費禕×董允その1「休昭!」
自分の事をそう呼ぶのは一人しかいない。
董允が振り返れば小走りに駆け寄ってくる費禕がいた。
「ああ、文偉。どうしたのでしょう」
「ちょっとここでは話しにくいな。君の私室にお邪魔してもいいだろうか?」
周囲を見回してから少しばかり申し訳なさそうな表情で耳打ちする。
「ええ、構いませんよ」
何を話そうと言うのだろうか。董允は首を傾げながらも、連れ立って私室へと向かった。
「さて、一体何のお話でしょう」
自身も費禕も椅子に腰を落ち着けてから、切り出す。わざわざ私室でなければならない話など、心当たりはちっとも無かった。
「ああ、実は……」
声を潜めた費禕に、耳をそばだてる。
「今度の北伐に丞相直々に参軍のご指名があったんだ」
「なんと、それはまあ」
あの丞相から指名を受けたという費禕に、目を丸くして驚いた。
「ただまあ……楊儀殿と魏将軍が気がかりではあるけれども」
常日頃から諍いが耐えないという両名だが、その能力は抜きん出ており諸葛亮が用いない理由は存在しなかった。故に二人の関係について、諸葛亮が心を痛めていたのだった。
「そうですね。ですが、文偉ならば両名を取りなすことが出来るのでしょう。あの孫権との外交を大過なくやり遂げたのですから」
使者として孫呉に出向いた際、どうにかして恥をかかせてやろうとする孫権とその家臣達とのやり取りは今思い出しても肝が冷えた。対応を間違えれば同盟を破棄されかねない。それを乗り切った費禕ならば、魏延と楊儀の仲も上手く調整してくれるだろうという諸葛亮の見立てには、董允も同意する。
「はは。それはどうも。あれ以上に胃が痛い事が起こらないように祈るよ」
苦笑して肩を竦める費禕に、董允も曖昧に笑うしか出来なかった。
「正式な発表はまだ少しだけ先だから、皆には内密に頼むよ。休昭にはどうしても一番に伝えたくて」
「ええ、分かりました。文偉、あなたならきっと大丈夫ですよ」
「ありがとう、休昭」
微笑む費禕の顔を見て、自分も笑顔になる。
この親友の為ならなんでもしよう。そんな思いが胸に溢れてくる。
「それで、いつ頃正式に発表されるのですか?」
「ああ、来月の中頃に」
「そうですか。楽しみにしています」
有能な親友が出世していくのは嬉しいが、何処か遠くへといってしまうような気もして、素直に喜ぶ事は出来なかった。しかし、それを口にする事は憚られる。そもそも端から自分と費禕では才能に圧倒的差があったのだから、仕方ない。
「そうだね。休昭にもいい報告が出来たらいいと思っているよ」
嬉しそうにしている費禕の言葉を聞いているだけで胸が温かくなっていくようだった。
「ええ、もちろん。文偉の活躍を見届けさせて頂きます」
自分に出来ることは応援することだけだ。それが分かっていても寂しさは拭えない。
「ありがとう、休昭。君のような友人を持てて私は幸せだよ」
「私もです、文偉」
互いに手を握って、視線を合わせる。そのままゆっくりと顔を近づけて唇を合わせた。
いつからこのような関係になったのだろう。
恋仲では決してないが、親友と言うには一線を越えてしまっている。それでも、こうして互いの身体に触れ合う事に抵抗は無かった。むしろ心地良いと感じている。
このまま、時が止まってしまえばいいのに。そう思うほどに二人の時間は甘美なものだった。
しかし、現実は無情にも過ぎていく。
「そろそろ戻らないとね。君もまだ仕事があるだろう?引き止めてしまってすまなかった」
「いえ。大丈夫です」
名残惜しげに指先が離れる。
「まだ、成都を離れるまで時間がある。一度離れればしばらくは帰れないだろう。だから……」
「ええ、わかっています」
寂しげに眉尻を下げる費禕に、董允は微笑みかける。そして、今度は董允の方から手を伸ばした。
「んっ……」
董允の背に腕を回した費禕は、再び口づけを交わす。何度も、角度を変えて。やがてどちらともなく口を離すと、額を合わせて笑い合った。
「はぁ……。それまでたくさん触れ合いましょう。離れていても、貴方が寂しくならないように」
「ああ、そうだね。その通りだ」
お互いの立場上、そう簡単に会えるわけでもない。だから、こうした機会に互いを感じていようと決めたのだ。
二人は抱き締め合って、しばらく無言のまま相手の体温を感じていた。
やがて、どちらからともなく離れると、ふと董允の表情に影がかかる。
「文偉、一つお聞きしたい事があるのですが」
「なんだい?」
「文偉は……楊儀殿の事をどう思っているのです?」
楊儀の事をどう思ってるか。
その問いに費禕は首を傾げる。
「どう、とは?」
「……例えば、好きとか嫌いだとか」
自称、最強かわいい魔法美少女(男)を吹聴している楊儀は確かに本人の言う通り、見た目だけは抜群に良いのだ。
「ああ、そういう事かい」
言いたい事を察して、苦笑する。
「いや、別に嫌っていないよ。ただ……まあ、あまり好ましくはないけれど」
最初こそ女性だと勘違いして一悶着あったが、そのねじ曲がった性格を嫌というほど見てきた今では、魏延と共に関わりたくないというのが正直なところだった。
「そうですか」
董允は安心した様子だったが、同時に複雑そうな面持ちでもある。
「どうかしたのかい?」
「いえ、何でもありませんよ」
楊儀に嫉妬している。なんて、言えるはずがない。
「なら、そういうことにしておこう」
「ええ、ありがとうございます」
微笑む董允だが、どこかぎこちない。普段から穏やかな彼がこんな態度を見せるのは珍しいが、それ程までに自分の事が好きなのかと思うと悪い気はしなかった。そもそも付き合ってもいないのだから、そういった感情を抱くのはお門違いなのだろうが、それでも董允を独り占めできているようで気分が良い。
「それじゃあ、本当に戻ろうか。余り長く不在にしているとそれこそ楊儀殿に何か言われかねないからね」
何をしていたのか根掘り葉掘り聞いてくるに違いない。そんな楊儀をあしらうのも日常茶飯事ではあったが、面倒な事も事実である。
「ええ、そうですね。私も郭攸之殿に悪いですし」
楊儀とは逆に己が一日不在でも不満を言って来ないであろう同僚の事を想像して、苦笑する。
連れ立って私室を後にすると、すぐに楊儀に見つかった。
「あー!探しましたよ!!楊儀チャンを放って何してるんですかっ!」
「申し訳ありません。これから戻るところだったのです」
「全く!丞相に目を掛けられてるからって調子に乗らない事です!ほら、行きますよ!!」
「はい、今すぐ」
ぷりぷりと怒りながら歩く楊儀の後を、やれやれといった風に追い掛ける費禕の姿を見送る。
そして自身も仕事を再開すべく執務室へ向かったのだった。
おわれ