NoNo,No,Yes「だから、別れてないし、別れるつもりも無い」
一体何度目かも分からない問いかけにうんざりとした表情を浮かべながらも、それでもこの男は律儀に答えを寄越す。自分から訊いておいてなんだけど、もっと適当にあしらえばいいのに、と思いながらも胸のどこかでほっとしている自分がいる。
帰宅した後に、スノウとホワイトに小言を言われることを考えるだけでもうんざりとするのに、それでも週末前の夜に懲りずに足を運んでしまう。長かった高校生活が漸く終わりに近づいた頃、偶々出会ったこの男の初対面の印象は最悪だった。
双子に呼ばれて頼まれものを届けにきたところを運悪く酔っ払いに絡まれていた自分を助けようと思ったのか、この男、カインは一芝居をうったのだ。知人のふりをしてその場から離れられれば充分だった。ところがついていない事というのは重なるのだろうか。尚もしつこくつき纏ってくる酔っ払いにいい加減キレて投げ飛ばしてやろうかと思った瞬間、柑橘系の香りが鼻先をついた。
気が付くと、腰を抱き寄せられ目の前に男の整った顔があった。オレンジ色の照明に照らされた赤い髪の隙間から覗いた蜂蜜色の瞳に、胸が騒めく。ゆっくりと瞬いた睫に隠れていた双眸が、ほんの僅かな躊躇いを見せた後、逸らされる。
つき纏う男の様子を探る為に逸れた瞳に、腹がたった。ただ、それだけの理由で、気が付けば自分はカインの首に両腕を回していたのだ。
驚きで見開かれた瞳はただただ真っ直ぐに自分を見ていて、払い退けることも無く自由になる唇が面白かった。一頻り味わいつくすと、それまでの高揚が嘘のように急速に萎んでいった。
振り解くことも無く、ただ驚きに身を強張らせていただけのその表情が、曇っている。まるで、自らの行いを悔いているようなその態度が、無性に苛立たしい。
「……お節介な奴」
不快感を吐き捨てるように、茫然とするカインを一瞥して背中を向ける。
二度と会いたくない。
そう思っているのに、気が付けば蜂蜜色の瞳を探している。
あの日感じた不快感は、暫くの間自分の神経をささくれのように刺激しているにも関わらず。ささくれだった感情が、学校生活を更に退屈なものに感じるようになってきたある日、それは一転した。
学校から帰る途中、本屋に寄るために途中下車した駅は既に人でごった返していた。目的の新刊を入手し、ホームで電車を待っているとぶわりと風が吹き込んでくる。線路の向こう側のホームに到着した電車に目を向け、視界に見覚えのある色があることに気付いた。
夕日を受けて艶やかに滑る赤い髪。ドアの傍に立ち、外に背を向ける体勢で、顔は見えない。それでも、何故かカインだ、と分かった。
すらりとした長身が、時折傍にいる誰かの声に耳を傾けるように屈み、その背中が、笑っているのだろうか、小さく揺れる。
きっと、蜂蜜色の瞳を緩ませて、馬鹿みたいに誰かに笑いかけているのだろう。
たった一度会っただけの男なのに、何故かそんなことまで想像出来てしまう。
我ながら度が過ぎている、と思って、ようやくこの感情が何なのかに気付いた。
「……見ろよ。僕を、見ろ」
低く呟いた声は、ホームに到着した電車によって掻き消された。注意を促すホームアナウンスが聞こえて、ドアが閉まる音が聞こえる。視界を遮る物が無くなり、ようやく向こう側が見えるようになった時には、既に電車は発車した後だった。
スノウとホワイトに呼び付けられることが無ければ近寄ることも無かった店に、自分の意志で足を運ぶのは初めてだったと思う。そんな自分の行動を不思議に思ったのか、学生服姿のまま店を訪れた事を咎める双子の小言はどこかなおざりだった。
理由を問われたところで、なんとなく、としか答えようが無く、内心どうあしらおうかと考えていた矢先、涼やかなドアベルの音が響く。
振り向くと、其処にはつい先ほど駅で見かけた姿が立っていた。
「あ、やっときた」
咎めるスノウとホワイトの言葉を適当に受け流し、絶妙なタイミングで現れた男の前に立つ。すると、その双眸が再び驚きに見開かれるのに、再び小さな苛立ちが生まれる。
「学生だから、何?あぁ、もしかしてこの間キスしたこと、気まずくなった?」
揶揄するように顔を覗き込むと、あからさまに逸らされた視線から答えを聞かずとも後悔しているのだと手に取るように分かった。逸らされたままの視線が気に食わない。それよりもっと気に食わなかったのは、スノウとホワイトの放った一言だった。
「何それ、聞いてない」
電車の中で、カインの傍にいた誰か。ただ、恋人だと言うだけで、視線を合わせて、笑いかけて貰える誰かがいることが、とにかく気に食わなかった。
「別れて」
気が付けば考えるより先に言葉が口を吐いていた。如何なお人好しといえど、流石に度が過ぎた要求だと判断したらしく、端整な顔に僅かな不快感が滲む。それでも、逸らされていた筈の視線が、真っ直ぐに自分に向けられていることに胸の奥が熱くなる。
「うるさい。いいから早く別れろよ」
理由なんてどうでもよかった。ぶつけられた不快感に、自分の中の苛立ちも強くなり、振り払うように向けられた背中にプツンと頭の中で何かが切れた。
扉へ向かう背中を追いかけ、肘を掴んで引き寄せる反動で、壁へとその身体を押し付ける。痛みに顔を顰め、緩んだ唇に噛み付くように唇を重ねる。舌先を忍び込ませ、縮こまった舌を宥めるように擽ると、小さく肩が跳ねた。うっすらと目を開けると、かたく瞑られ睫が震えているのが見える。柔らかな粘膜を滑り、わざと相手に聞こえるように唾液を掻き混ぜ、口腔内を弄る。時間にして、たった数分程度の粘膜の接触に、腕の中の身体が容易く熱を上げていくのが分かった。
唇を離し、間近に蜂蜜色の瞳を眺める。甘く煮詰めた花蜜のような綺麗な黄金色が、見詰めているものに気が付いて思わず手を伸ばしていた。
「……未成年相手に、そんな顔しておいて、ほんと、馬鹿にしてるよ」
頤を掴む手が力んでしまわないように、平静を装って睨みつける。きっとどれだけ無防備な表情を晒しているのか、この男は気付いていないのだろう。それとも、自分が年下だから、見くびられているのだろうか。その答えは我に返り、耳まで赤くして店を飛び出していったカインを見て、すぐに分かった。
それからと言うもの、このやりとりはカインがこの店を訪れる度に続いている。
「ねぇ、いつ別れるの?」
「……」
いつもと同じやりとり。普段ならば否定の言葉が返ってくる筈なのに、妙な間が空いたことを不思議に思ったのは一瞬のことで。
「……いつ、僕のものになるの?」
とっくに空になっているグラスをその手から取り上げ、身体を寄せて顔を覗き込む。余裕たっぷりな笑みを浮かべて投げかけるつもりだった言葉は、きっと後でスノウとホワイトにたっぷり冷やかされることだろう。