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    こにし

    @yawarakahonpo

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    こにし

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    オーエンと真木晶のSSです。ピクシブに載せていたものです。
    CP要素はありません。
    晶がオーエンの裸体を見る、オーエン→晶および晶→オーエンの軽めの肉体的加害描写があります。

    痕跡 オーエンの産まれたままの姿を、私は一度だけ見たことがある。
     任務から帰還し、手土産の菓子を持って彼の部屋へと赴いた時の事だった。いつもという訳でもないが、甘い菓子を見かけるとオーエンの顔が浮かび、つい無意識のうちに手が伸びてしまうのだ。彼はまるで初めから自分のものだとでも言うような態度で受け取るのだけど、私が選んで渡したものをおいしそうに頬張る姿を見るのはなんとなく気持ちが良かった。本人にそんなことを言えば間違いなく機嫌を損ねてしまうだろうから、これは私だけの密かな愉悦だった。
     コンコンと扉をノックし、返答を待つ。居ても居なくても返ってくるのはいつも決まって沈黙で、彼に対してのそれは「入りますよ」という合図のようなものだった。ノブを回し、鍵が掛かっていたら大人しく自室に戻る、開いていれば恐る恐る入室を試みる。運良くと言うべきなのか、その日は後者だった。
     ゆっくりと扉を開くと、廊下の薄明かりが室内に射し込み、その光の筋は煌々とひとつの人影を照らした。人影は一糸纏わぬ姿で、こちらに背を向けたままぼんやりと立っている。扉が開いたことには気付いていない様子だった。
    「オーエン?」
     名前を呼ぶと、彼は首だけでゆっくりとこちらを振り返る。燃えるガーネットの様な瞳に射抜かれ、私はその場に立ち尽くした。
    「さっさと閉めて」
     オーエンの指摘に、慌てて中へ入って扉を閉める。室内はテーブルの上に置かれたランプだけがぼんやりと点っていて、部屋全体の輪郭が曖昧な感じがした。オーエンの足元には見慣れた着衣が乱雑に脱ぎ散らかされている。皺になってしまう、と思ったが口には出さなかった。
    「何の用」
    「お菓子を……渡そうと思って」
    「ふうん。早くこっちへ来たら」
     彼は事も無げに素足で衣服を踏み、ついに身体ごとこちらへ向ける。裸体のオーエンを前に、私は不思議と異性のそれを見た時のような、衝撃や羞恥のようなものが湧いてこない事に驚いた。それは彼自身が毅然としているからかもしれない。赤ちゃんや動物を見ているのと同じような感覚だった。
     私は彼の目に吸い込まれるように歩き出した。重厚感のあるカーペットの毛が踏みしめる度に靴底をごわごわと撫でる。そうして一歩一歩、確実に、産まれたままの姿をしたオーエンの元へと歩みを進めた。やがて彼の眼前に辿り着くと、右手に握った菓子の紙袋を差し出そうとする前に、魔法によってそれを奪われる。あっ、と声をあげた頃には、既に中身が彼の掌に収まっていた。
    「これ、何?」
    「メレンゲクッキーです。白くて、犬の顔が描いてあって、あなたのことを思い出したので」
    「へんてこな顔」
     筒状のプラスティック容器に詰まった犬のメレンゲクッキーを、オーエンはしげしげと見つめている。少々安直だった気もしたが、嫌という訳ではなさそうな様子に安堵した。そうしている内にポンと間抜けな音を立てて蓋が開けられ、中身はみるみる彼の口の中へと吸い込まれてゆく。やがて私の手元に押し付けられた空の容器には、ひと欠片も残されていなかった。唇を舐める彼の表情が満足気であることが私は嬉しかった。
     色彩の異なる目、赤い舌と唇は、オーエンの生白い肌を際立たせている。最低限の筋肉だけをたたえ、骨と血管がところどころ浮き出た彼の肉体には、傷や痣のひとつも付いていない。それは精巧な造りの蝋人形を想起させた。
    「弱点でも見つかった?」
     僕のからだ。低く鼓膜を擽る囁きに、思わずびくりと顔を上げる。目の前に居るのに背後からにじり寄られたような心地だった。オーエンは薄い唇に弧を描き、値踏みするような目で私を見下ろしている。
    「綺麗だなと思って」
    「なにが?」
    「その、あなたの、皮膚が」
     視線を合わせながらも、オーエンの質問にたどたどしく応える。言葉を選んでいる余裕は無かった。直後、彼はニコリと笑い、指を鳴らして一瞬で着衣を纏った。
    「気持ち悪い」
     直球で、たっぷりと侮蔑の含まれた言葉。私は少しばかり気持ちが曇るのが分かった。彼の物言いには慣れたつもりでいるものの、突き放されていることが分かった瞬間は感傷に駆られるのを止められない。
     すみません、という言葉が無意識のうちに口をつく。覇気のない声に苛立ったのか、オーエンはつまらなそうな表情を浮かべている。私は気まずくなり、空の容器を紙袋にしまって、部屋を後にしようとした。けれども、それを見越したかのように彼が口を開くのが先だった。
    「確かめていたんだよ」
    「え?」
    「僕の痕跡」
     そう言いながらオーエンはソファに深く腰掛け、私にちらりと視線を寄越した。座っても良いということだろうかと解釈し、ごくりと唾を飲んで彼の隣に腰を落ち着ける。厚い皮のクッションは存外柔らかく、私の体を丁寧に受け止めた。
    「僕のからだ、死ぬと新品になるんだ」
     面白いでしょう。くつくつと肩を揺らしてオーエンは笑う。同意を求める彼に、私ははあ、そうでしょうかという曖昧な言葉を返すことしかできなかった。
    「面白いよ。人の体って、普通は傷が残っていくものだろ? 痛いのも、見せられないくらい恥ずかしいのも、ずっとそのまま。僕はいつだってその痕跡を消すことができるのにね」
     オーエンは長い脚を組み、頭上に掲げた手の甲をじっと見つめている。淡い照明の光に照らされた彼の青白い手は透けて見えるような気がした。にきびや切り傷のひとつさえない彼の肌は、ともすれば造りもののようだと言えるのかもしれない。そう考えると、一抹の寂しさが胸を過ぎるような気がした。
     言葉を終えたオーエンは、返答を待っているというよりかは、ぼんやりと思考に耽っている感じがした。誇らしげに話した特異な体質について彼が本当はどう受け止めているのか、私には分からない。けれども、それは他ならぬ彼自身が理解できていないのではないかという気がしてならなかった。だからこうして、訪れ人である自分に問いかけてみたのかもしれない。オーエンは彼自身の本質に関する答えを、他人に求めるところがあるのだ。
     気の利いた言葉が見つからずに沈黙が続く。静かな夜だった。時計のない部屋は物音ひとつ立たず、空間そのものがひどく閑散としている。耳を澄ませば心臓の鼓動や、血の循環する音すら聞こえてしまいそうだった。目を瞑って鼓膜を震わせる。聞こえてくるのは己の胎動ばかりだった。私は思わず、生を確かめるように、彼の手にそっと手を伸ばした。するとすかさずぱしんと音を立てて弾かれ、手の甲が熱く赤く腫れた。
     視線が交わる。獣のように獰猛な、それでいていつも見えない何かに怯えているような、冷たい眼光。その瞳孔の奥を、私は探るように覗き見る。
    「僕に触らないで」
    「残したい傷だってあるかもしれません」
    「へえ。どんな?」
    「この手の痛みだって、私は、あなたが私を拒絶した証として忘れたくありません。嫌でしたよね。不用意に触ろうとしてすみませんでした」
     オーエンから目を逸らしてしまわないよう努め、私はようやく言葉に応じた。彼の瞳がぴくりと見開かれる。それは傷心したような顔だった。こわごわと、未知のものに触れて慄く幼児のようだ、と私は思った。
     突然、手首がオーエンの細長い手の中に捕われた。わっと情けない声が上がる。そのままぎりぎりと骨が圧迫され、私は身を捩って痛みから逃れようともがいた。
    「あっ、痛い、いたっ……」
    「これでも同じことが言える?」
     クーレ・メミニ。耳慣れた呪文が囁かれる。次の瞬間、手の甲に尋常でない痛みが走り、咄嗟に捕らわれているのとは反対側の腕で口を抑えて悲鳴をあげた。全身の毛穴が開き、ぶわりと嫌な汗が吹き出る。神経がいやに研ぎ澄まされ、脳は痛覚に集中することしかできない。他の事を考える隙を、オーエンは私に与えたりなどしなかった。
     痛い。痛くて堪らない。小学生の頃、彫刻刀でざっくりと指を切ってしまったのを何十倍にもしたような痛み。涙や鼻水や涎が溢れ、体液で服が濡れる。時間にすると十秒にも満たないものが、永遠に続いているかのように思われた。笑い声が聞こえる。私の悲鳴を聞いたオーエンの笑い声だ。心底愉快で、楽しそうで、そして安心したような響きだった。
     長い長い拷問の末、私の手はあっさり開放された。重力のままにソファへと倒れ込む。ぼんやりとする意識で離された手の甲を眺めると、そこには横一文字の深い傷が刻まれていて、裂けた皮膚のあわいから赤い血がだらだらと流れ出ている。自分の血を見るのはいつ以来だろうという場違いな思考が浮かんだ。痛みから逃避しようとしていたのかもしれない。魔法使いたちが血を流す姿は何度も見てきたが、守られることが多いからか、自分のそれを見るのは随分久しいような気がした。
    「可哀想な賢者様。今日ここへ来ようなんて思わなければ、こんな目に遭わずに済んだのに」
     痛みと衝撃のあまり熱くなった鼓膜に、わんわんとオーエンの嘲笑が反響する。私は倒れ伏した状態で彼の顔を見上げた。涙でぼやけていて表情がよく見えないが、左右の瞳が宝石のように光っていた。
     可哀想な賢者様。その言葉が脳内で何度も巻き戻っては再生される。その度に腹の中でふつふつと怒りが湧いた。理不尽な仕打ちなんかよりもずっと、彼が私を一方的に哀れんで可哀想だと言ったことの方が許せなかった。震える顔を上げ、上目でオーエン目を睨みつける。目が合うと、彼は口の端を上げたまま嘲笑を止めた。その目は何だとでも言うように見下ろしている。
    「なんだよ。はやく誰かのところへ泣きつきにでも行ったら」
    「かわいそうじゃ、ないです。あなたがしたこと、私がされたこと、勝手にかわいそうだと決めつけないで」
    「は?」
    「オーエンだって嫌でしょう。それが嫌だったから、私を攻撃したんですよね」
     鼻をすすり、ゆっくりと体を起こす。耳は熱いままだったが、涙を拭うと視界がはっきりとした。零れそうなほど見開かれた目。わななく薄い唇。それは怯えた様子でこちらを伺う猫のようなかんばせだった。あんな事をされた直後なのに、私は自分でも不思議なほど彼のことを怖いとは微塵も思わなかった。
    「だから、構いません。一生残るものだったとしても、私は今日を忘れないために、今日の痕跡を消したくない」
     震えて力の入らない手を懸命に動かし、傷口をオーエンの眼前に晒す。ぽたぽたと垂れる血液が白いソファと彼のスラックスに染みをつくっている。私は構わずに掲げ続けた。オーエンの焦点が私の傷口に当てられている。血の滴る音とオーエンの息遣いとが、交互に静寂を打ち消していた。
     どれくらいの間そうしていたのかは分からない。ふいに、オーエンが呪文を唱えた。すると傷口がかあっと熱くなり、私はまた悲鳴をあげそうになりながらもそれを必死に堪えた。けれども予想に反し、痛みはいつまで経っても伴わない。驚いて熱をもった手を確認すると、裂けていた皮膚が縫合されていた。
    「おまえが消したくないって言うから、僕はそれを邪魔してやった」
     顔を上げると、私の目論見を潰えてやった、としたり顔のオーエンがそこには居た。もう一度傷口を見遣る。彼は治癒魔法が不得手なはずだった。実際、それは治癒魔法なんかではなく、本当にただ皮膚を縫い合わせただけのもので、内側が赤く盛り上がってみみず脹れを起こしていた。ひりひりとした痛みの余韻があり、血の跡だって残っている。
    「僕とおんなじにしてやった。痕跡の残らない、僕のからだ。誰も僕に傷を付けることなんてできやしない」
     ねえ、賢者様……オーエンはソファから立ち上がり、テーブルの方へと歩いていった。引き出しから何かを取り出している。やがてこちらへ戻ってくると、手の中のものを私に差し出した。握らされたのはナイフだった。
    「同じこと、僕にもやってみせて」
    「同じこと?」
    「そう、さっき僕が君にしたのと同じこと。賢者様の手でやって」
     ナイフを握ったまままごつく私の手を引き寄せ、その刃先を彼の左手の甲へと突き立てる。先端が肉に食い込み、玉のような血がぷつりと顔を出した。抵抗しようもオーエンの手には力が籠っていて、それは恐らく私が彼の言った通りのことをやるまで、緩まることがないだろう。
     息を飲む。それから私は、意を決してゆっくりとナイフを動かした。皮膚と肉がミチミチと避けてゆく。切れ目を入れた所から血が溢れ、銀色の刃先を染める。彼の血の赤は私の意識をくらくらさせた。気持ちが高揚しているのが分かる。慣れない体験がそうさせているのだろう。
     オーエンは唇を噛んで声を堪えている。まなじりがピクピクと動き、その度に長い睫毛が揺れるのをどこか他人事のように傍観した。
    「ゆっくりやる方が痛いんだよ」
    「あっ、そうですよね。すみません」
     オーエンの言葉を受け、私は思い切って一息に切り裂いた。刃先から勢いよく飛び散った血がカーペットやベッドを汚す。無意識のうちに息を止めていたのか、脳が酸素を欲して急速に呼吸を荒くした。ナイフを握った手のひらは汗でぐっしょりと濡れている。
     呼吸を整え、オーエンの方を見遣る。彼は呆然と裂かれた手の甲を眺めていた。やがてさっきと同じようなしぐさで、ゆっくりと、傷付いた方の手を頭上に掲げて透かしてみる。滴った血液が彼の顔を汚した。彼の本来の目と同じ色をしていた。
    「死んだら消えちゃうちっぽけな傷。君が僕に残せる痕跡なんてこれっぽっち……」
     私の手からナイフをつまみ上げる。彼の手の中でそれは塵となった。
    「なら、死なないでください」
     私の言葉に、オーエンがぎょろりとこちらに視線を寄越した。私は今度こそ彼の手を取り、こちらへ引き寄せる。「手当しましょう」
    「要らない。余計なことするな」
    「でも、痛いでしょう。私は痛かった」
    「僕はおまえとは違う!」
     握った手を弾いてなぎ払われる。さっきと同じ光景だった。けれどもその時のオーエンは、ナイフで傷を付けた時よりもよっぽど苦しそうな顔をしていた。破裂寸前の風船のような緊張があたりを包む。殺されてしまうかもしれない。
     そう覚悟した直後、オーエンの表情がぎくりと強ばった。がくんと俯いたかと思うと、落ち着かない様子でキョロキョロと周囲を見渡し、ようやく気が付いたように、自分の手の甲に視線を落とす。すると、彼は声を上げてわっと泣き出してしまった。
    「痛い! 痛い! 痛いよお!」
    「オーエン……」
     わあんわあんと幼いオーエンの声がこだまする。私は慌てて彼を抱き締め、肩口に顔を埋めるよう頭を手で押し付けた。このまま騒ぎ立てると、異変に気付いて誰かが来てしまう。それはオーエンがこの魔法舎で最も危惧している事態だった。このフロアにはオズ、ブラッドリー、それにスノウとホワイトの部屋がある。事情を知っているのはスノウとホワイトだけだった。
    「大丈夫、大丈夫ですよ。すぐに手当をしましょうね」
     安心させるように背中をぽんぽんと撫でると、オーエンは必死に首を縦に振った。救急箱を取りに部屋へ戻るので待っているよう伝えたものの、彼は一人にしないで、と言って聞かなかったので、手当は私の部屋で施すことにした。
     いつ元の彼に戻るのか分からずひやひやしていたが、結局その夜はずっと幼いままだった。大人しく手当をされ、頑張りましたねとチョコレートを渡すとニコニコ笑いながら包帯を巻いた手や口を汚してそれを食べた。
    「また怪我をしたら、白いの巻いてくれる?」
    「はい。でも、あんまり怪我しないでくださいね。痛いのは嫌でしょう」
    「いやっ、痛いの怖い」
     幼いオーエンは目を潤ませ、ぎゅっと私に抱き着く。私は昔母がしてくれた手つきを思い出しながら、彼の背中を摩った。
     それから絵本を読んでと強請られ、ベッドの上に隣合って座った。読み聞かせてやるとそのうち瞼が降りてゆき、オーエンは眠ってしまった。痛みによる疲労もあったのだろう。肩に寄りかかってすうすうと寝息を立てている。温かな彼の体温は私の眠気を誘った。
     風邪を引いてしまうといけないと思い、なんとかオーエンを布団の中に寝かし付け、その隣で私も眠ってしまうことにした。彼の事情を知っている魔法使いの部屋を訪れてソファを使わせてもらうことも考えたが、もう夜半も良い時分で、さすがに誰かの部屋の戸を叩くのは気が引けた。それに、今のオーエンをひとりきりにする事もできない。朝、目が覚めたオーエンがこの状況をどう判断して自分がどんな目に遭うのか想像しようとして、やめた。起きてから考えようと思い、私はそのまま眠りについた。



     翌朝、オーエンは忽然と姿を消していた。部屋の窓が開いており、穏やかな風にカーテンがヒラヒラとたなびいている。ベッドには痕跡ひとつ残されていない。てっきり問い詰められるものだと思っていたから、何だか拍子抜けしたような気分だった。いつも通り身支度を整えて食堂に向かったものの、そこにもオーエンの姿は見当たらない。とは言っても、彼は毎日顔を出している訳でもないので、それは別段気に留める程の事ではなかった。
    「オーエン? さあ、見てないのう」
    「昼間は大体出かけているが、行き先を告げたことはないのじゃ」
     そうお利口なタマではないでの。朝食を相席したスノウとホワイトは口を揃えてそう言った。言葉の最後にほほほと笑い、エッグベネディクトを頬張る。
    「あやつと何かあったのか」
     世間話をするような声色でスノウが問いかける。それが彼なりのさり気ない気遣いであることを、私は知っている。オーエンが何かと私を突っついてなじるのを、彼らはいつも気にかけてくれているのだ。
    「その……昨晩、傷のオーエンが私の部屋へ来たんです」
     食堂には彼の秘密を知らない魔法使いが大勢居るため、努めて声を潜める。言うべきかどうか迷ったが、元のオーエンとの顛末は伏せ、幼い彼に関してのみ打ち明けた。スノウとホワイトへのこまめな報告は、もしかすると、奇妙な傷を治すきっかけに繋がるかもしれない。
    「そうじゃったか。そなたは良く眠れたのか?」
    「はい。ただ、朝になったらもうオーエンは居ませんでした」
    「どういう顔をすれば良いのか分からなかったのじゃろうな。あやつはああ見えて、案外繊細なところがある」
     ホワイトの用いた繊細という言葉は、昨夜の彼を的確に言い表しているように思えた。記憶の中で最後に見たオーエンの姿を思い浮かべる。刺すような不揃いの目。歯を食いしばってふるえる唇。なにかに怯え、与えられたものをすべて拒絶する手のひら。己を脅かすものの正体を、彼は知らないまま憤っている。自覚することを恐れているのだ。それはつまり、弱さを受け容れるということになる。孤高であろうとする彼の矜持はそれを許さない。
    「ところで、賢者ちゃん。手を怪我したのか?」
     思考に耽りながらオニオンスープを掬う私の手を、スノウはまじまじと見つめていた。彼の指摘にどきりと心臓が跳ね上がったものの「料理中に鍋に当たって火傷をしてしまって…」というもっともらしい嘘の言い訳がすかさず口をつく。オーエンのことを口に出す訳にはいかない。昨晩のことを知れば、優しい二人は仕置きとして彼を痛めつけるだろう。たとえ私がそれを望まなかったとしても。
     スノウとホワイトが訝しげな視線で私を見上げている。見透かされているのかもしれない。彼らは魔法使いなのだ。欺くことはそう容易ではない。けれども、私の懸念に反し、彼らの返答は穏やかなものだった。
    「そうじゃったか、そうじゃったか。痛かったのう」
    「どれ、治してやろう。この程度なら我らの治癒でも綺麗にできる」
     そう言うとホワイトは少々身を乗り出し、私の傷口に手を伸ばす。私は小さい彼の手を、反対の手で覆った。「いえ、いいんです。残しておきたい傷だから」
     なんと言うか、料理を頑張った証として、とっておきたいんです。こんなこともあったなって思い出すために。
     スノウとホワイトが揃って顔を見合わせる。私はみみず脹れを指でなぞった。そこはまだ熱を持っていて、触れると内側がほんの少し痛む。けれども私にとってこれは、オーエンの生きた痕跡に他ならなかった。私が自分の意思でオーエンの生に触れようとし、それを彼は拒んだ。傷付きたくないから傷付けた。そうすることしかできなかったのだ。
    「治したくなったらいつでも言ってね」
     二人はそう言ってウインクをし、最後に私の頭を撫でて配膳を下げに行った。どこまでお見通しなのかは分からないが、私の意思を尊重してくれたことが嬉しかった。



     私がオーエンを見かけたのはその三日後だった。北の国の魔法使いたちが訓練から帰ってきた時のことだ。
     彼らはぼろぼろの身なりで魔法舎の廊下を歩いていた。一向にはオズも帯同していて、概ね彼一人に対しオーエン、ミスラ、ブラッドリーの三人が相手取るといった訓練内容だったのであろうことが推察された。オーエンはミスラに担がれており、意識を失っているようだった。
    「おかえりなさい。その、大丈夫ですか?」
    「はあ。俺はまだやれますけど」
    「クソッ、ジジイどもが止めなきゃ後ちょっとで俺様の勝ちだったのによ」
    「これ、強がるでない。鏡で己の姿を見てから言うのじゃな」
     ミスラとブラッドリーは納得いかないという顔でオズを睨みつけている。オズは相変わらず何処吹く風とでも言うような面持ちで悠然と最後尾を歩いている。それがさらに彼らの神経を逆撫でするらしく、気を抜くと魔道具を取り出してしまいそうな危うさが漂っていた。その間にもミスラの肩に担がれたオーエンは頭を垂れたまま、力なくぶらぶらと手足を揺られている。
    「ミスラ、その、オーエンは」
    「ああ……死んでませんよ。多分ギリギリ」
     ミスラの言葉にほっと安堵する。それと同時に早くフィガロの所へ連れていかなければ、という焦燥に駆られた。
    「そういえばこのひと、今日は少し変でしたね」
    「え?」
    「なんだろうな……やけに慎重だった気がします。いつもだったら死んで楽になる方を選ぶところで、しぶとく生き残ろうとしていました」
     このひとがここまでボロボロになって死んでないの、珍しいですよ。ずり落ちてきたオーエンを担ぎ直しながらミスラは言う。オーエンの頭からボタボタと血が滴り、廊下に落ちたその飛沫は私とミスラの靴を汚した。ミスラの言葉の真意を考えるよりも今は、彼を死から遠ざけるのが先だった。
    「フィガロの所へ行きましょう」
     ぐいぐいと背中を押してミスラを急かす。心底面倒そうな顔をしながらも、彼はその長い脚を動かした。
     すると突然、ぐったりとしていたはずのオーエンはミスラの肩で暴れ出し、かたい廊下の床へと落下した。形容し難い鈍い音が鳴り、その場にいる全員の視線が一斉にオーエンへと集まった。彼は肩で呼吸をしながら倒れ伏し、ぎろりと辺りにあるものすべてを睨みつけている。
    「余計なことするな。施しなんて受けるもんか」
     口の端から血の泡を零しながら、それでも不敵に笑おうと表情を震わせ、ひとりで立ち上がろうともがいている。彼の目は、視線だけで人を殺してしまいそうなほど鋭く冷たい熱を放っていた。震える足を殴って鼓舞し、無理やり膝を伸ばそうとするも、叶わずに再び崩れ落ちる。呻き声が上がる。そうして同じ動作を何度も繰り返している。
     彼に手を貸そうとする者は居なかった。その行為が何よりも彼の心をズタズタに裂いてしまう事を、この場にいる誰もがよく理解していた。
    「消えて」
     居なくなってしまえ。おまえらみんな。
     力のない、疲れきった声だった。けれどもそれは叫びのように辺り一帯にこだました。その言葉を合図に、彼以外の魔法使いは声を発することなく各々が思う場所へと去っていった。これ以上ここに居ても、彼の矜持が損なわれていくだけだということは火を見るより明らかだった。
     私は去るのと残るのとどちらが正解なのか分からないまま、ただぼんやりと立ち尽くしていた。要するに、動けなかったのだ。ついに残されたのは私とオーエンの二人きりだった。
     立ち上がるのを止めたオーエンは肺を上下させ、呼吸をすることだけに専念している。それは生きるためのしぐさだった。生きるということを、オーエンはまだ諦めていないのだと、私の目にはそう映った。
     どこからか香ばしい匂いが漂ってくる。ネロとカナリアが夕食の準備をしているのだろう。もうそんな時分なのかと窓を見遣ると、空には朱が差し始めていた。
     膝を折り、ゆっくりと手を伸ばしてオーエンの肩に触れると、びくりと体を震わせる。やはり、怯える猫と同じだ、と私は思った。
     脇の下から腕を差し込み、立ち上がることを試みる。それはこれまで持ったことのあるどんなものよりも重みがあった。オーエンが逃れようともがていることは分かったが、もうほとんど力が残っていないらしく、空を切るように虚しい抵抗だった。
    「オーエン、晩ご飯、食べましょう」
     階段を登る。一段一段踏み締めるにつれ、どんどん腕の感覚が失われていくのが分かる。彼の体を引きずってでも、私はそれを止めなかった。
    「たくさん食べて、それからデザートだってあるんです。ネロがケーキを焼いていました」
     登りきった頃には額や背中からだらだらと汗が流れていた。そのまままっすぐと廊下を進む。彼の部屋まであと一息だった。
    「だから、死なないでください」
     扉を開く。ソファのところまで辿り着くと、私はようやく彼の体を解放した。背もたれに背中を預けて楽な体勢をとらせる。明かりの点っていない部屋は視界が悪いが、そんな事を気にしている余裕は無かった。
     ポケットを探ると、膨らんだ箇所には包帯が入っていた。それは幼い彼を手当した後に押し込んだまま忘れていたものだった。残りはもう少ししかない。彼の怪我を覆うにはどう考えても足りないだろう。一旦取りに戻ろうと踵を返す。けれども、それは叶わなかった。オーエンの手が私の手首を掴んでいた。
    「ねえ」
     微かな声だが、確かに私に呼びかけている。私は続きを聞き取るために、彼の口元に耳を寄せた。少々荒いものの、先程よりも落ち着いた呼吸をしている。呼吸の合間に、オーエンは言葉を紡ごうとしていた。
    「手袋、はずして」
     私は頷いて彼の手袋を摘み、細い指先から抜き取る。するとそこには、私が幼いオーエンに施した包帯が、あの時のまま残っていた。
    「それを変えてよ。それだけでいい」
     それ以外なにもしないで。オーエンはそう言って震える左手を私に差し出す。私は彼の手を取り、包帯を外した。そこには私と彼とで残した傷がありありと刻み込まれていた。指先で傷口をなぞる。血が固まって、かたいかさぶたになっている。
     いずれ治りゆくただの傷。死ぬと消えてしまうちっぽけな傷。それでも、私がオーエンに施した行為は決して無意味なものではなかったのだと悟る。彼の左手を両手で包み込む。私のものよりも大きいそれが、今は赤子のように小さく感ぜられた。死の冷たさから遠ざけようと握った手にぎゅっと力を込める。それから包帯を手に取り、ゆっくりと手当を施した。心を脅かす一切のものから彼を守れればいいのにと祈りを込めて。
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