップと扉を交互に見つめるのだった。
それから三か月、七海はことあるごとに五条悟からプライベートな呼び出しを受けた。
渋るものの、社長や後輩含めた社員に「こんな太客をみすみす逃すんじゃない」と泣きつかれ、しようもなく行動を一緒にしていた。
それに、これは七海の美徳でもあり短所でもあるところだが、基本的に人のいい部分を見つけようとしてしまう性質が初対面の軽薄さを覆すほどの五条のよさを見つめてしまうのだ。例えばそれは笑った顔の美しさだったり、意外と人を助けることに躊躇がない姿勢だったり、案外人恋しい一面がある幼さだったり。いや、それを補って余りある下品さや調子乗りなところが散見されるが、耐えられないほどではないのだ。
だからずるずるとビジネスよりも濃厚な友人とも言えない奇妙な関係のまま、ここまできてしまったのだ。そして自宅へ招かれたのが冒頭の出来事だったのである。
七海より一つ上だという年齢に釣り合わない家。壁、柱、天井。使われた木から溢れる歴史にこの家がここ最近建ったものではないとすぐに分かった。それならやはりどこかの資産家の御曹司なんだろう。けれどもどれだけ調べても『五条』という名前は上がってこない。ならば、この男は一体何者なのか。
七海はお猪口に揺れる日本酒をちびちびを飲みながらまるでおとぎ話のような容姿の男を盗み見た。
仕事も何なのか結局分からなかった。呪術高専も、調べてもなにも分からず、書かれた住所をネットで調べても何故かそこの空間だけ切り取られたかのように表示されない。ある日急に現れ、三億をポンと渡してきた男。
「なぁに? 七海」
ニコリと笑う。風が起きそうなくらい長く瞳の周りを縁取るまつ毛。本当に、人間なのだろうか。
「……別に、なんでもないです」
化かされてるような気分にもなる。もしかしたらこの酒も料理もすべて葉っぱでできていて気付いたら森の中で狸とパーティーでもしているのではないかしらん。そんな気分にすらなってくる不可思議な屋敷。
「お手洗い、借りてもいいですか」
「いいよん、廊下の先に一か所だけ洋風になってる扉があるからソコね。さすがにぼっとんはイヤだから僕がここ取り仕切ることになった時にリフォームしたんだ」
はあ、そうですか。気のない返事をしてから席を立つ。
言われた通りの道順で歩くとなるほど、ふすまばかりの廊下に一か所だけ木製のドアがあった。そこで用を足してから戻ろうとした時、女性の声がして少し、歩みを止めてしまった。
『……悟坊ちゃま、どういったおつもりなのかしら』
『分からないわ、呪力もない男を連れ込むなんて』
『いえ、呪力はあるらしいわよ。でもまだ膜につつまれているというか、見えないだけで』
『それなら少しは安心ですけれど……男は、ねぇ?』
『問題ないわよ、ほら、あの呪具があれば孕めますもの』
『ああ、確かに。呪力が少しでもあれば男でも宿せますものね。顔はよろしいし、まあ、いいんじゃないかしら』
分からない。全くなんのことか分からないけれど。
(まずい、気がする)
第六感なんて信じてない、けれどこの家は、屋敷はマズい。本能が警報を鳴らす。
廊下を走って、走って、五条がいるはずの居間に「帰ります」と律儀に一声かけてから長い廊下を走る。襖を開き、玄関へ向かおうとして、気付く。
「こんなに、長かった……か?」
そうして、振り返るとようやく分かった。
終わらないのだ。廊下が。七海を中心にいつまでも伸びる磨かれた廊下。
「まだ帰らないでよ」
襖から声が聞こえた。そう思った瞬間、七海の腕は掴まれ、部屋の中に引き込まれた。