RELIEFもう一度、お前と話をしたい。
彼は……いや、悟はそう言って、私をその場から連れ出した。
そう言えばあれから10年の月日が流れたのかと、今更ながらに思う。
10年ぶりに悟の部屋に来たが、相変わらず物は少ないし、家に帰っているのかと思うくらい生活感がまるでなかった。
「あまり動き回るなよ」
「動いた所で何もできないから大丈夫さ」
「腕もなけりゃ呪力もないし呪霊も居ないからな。じっとしてな」
乙骨との戦いから2週間。殺されたと思ったこの命は、目の前にいる“最強の術師の気まぐれ”で拾われた。その気まぐれが終わる時、再び殺されるのだろう。現にこの身体は病院に搬送され、しかし満足な治療を受ける事も出来ずに出る事になった。別に理由を聞く事はしない。既に死んだ命。その延長線だ。悟の気が済んだ時に殺されるだけ。
「ふぅん、高専からは離れているんだな、ここ」
「……普段は高専の中に居る。ここは、休みの日に使おうと思って借りていただけ」
「だから生活感がまるっきりないのか。相変わらず、忙しそうだね」
本当に、あるとしたらテーブル、ベッド、ソファー、それだけ。テレビもない。
その唯一この部屋に色を与えているソファーに座ると、悟を見上げた。
「で、犯罪者である私を生かした上に、治療までしてここに連れて来たんだ。上層部にはこっぴどく怒られるんじゃないか?」
「いつも喧嘩だ。お前が気にするところじゃない」
思わず笑ってしまった。悟は「笑うところあったか?」とあきれた様に言う。
「いいや。ただ、話をしたいと言ってきた割には、話を終わらせてくるものだから面白くてね」
「……」
「ふふ、いいさ別に。これは君が生かした命だ。終わらせるのも好きにしな。私はそれまでのんびりさせてもらうよ」
そう言いながら、左手で身体を支えながらソファーに横になる。悟は更にため息をつきながら苦笑した。
「くつろぎすぎだっての、バーカ」
「君、もう少し食べたほうがいいよ」
「はぁ?」
この家に来て2日目の朝。昨日に引き続きご飯は彼が作った。服も彼から借りた。
「身長、私よりもあるくせに線が細いだろ。昔はがっつり食べてたのに、もう歳か?」
「うるせぇな、朝は食べない主義なんだよ」
「甘いのばっかり食べてるでしょ」
「う、」
目の前の白髪は、ばつの悪そうな顔をして、昨日の残りだった白米を口に運び始めた。
彼は何も変わってない、いや、“戻った”と言う表現の方が正しいだろうか。それか“戻りかけている”か。まぁ、1日経っても話を始めないんだ。彼をからかって遊ぶのも退屈しのぎにはもってこいだろう。
「で、今日は平日か?」
1日この部屋を見て思ったが、ここにはカレンダーも時計もなかった。そういう事なのかなとも思った。
「平日」
「学校は? 行かなくていいのか」
「休みを取ったんだよ」
「わざわざ? 別に、私の監視をする必要はないだろう。逃げたところで何もできないし、君にかかれば逃げ出した私を捕まえる事なんてそれこそ朝飯前の筈だ」
「まぁね。てか別にお前の監視の為じゃねぇっての」
少し言葉を濁した。
追及する事も出来たが、それはやめた。
「ごちそうさま」
「……ごちそうさま」
食事を終え、病院から貰っていた薬を取ろうと袋に手を伸ばすと、悟がそれを取ってくれた。中から薬も取り出し、置いてくれると水まで準備してくれた。
「優しいじゃん」
「昨日もしてやったし、昨日も同じ事言ってきたろ」
「ふふ。君の事だから、バカにしてくるかなっていう先入観が拭えなくて。あと数回は言うかも」
「うっせー」
薬を呑むと、ソファーの元に戻る。彼は基本座らないのか、近くに来る事はなかった。だからこそ堂々とそのソファーに横になって奪っている。座りたければ退けるだろうし、言葉で言うだろう。それまでは自由に使わせてもらうつもりだ。
「あ、そうだ悟」
「あ?」
「買い出し行くだろ。ついでに煙草も買ってきて」
「はぁ? 何言ってんだよ自分で買え」
「そうだなぁ、種類は……ま、何番でもいいや。好きな数字言ってきて」
「勝手に進めんなっての」
んじゃ、よろしく。
そう言ってソファーの背もたれから見える様に左手を上げてひらひらさせると、彼はため息をつきながら立ち上がった音がした。
「重傷のくせに煙草なんて吸ったら身体壊すぞ」
「もう壊れてるし、あと少しの命だろう? 好きにさせてもらうさ。そうだ、酒も追加で」
「ぜってーいやだ」
つーかお前、人んちだってのに堂々と我が物顔で居座りすぎなんだよ。それ、俺のソファーだぞ。
ぶつぶつ言葉が聴こえてくる。面白くて声を出して笑いそうになったがそれは堪えて、でも笑った。
「傑」
「ん?」
「そこから動くなよ。外にも出るな」
「わかってるよ。行ってらっしゃい」
小さく行ってきますと声がして、出て行く音が聞こえてきた。本当に一人で残されるとは思っていなかったが、だからと言って動くつもりもない。
「信用って程でもないんだろうけど」
何度か深呼吸をする。すると突然眠気が襲ってくる。薬の副作用である事は説明書に書いてあったので知っていた。昨日もこの薬の影響でほぼ眠っていた。
片腕がないんだし、満足の行く治療も受けてないんだ。強い薬を渡されるのは当然だろう。それに悟の言った通り、今の身体には呪霊どころか呪力もない。逆に悟の目からは逃げられるかもしれないが、逃げる事は出来ても生きる事はもう困難だ。勿論、逃げるつもりは欠片もないけれど。
「悟の気まぐれにいつまで乗ってあげる事が出来るかも、検討がつかないな」
ここまで来れば、最期まで乗ってあげたいところではある。悟が何を考え、何を思ってここに連れて来たのか、一体何を話したいのか……。別れたあの日、凡そ一言も言葉を返して来なかった彼が、一体何を言うのか。
まぁあとは、彼のタイミング次第、か。
気が付けば、意識を失っていた。
次に起きた頃には悟が傍で座っていて、部屋の電気が点いていた。
「起きたか」
「ん……お帰り」
寝すぎた? と問うと、「寝すぎ」と返ってきた。
「ごめんごめん」
「いいよ別に。無理すんな」
悟が手に持つスマホの画面には、仕事の依頼なのかびっしり文字が詰まったそれが表示されていた。
「仕事か?」
「うん。入れんなっつったのに入った。明日だけど」
「私のお陰で高専も手薄だろ」
「本当にそれな」
「いた」
額をグリグリと突かれてしまった。
「それなら、逆に今日は早く寝て、明日に備えな。疲労にやられてしまうと、私に殺されるかも知れないよ」
「馬鹿言え、手負いで死にかけてるやつに負けるかっての」
「そうやって言い返すからいけないんだ。黙って頷いとけばいいんだよ」
感情論で私に勝った事ないだろ。
そこまで言うと彼は「はいはいわかりましたよ」とスマホを床に置いて「ちょっと退いて」と立ち上がった。
「お、漸く」
「だからそれ、俺のソファーだっての」
「じゃあ温めておいてあげたよ」
「うっせ」
口だけは達者だな。そう言いながら、私の右隣に座った。
「……腕、痛くないか」
「うん」
会話はたったそれだけ。けれど何故か悟が隣に来ただけで懐かしくなって……それ以上はもう、いらなかった。
3日目。
知っての通り、今日は悟が居ない。いつ帰ってくるのかもわからないそうだ。
「あー……ここ、禁煙だったかな」
彼は出て行く前に私に煙草とライターを渡した。律儀に買ってきていた事に笑っていると、1本までだと言われてしまったので、仕方なくこちらも律儀に従う事にした訳だが。
「まぁいいや、ベランダ行くか」
そもそも煙草を吸わない人が喫煙が出来る部屋を借りる筈がないだろう。ましてやここ、あまり深く考えてなかったがそこそこ立地もいいのではないか。仕事で忙殺されている人には勿体ないくらい。
ベランダの鍵を開けて外に出る。そして壁に寄りかかると煙草を1本咥えて火を点けた。今日も晴れているが、まだ冬のそこは肌寒い。
「そう言えば年明けか」
ふと思い出したが、あの日から2週間以上経った今日は既に新年を迎えていた。それなのに彼は構わず仕事を振られている。休みの希望などあってないようなものなのだろう。今でこそ昨日言った通り私が人員を減らしてしまったが故に忙しいのだろうが、この部屋を見る感じ、そうなる前から忙しかったのだと思う。
「……結局、変わらないな」
悟を、守る為に……。
「!」
何かの気配を感じた。しかしそこに気付く前に右腕に激痛が走り、蹲ってしまった。
「はぁっ、はぁっ、」
痛くて痛くて堪らず、左手でそこを押さえた為に煙草が指から落ちた。何とか声を抑えてとにかく部屋の中に戻る。薬を呑もうかとも思ったが、そこに向かうのももう出来なかった。
次に目覚めたのは夕方だった。悟はまだ帰ってきていない。
「……最悪、熱あるな、これ」
身体がとにかくダルい。流石に腕一本ないので、その痛みから発熱するのは想定内ではあったが、あの痛みはかなりのものだった。まるで何かに刺激されたかの様。
「悟には、バレない様にしておかないと」
何とか身体を引き摺ってソファーに来た。ここで寝ていればとりあえず悟が疑ってくる事はない。ついでに言うと、呪力が戻ってないのでその辺に目をつけられる事もない。だからこそ痛いと言うのはあるかも知れないが。
とにかく気付かれたくなかった。何とか隠さないと。そう思った時に、今と変わらない昔の自分の姿を思い出した。
「……お互い、ひねくれてるからかなぁ」
討論と我慢対決は、負ける気がしなかった。だからこそその時は考えもしなかった。
あの日、言ってみればよかったのに。
悟に、相談してみれば、よかったのに。
それは、悟から離れて10年の間に何度か考えた事。何か違う未来があったかも知れないと、精一杯やると誓ったその道が変わっていたかも知れないと……そこまで考えて、いつもその先を考える事を止めていた。きっと心のどこか奥底で今の自分が壊れてしまうと思っていたのかも知れない。
今更また思い出してそれを悔いる私も相当なひねくれ者だし、悟も相当な上にお互い馬鹿みたいに負けん気が強かったから。
「あの時の我慢対決、その延長戦って訳か」
と言うかあの時の事を多少なりとも後悔してるなら素直に言えって話なんだけど。でもいいでしょ、悟も話したいなんて言いながら黙ってるし、そこまで長くない命な上に私は犯罪者で敵なんだし、黙って死んでも、もう誰も困らない。……あ、誰もは言い過ぎか、悟は困るな。少なくともいわく付きの部屋にしてしまう事に対しては困るか。まぁ悟は金持ちだし私からは呪いは生まれないし、いいか。好きなだけ困らせてやろう。
そんな事を思いながら意識を飛ばして、次に起きた時は真っ暗闇で悟はまだ居なかった。今日は泊まりなのかもしれない。
もし万が一帰ってきた時に食べる物をとは思ったが、そもそも身体は相変わらずまともに動かないし熱もあって呼吸もきつい。せめて出来る事とすれば、寝室に移動しておくという事くらいか。
「薬は諦めるか」
まさかこの痛みが一日を潰すとは思わなかった。しかも悟も帰って来ない。
何とか寝室に移動した。真っ暗なそこは何故かとても安心する。けれど、
「っぐ、ゥ、」
薬も呑めなければ朝以外口に食べ物を入れていない。ただでさえ体力がないのに、これ以上の痛みを耐える事なぞ出来る筈もなく。
ベッドに横になった途端、まるで身体を鈍器で殴られたかの様な痛みが走るとそのまま意識を手放した。
……身体が温かい。きっと、悟が帰ってきたのかも知れない。
ゆっくり目を開くもそこは暗く、代わりにドク、ドク、と心音が聴こえてきた。
「……えっ」
見上げると、悟は私を抱き締めた状態で眠っていた。
「悟……」
君は本当に馬鹿だなぁ。無下限まで切っちゃってさ。同級生だったとは言え敵だよ。心を許しすぎなんだ。
でも……。
「温かい」
悟が声に気付いたのか、動き始めた。
「傑」
「!」
優しく抱き締められて、尚更心音がしっかり聴こえてくる。
「お帰り、悟」
「……ただいま」
苦しくない? と聞かれて小さく頷いた。
「いつ帰ってきた?」
「さっき」
「明日は?」
「仕事」
「そっか。しっかり寝ておきな」
左手を伸ばして、そっと悟の頭に触れた。優しく撫でていると彼の呪力が再び落ち着いた。眠ったのだろう。
「おやすみ悟」
さて、あとは。
起こさない様に身体を起こす。体温が戻ってきたお陰で痛みは引いていた。そのまま寝室を出ると、ソファーには彼が着ていた服が掛けられてあった。本当に帰ってきてすぐなのかも知れない。
「……呪力も荒れてる……無理やり帰ってきたな」
私が居なくなるとでも思ったか、それとも。
「あまりいい流れではなさそうだ……」
悟が黙っている以上何も分からないし、恐らくそれを知らされる事もないだろう。が、あの気配の事は伝えておいた方がいいか。
テーブルの傍に行き、悟が昨日買い出しで買ってきていたパンを食べて薬を呑んだ。彼の気まぐれで延びた命とはいえ、彼に負担になる事は出来るだけ避けたい。
再び寝室に戻ると先程の場所に来た。悟は静かに眠ったままだ。少々気を許しすぎなのではないだろうかと思う程に。
4日目。
正直、この日は一番地獄だった。悟が仕事で出ていたのが救いだったと思う。
昨晩遅くに薬を呑んだ事で、悟が出る時間は眠ったままだった。が、今となってはそれが良かったのか悪かったのかわからない。そのお陰であの件を伝えるどころか腕が本気で痛い事すらも恐らく悟は知らないと思う。とにかく起きてから猛烈に襲ってきたその痛みは、正直異常としか言えない程に苦しく、辛かった。その時思ったのが、誰かに命を狙われている、だった。いや、誰かになんてよそよそしい、間違いなく高専の、呪術界の人間の仕業だろう。
「悟……君の願いは、言葉は、いつも誰かに捻り潰されている」
五条悟。その名はとにかく大きい。与える影響力も、そして恐怖も。
「それでもこの世界で生きる理由は、一体なんだ」
どうしたら、悟を、
再び腕に痛みが走る。しかしその痛みに耐える事が出来ずそのまま意識を手放した。
――すぐる、おい、すぐる!
声に呼ばれて目を覚ますと、そこには悟が居た。
「さとる……」
「その腕、いつから痛んでたんだ」
「……昨日から、……かな」
ああ、これは完全に気付かれたか。こんなに焦った顔をして。にしても久しぶりにこんな顔を見たなぁ。
「痛かったなら早く言えっての」
心配そうに言うその表情。思わず腕を伸ばして悟の頬に触れた。
「!」
「一緒に寝ないか、悟」
「……」
疲れているのが見て取れる。だからこそ、心配だった。自分の事よりも彼の事の方が何倍も心配だった。これは昔からだ。
彼は大人しくその言葉に従ってベッドに横になった。
「悟、君に聞いておきたい事がある」
「なに」
「外に居たあれはなんだ」
「……」
彼は小さく「監視だろうな」と呟いた。
「まぁ、私を生かす事について、同意を得られていない事くらいわかってるよ」
「……」
「どう言う意図を持って私を生かしているのか、わざわざ治療までしたのか。君は、犯罪者を生かして匿うその行為の重さをしっかり理解しているか」
「……わかってるよ、それくらい」
じゃあ何故。とは言えなかった。思った以上に悟の口から出たその声音が悲しみを含んでいたから。きっと彼には思うところがあって、だからこんな事をしているのだろう。話がしたかった、その言葉を彼のタイミングで実行したいと。けれどやはり今はその時ではないらしい。
焦らされているとは特に思わなかった。悟が意味の無い行動をしない事を知っていたから。
「傑」
身体を引き寄せられ、抱き締められた。すると同時に身体が温かくなった。久しぶりに感じたが、これは悟の無下限だ。
「ふふ……君の敵を、君の懐に入れちゃあダメじゃないか」
「……呪詛師だったお前はあの時死んだ。俺は今、夏油傑と一緒に居るんだ」
「!」
それは“始まりの言葉”。
その言葉は私を“かつての自分”に戻すには十分すぎる言葉だった。
「ごめんな、傑……話したい事いっぱいあるのにさ……」
嗚呼、きっと悟も、本当に大変な日々を過ごしてきたのだろう。
「悟のタイミングに任せるよ」
私が途中で居なくなったのだから、しかもあんな別れ方をしてしまったし、尚更かも知れない。
「いっぱい聞いてあげるから、だから、負けるな」
「うん」
思わぬ形で“戻った”。でもこれでいい。
「ほら、ゆっくりおやすみ。また明日」
「おやすみ」
私達はこれから、あの日の話を始めるんだ。
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