dreamless【まきおぜ】(尾瀬誕2022) うっすら暖色の灯りが見える。そう思った次の瞬間には目蓋を開けていた。頬に触れた風に違和感を感じたからだ。――ここは自分の家ではない。
目蓋を開ける際に感じた引っかかりが気になって中指の腹で目頭を擦った。上目蓋のと下目蓋の接地点に固まった粘着性を持った何かをバリッと引き剥がした感覚が残っている。いつものドライアイで目蓋の内側が張り付いた感じとは違う。
ここはどこだ…?馴染みは少ないが知っている場所だと直感していた。ぼんやりした視界からの情報は根拠ではなく、確信は背中に感じるシーツの感触とマットレスの固さ、かすかに部屋の空気に混ざる匂い。仰向けに埋もれた後頭部に感じる、柔らかさ。
「お、目ぇ覚めたか」
「私は……」
このころにはもう想定していた声が降ってきて、同時に鼻梁に眼鏡をのせていった。
「ミツ、お前飲み過ぎ」
横になったままリムを中指で押し上げて位置を調整する。
「ちょっと無茶な飲み方したんじゃねぇの?」
「店で酔い潰れていたと……?」
「ま、あの店だったしいいんだけどな」
そう、あの騒がしい店でひとり飲んでいたのだと思い出した。騒がしい割に置いてある酒のチョイスがいいから――つい、足が向いた。今日は好きな酒を誰にも気兼ねなく飲みたかった。愛飲のバーボンの後に好みのアイリッシュを煽ろうとしたら、どちらも置いているのがあの店だっただけだ。
男はシャワーを浴びてきたところらしく、頭からタオルを被ったままミネラルウォーターの透明なボトルを傾けてひと口ぐびりと飲んだ。反対の手が伸びてきて額にかかった髪を払ってゆく。柑橘とハーバルのボディソープの匂いが淡く香って、自分からも同じ匂いがすることに気がついた。どうやら記憶をなくしたらしいのにアルコールのにおいは呼気から微かに漂うだけだし先程払われた前髪もベタついた感じはなかった。
「私にも貰えますか」
ペットボトルを指差すと、待ってろと言い残して部屋を出て行く。灯りの少ない部屋で下着しか身につけていない後ろ姿のほとんどは闇に溶け込んでいるのにはっきりと筋肉の隆起が見てとれた。嫉妬を感じてしまうのは同性として仕方がないだろう。体格なんて個人差しかないと言っても過言ではないのに。それにあんな腰と背中と首に私のような思慮がのるわけがない。仰向けに、首だけ右に傾けて横たわっていた体を緩慢に転がした。よほど酷い体勢で潰れていたのだろうか、背中から腰が軋むように痛み痺れもある。そもそも今日は仕事をしている段階でかなり肩と首に痛みがあったことを思い出した。こめかみがズキッと痛む。咄嗟に指先で触れるがこれはアルコールのせいではない。何故なら昨日も一昨日も、朝からずっと感じていた痛みだからだ。ため息をついて痛むこめかみを揉んだ。
「ほいよ」
その気やすい声と自分の喉奥がヒッと音を立てるのは同時だった。目の横を抑えた指先の僅か上方にピタッと冷たいものが当たっていた。
「わりーわりー、驚かせたか」
「不躾な……!」
咄嗟に首を激しく振って逃れる。視線を上げれば爪の先ほども悪いと思っていない顔があった。ニヤニヤと口角を上げているのをキッと睨みつけざま体を起こして、ベッドのへりに腰掛ける。背中と肩と腰がまたひどく痛んだが無視した。長時間おかしな姿勢をとっていただけではなく歳のせいもあるか。平均寿命まで生きるとして、あと何十年かはこの体でやっていかねばならないのに先が思いやられる。自分で労っていかねば。私には私しかいないのだから。
なのに大丈夫か?なんて言って寄越す。世間では精悍などと評されるであろう男の顔が自分には憎らしい。気遣われたくなどない。生まれながらの〝群の王〟然としているくせに、独り離れて生きていこうとする者に構わずともよいものを。
払われたボトルを今度は手の甲に寄せてきた。表面の水滴を皮膚の細かな皴が吸い集めて濡れる。手のひらを返し素直に受け取って蓋をひねれば、軽快な音が少し湿度のある部屋の空気を揺らした。
「ミツんとこはさ、重要なわりに地味で理解され難いからしんどいよな」
投げかけられた言葉をうまく飲み込めず、視線を上げる。なんの感情も読み取れない視線とかち合い、眉と眉が寄って訝しげな表情になったまま口内の水をゴクリと飲み下した。
「……一体なんのことでしょう」
珍しく黙って、おそらくはこちらの返答を待っていたらしい男にとりあえずの言葉を投げる。聞いていたという事実が伝わるだけの簡素な言葉を。何を言いたいのかさっぱりわからなかった。伝える気があるのかないのか、思考スピードのままの言葉を投げられて困惑する。頭の回転が速いのは会話にストレスがなくて結構だが、あまりに端折りすぎてはただの暴投だ。
そんなワイルドピッチまがいの台詞でも誰にも踏み入られたくない部分の話題だということはすぐに察知した。〝ミツんとこ(私のところ)〟というのは私の我が社での所属、品質管理部のことだろう。そこまでわかった上ではぐらかした。こんなプライベートでしかない場所で仕事の話はしたくない。それほど長い付き合いではないが、この男はこれで話題を変える、そういう相手だと知っている。腹立たしいほど空気を読むのに長けているのはの対人スキルの高さ故なのだろう。生来のものか夜の街で慣らした結果なのかは私に関係ないし興味がない。冷えた水を口に含む。
しかし今日、意外なことにこの男は話題を引き下げる気が無いようだった。
ギッと音がしてマットレスが沈み、代わりにふわりと体が浮き上がって再度沈み、踵が床から微かに浮く。
「部外者の戯言と思って聞き流せよ」
驚きに目を合わせてしまってから、ふいっとあからさまに視線を外す。耳に蓋ができないのはなぜだ。苛々する。
下着だけ身に着けた己の下肢が目に入り、自然、眉間のしわが深くなった。腿とウェストにゆとりがある。肥え太った体は醜いし怠惰だが、貧相な体も見て楽しいものではない。滅入る気分に追い打ちをかけられてさらに不愉快だ。続けられる台詞がさらに不愉快を重ねながら鼓膜を叩き続ける。
「品質管理が作るのは会社の信頼そのものだ。営業を詐欺に落とさないのはミツがきちんと製品の出来をコントロールしてるからだろう。自分たちの製品の水準を維持するってのは身内に目を光らせることだから、面倒も多いよな。でもそれを手を緩めずに遂行するやつがいないとちょっとしたことで品質は地に落ちる。品質を落とすことは顧客への裏切りだ。たったひとつ、どんなに些細なことでも取り落としたら客は会社を疑うようになる。そんなものに金を出させた相手を……営業担当の顔を思い浮かべて、あいつに騙された、なんて言い出すやつだっている」
「……何が言いたいんです?」
「だが生産する側にしちゃ息の詰まることだもんな。軽微なミスのひとつもあっちゃあなんねぇなんてのは」
そこで区切り、隆起のはっきりした喉を見せつけて水を流し込んだ。
「でも、だからこそ」
口角をなでてゆく小さな水滴にルームランプの光が溜まって弾けるように流れ落ちていく。
「確実に遂行し続けることが、金で買えない信頼を生むんだ」
目頭が重くなった。体に滞留しているアルコールのせいかもしれない。頭の奥がドロリとまざって誤作動を起こして、思い出したくもない記憶なんかが引っ張り出される。だから嫌なのだ。他人と関わるのは。
『なんてことをしてくれたんですか⁈基幹システムで初期不良なんてしかもベータテストで先方が気になると言っていた箇所じゃないか担当者一人のチェックなんてチェックに入らないでしょうあなた達は子供ですか』
耳奥で幾分若い自分の声がする。被さるように再生される、かつての同僚の声。
『初期不良なんてよくあるでしょう。しかも今回のはバグみたいなものだ。千回処理を通して1回起こるかどうかの不良にそこまで目くじら立てる必要ないでしょう。もう対応済みなんだし』
過去の自分は、いやいやそうじゃないと首を振った。
『今回はその1回が正式版の試行期間にたまたまあたっただけで、運が良かったに過ぎない。いや、良すぎるほどの幸運だ。引き渡し後に発現していたらと思うとゾッとする。お前たちは何も感じないのか?その怠惰が蔓延したとき、うちの会社は終わる――』
そんな言い方しなくたっていいじゃないかとか。厳しすぎるとか。
言ったやつらのどれほどが私と同じレベルの危機感を有していただろう。
男の脇腹で孤高の獣が見つめていた。
「全体が正しくあるために自分が損を拾うんだな」
「……一体何の話をしている」
ハハッと愉快そうに短くて笑う。
「俺の、不器用なミツの話」
視界が暗くなったと思ったら眼前に男の顔が迫っていた。唇の上でリップ音が弾ける。こういうところが遊び慣れ過ぎていて喉の奥がムズッとする。シャンプーの匂いにイライラした。惚れた腫れたで騒ぎたいわけじゃない。この男相手にそんなこと冗談ではないが、卒がなさすぎるのにも掻き乱される。
「何考えてんの?ミツー……お前、無防備すぎな」
「何がですか」
「一人で酔い潰れるなんて、あぶねぇだろ?」
「私は男だし、この歳だぞ?」
「俺がお前に何をして、何をしたいと思ってんのか、いい加減におぼえろよ」
***
「う……ふ、あ」
腹這いにさせられて、爪の先で背骨の上を尾骨までなで下ろされる。
着くか着かないか、微妙な感覚に肌が泡立って仕方ない。
「ミツ、かーわいー」
私相手に可愛いなどとほざく。それはある意味通常だが声音がどうも苛ついている。
ふざけていないときのほうが珍しいこの男が怒っているらしい。そう気づいたのは腹筋の痙攣を抑えられず、のたうちながらたっぷり10分は経ってからだった。息をふぅふぅ吐きながら耐える。いや、耐えているのだろうか?翻弄されているだけの気がする。
「可愛いからご褒美な」
そういって無造作に尾骨の終わりの先に指を進めた。
ヌグッと入り込んでくる。何が、指先が。確かに何度か有り得ない方法で開かされたけれど、待て、今日はまだ慣らして――?疑問符が脳裏を占める。なのになぜ、お前の指はそう易々と中を探ってくる?
私の体が私を裏切っていた。無理矢理に沈められたはずの指は慣らしてもいない腹の中を縦横に動き回り、時おり腹側のビリビリする一点を嬲る。
「あーほら、腰うごいてるぞ。勝手にシーツで擦んなよな。中坊みてぇ」
「馬鹿ッ、ふぅウッ、す、きで、こんなことをしているわけ、ではッ…!」
反射的に跳ねてしまうのだ。
「ア、なぜ…なぜこんな、ハァ、ア」
根元まで差し入れられ、弱いところを押しつぶすように引き抜かれ、内腿が情けなく震えた。
「さっきまで挿入てたからさすがにやらけーな」
男の台詞に思考が停止した。
「前立腺も腫れてて触りやすいわ。ミツ、お前まだ出る?」
「ア、ぁあッ!」
喉が勝手に喘いでいる。小刻みに一点を揺らされて、思考も衝動も集約していく。ただ吐き出したいと。
「あー締まってきた。クソ、中に挿れてぇ…!挿れるぞミツ、待ってろよ」
指が引き抜かれる衝撃に目の裏がチカチカした。
「オイ、ちょっと前漏れたぞ。もう少し堪えてろよ」
背中が重くなる。広げられた尻肉の間が、自分でもわかるほど収縮した。それだけでも眉間を抑えたくなる。自分の体が不随意だ。なのによりおかしなことが起こった。なぜ、なんで私の体のこんな場所が、今日はそんなことをした記憶はないのに〝濡れている〟――。
「な、ぜ……なんでこんな、こんなことになってるんだ……?」
強い収縮に伴って奥から何か出てきた。腿を伝い落ちる独特の感じ。女性の場合はわからないが、男の体を持つ自分がこんなところわざわざ濡らすのは、受け入れる側で性行為をするためでしかない。
「ミツ、どした?」
「中が、中から……」
「あ?」
「なんでこんな、私のなかに、あの、あれが、」
「ローション?あれってなんだよ」
「いつの間にそんなものを入れたんだ‼︎」
「いつってそりゃ……」
両脚の上に乗り上げていた男に腰骨を掴まれた。また指で割り開かれる感覚。
中心にぬるついたものを擦り付ける。それが何かわかりすぎるほどわかっていることに動揺する。本来なら知り得ないはずなのに。
「さっき風呂場でつい抱いちまったときだな」
「つ、つい?つい、とは何だ⁈」
首を背中側に捻る。
「まさか私が寝ている間に……?そん、な、犬猫をか、抱える、ように、貴方、は、セックス、する、と、いうのかッ」
混乱と怒りか感情を支配する。だが体だけが悦んでいる。
呼吸を乱すのはその指先の動きひとつだ。小さな動きなのに、もう肺を握られているのと変わらない。
「……ミツが起きねぇからだろ」
「は?」
ぬぽっと音を立てて指が引き抜かれた。
「うッ」
「お前が俺の居ねぇところで愚痴って酔い潰れたりするから。俺を呼ばねぇからだろ」
そのまま――脚を伸ばし、うつ伏せの状態のまま挿入される。押し込まれると身体ごとマットレスに押し付けられる。抜き差しごとにかかる激しい快感はあっという間に思考を奪った。
「前、挟まれてぐっちゃぐちゃだな」
濡れて張り付いた感覚に言われて達していたことに気付く。気付くと同時にまた何かが溢れた。
「腰、揺れてんぞ」
なぜそんなに苛立っているのかとふと思った。芒洋とした感覚の中で普段とは違う部分が際立っている。こちらを揶揄う声音は変わらないが、今はその奥の余裕がない。
「……どう、した?何があッ……ヒッ、ァアッ‼︎」
腰を使われて声が漏れた。振り返ろうと首を捻っても真後ろにいる男の表情は端もうかがえなかった。
――酷い。酷い有様だ。体重をかけて抉られ続ける。脚の上にのし掛かられているから逃げ場もない。マットレスの上に伸びているしかなく、状況が状況だけに弛緩もできない。微塵もできない。
「妙な癖がついたら困るな」
――どれくらいだろう。揺さぶられて時間の感覚がわからない。腹の下に厚みのある手のひらが差し込まれ、腰が浮いた。
「俺の可愛いミツが毎回床オナみてぇに擦り付けるようになっちまったらよ……マジで可愛いけどな、ミツは困るんじゃねぇ?」
「なにを訳の分からないことを……!とにかく抜けッ!」
「やーだ」
力の入らない脚では膝で立つこともままならず、ただ不恰好に脚を折り曲げて潰れているような格好になる。
「子供のようなことを言う、なッ‼︎」
ゴツッと後頭部に固いものが当たった。すっかり憶えてしまった体臭。
「俺のいないとこで飲まないって約束しろ」
「ハァ?なにを馬鹿なことを、」
「俺、ミツのことわかってるだろ?他の奴らがわからなくても俺がわかってりゃいいだろ?仕事で納得いかねぇこともあるだろうけどよ、誕生日くらい俺の隣でニコニコしてろよ」
ぐっと体重の乗った腰が重い。
「――誕生日とはまさか」
あからさまなため息が耳の後ろを湿らせた。
「自分の誕生日も忘れちまったのかよ。流石に呆れるぞ」
「……特に用などないだろう」
「お前になくても俺にある」
「……もう祝うような歳では」
「俺が祝いたいんだよ」
「……どうしてそんなに固執するんだ?」
「バカだな、好きだからだろ」
「諦めろ、ミツ」
背後で薫が身じろぎ、深く繋がった部分がくちゃりと音を立てた。
「ぅああ……」
「ミ、ツ、ミツ……狭ぇ」
背中にパタパタと降り掛かってくる。これは薫の汗か。貴方は私なんかに必死になっているのか。
「ッァアアア」
「もうイク、イクぞ、ミツッ……!」
薄い膜越しに跳ねる体液の温度で他人の存在を確認するなど。――私を必死に求めて汗を垂らす相手など。そんなものを求めてきた人生ではけっしてないけれど。
「ッハ、ハァッ……」
荒い息を背中で聞く。こちらも負けじと肺が痛い。
「……ゆ、ゆるしたわけでは、ない……」
「え?」
息を整えながら肩甲骨の間に額を押し付けてくる。反射的に大きな犬のようだと思ったが、こんな躾のなってない犬は野良でも会ったことがない。
「眠っている私を犯すなんて犯罪まがいのこと……二度とごめんだッ!わかったら、そこをどけっ」
そそくさと横にずれてコンドームを外す男の背中が、確かに汗で光っていた。それを横たわったまま眺めていた。正確には、どこにも力が入るところがなくて横になっているしかない。
「明日だ……明日、一緒に食事をしてやる。それ以上はない、から、な……」
急激な睡魔に襲われて恐ろしいほどぐちゃぐちゃなベッドに沈み込んでゆく。
「は?ミツ?」
いけない。肉体的疲労がピークに達していて目が勝手に閉じてしまう。
「その、無駄に余っている体力で、私を風呂に入れておけ……不埒なことをしたら二度と……口を、きかん、ぞ……」
「おい、おいミツ?寝たのか?ミツ?」
肩を揺さぶられる。ああ、貴方は本当に忙しない。明日になれば相手をしてやると言っているのに。
「薫……」
とうに限界を迎えていた身体が強制的に睡眠モードに切り替わってゆく。
誕生日はこの一日だけだが、貴方との騒がしい日々は明日以降も続いていきそうだ。
そんな思考を最後に今度こそあたたかな眠りの中へと沈んでいった。夢など必要としない、目覚めるための眠りの中へ。
おわり