卍(ばじふゆ)場地が手紙を書いているのをこうして後ろ向きに椅子に座って見守るのは二度目だった。
手紙など書いたこともない千冬だったが、場地が手紙を書き慣れていないことはすぐにわかった。
手紙どころか、文字を書くことにすら慣れていないのではないかと思うくらい、その筆跡は辿々しい。
それでも自分の中にある言葉を必死にかき集めて、原稿用紙の向こうの相手になにかを伝えようとする姿は真剣だった。
「千冬さあ」
ぴったりの言葉が見つからないのか、さっきから埋まらないマスをいったん諦めてボールペンを机に転がして、場地は指を組んで腕を頭の上に伸ばした。
「字うまいよな」
「えっ!?そう、っすかね」
「この前書いてくれただろ。虎の字」
言われて思い出したけれど、そういえばあまりにひどい誤字だったから思わず指摘してしまって、正しいものを書いてみせたのだった。
「あれ見て練習してなんかうまく書けるようになった」
「えっ!?」
練習?自分の字を見て?
言われた内容を反芻すると、なぜか落ち着かない気分になった。
「あ、そーだ」
今書いていた用紙の下から、場地は白紙を取り出して千冬の前に置いた。
「これにさ、俺の名前書いてくれよ」
「場地さんの……?」
「そ。これ、ほらここにさ、名前書くんだけどよ」
ぺりぺりとビニールの封を開けて束の中から一枚抜き出した白封筒の裏を示す。半分より下のあたりを、場地の指先が何度か往復する。
「なんかうまく書けねえ」
「自分の名前っすよね」
「そうだけど縦に書くとなんか下手なんだよ!」
「ああ」
いや、横に書いても、とはさすがに口には出さなかった。
それに、縦に文字を書くのは横よりもバランスがとりにくいというのは、千冬も同意する。
「練習したらうまく書けるようになるかもだろ」
「練習って……俺の字見て練習するってことっすか」
「そうだけど」
「ヤバい」
出てしまった後に口を押さえても遅いのだが、そんな千冬に場地は「?」を頭の上に浮かべたような顔で首を傾げた。
「なにが?」
「や!なんでもないっす!」
差し出されたボールペンを思わず受け取ってしまったけれど、それで自分が場地の名前を書いたら、それを手本にするという。
何度も、視線で、指先で、線をなぞって。
(ヤバい……っていうか俺の頭がヤバい。何考えてんだ)
場地の視線を振り切るように千冬は前に向き直った。
「ちょ、ちょっと、練習させてください!」
「お?おう。って、俺が練習するんだけど」
書き慣れない文字を、……場地の名前を……、本人の見ている前で書く勇気はなかった。ものすごいプレッシャーだ。勝手に千冬が感じているだけなのだが。
(場……地……ヤバい、めっちゃ震える)
荷物を漁って見つけた適当なプリントの裏に試し書きする文字は、場地のことを言えないぐらい覚束なかった。
何度か深呼吸をして肩の力を抜き、心を無にして手を動かす。
「千冬?そんな気合い入れる必要ねえぞ?」
「ウス!」
めちゃめちゃ気合い入ってんじゃねえか、と後ろで笑う声を聞きながら、渡された用紙のマスをひとつずつ埋めていく。
今まで自分の文字をうまいともへたとも思ったことはないけれど、ここまで真剣に一画一画と向き合ったことはなかった。
「出来ました……」
「サンキューな」
賞状のように、用紙を両手で差し出す。ボールペンと共にそれを受け取った場地は、四つだけ埋まっているマスに目を落とした。
「なんでこっちに書いてあんだ?」
「え?だって見て書くならこっちにあった方がやりやすいと思って」
一番左の列に上から書かれている文字を見ながら、その横にあっけなく書き込まれる同じ文字。
「なるほどな!頭いいな千冬!」
「あざっす……」
「あ、下空いてんのもったいないからさ」
くるっと紙が回って、千冬の前に差し出される。
「ここ、千冬の名前書いてくれよ」
「……は?」
とんとん、とペン先が示すのは、場地のフルネームが書かれたのと同じ列の下半分。
え?なんて?俺の名前?ここに?
「ついでにおまえの名前も練習するわ」
なんでそんなヤバいこと思いつくんすか!!
渾身の叫びは、千冬のキャパを超えたため外に出ることはなかった。
なんとか震えをおさえた手でペンを受け取って、千冬は書き慣れた文字を一息に書き上げた。
今までよりうまく書けた、と場地は封筒の裏を見せてきた。今までを見ていないので判断はつかないけれど、本人が満足しているのならいいか、と千冬は澄んだ心で微笑んだ。
封筒の表は見たことがない。練習するなら千冬の名前よりそっちなのではないかとも思ったけれど、場地が言い出さない限り千冬の方からそれを指摘するつもりはなかった。
「これ、もらっていいっすか」
「いいけど。どーすんだそんなもん」
原稿用紙を埋め尽くす場地圭介と松野千冬の文字列は、思わず膝をつきそうになるほどの圧を発している。
もちろん書いた本人はそんなものいっさい感知しておらず、千冬にだけ効く魔法の書だ。
うっかり開かないように四つに折ってから、なくさないようにカバンにしまった。