狐の嫁入り②不思議なお社で出会った降谷零という男の子は、私にとってかけがえのない友達となった。居場所のない私を快く受け入れ、お社の周辺の森で一緒に遊んでくれた。
彼はここの森に随分と詳しいようで、自生している野草や木の実、野生動物の生態など、ありとあらゆることを教えてくれる。
しかし、彼の口からは一度も聞いた事がないものもある。それが、このお社の正体と、彼自身についてだった。
彼は私が聞いた事は全て丁寧に答えてくれるのだけど、お社のことになると「僕もこれには詳しくない」と言ってこたえてはくれなかった。幼い私は、零くんにも知らないことがあるんだなぁ、と大して気にもとめなかったし、彼自身についても、勝手によその街の子だと決めつけて尋ねるようなことはしないでいた。
私が小学校を卒業する頃、この街を出ていくことになった。零くんには随分と世話になったので、せめて最後に挨拶をしようと、前日の夜にお社を訪ねた。
相変わらず、ここのお社にくると突然雨が降り出すので、いつものように屋根の下に潜って零くんが来るのを待つ。数分と経たぬうちに、小さな影がひょっこりと、草むらの中から出てきた。
「……なんでこんな夜更けにいるんだ。今日は親父さんの命日じゃないだろ」
「来ちゃダメなの?」
「ダメだ。前に言ったろ、野生動物が沢山いて危ないって。それに、明日は学校休みだろ?何も今夜じゃなくたって…」
「もー、相変わらず長いお説教だなぁ」
「!おまえなぁ!!」
いつもと変わらない、この長ったらしいお説教だって、もう聞けなくなっちゃうんだ。そう思ったらどうしようもなく悲しくなって、勝手に涙がボロボロと零れた。
「お、おい、どうしたんだ。僕が叱ったからか?」
「っ、ううん、違うの、」
「じゃ、じゃあ、なんで泣くんだよ。また意地悪されたのか?」
「それも、違う」
零くんは理由がわからなくてずっとおろおろしていた。それがなんだか珍しくて、面白くなって泣きながら笑った。
「ふ、ふふ、あはは!」
「!な、なんだよ今度は!」
「ごめ、ふふ……ねぇ零くん」
「…なんだ」
「私ね、明日から別の街に行くの」
「………は?」
零くんが可愛いタレ目を真ん丸にして固まった。次いで、震えた声で「なんだと…?」と呟く。
「あのね、別の街に行ってね、そこの神社でみこさんになるんだって!」
「巫女に…?」
「うん!今の家族とは離れ離れになっちゃうんだけど、その代わりに神様の使い?になるんだって」
「だから、ここでバイバイだね」そう言って微笑むと、零くんは綺麗な顔を歪めて、さっきの私みたいに今にも泣き出しそうな顔になった。
「…嫌だ」
「零くん?」
「せ、せっかくお前に会えたのに…ここでお別れだなんて、そんな、そんなの………僕は嫌だ!」
「!」
零くんは、大きな目に涙をいっぱい溜めて吼えた。行くなと何度も呟いて、私の腕を力一杯握る。
「零くん…私、零くんのこと忘れないよ」
「………」
「私の事、怖がらないでくれてありがとう。この目を綺麗って言ってくれてありがとう。ずーっと、大好きだよ」
「…僕も…僕も、大好き」
「ふふ。両思いだね」
「…うん。……なぁ」
「なぁに?」
零くんは少し言いづらそうに口をモゴモゴさせたあと、意を決したように大きく息を吸った。
「お前がもっと、身も心も大きくなって、また再び会うことが出来たそのときは……ーーー!」
ーーー
「……ぐ……つむぐ…!、紡!!」
「っはぁい!」
沈んでいた意識が一気に覚醒する。
怒鳴り声で飛び起きて手元の時計を確認したら、いつも起きる時間より30分も遅かった。完全に寝坊である。
大慌てで着替えをすませ、昔よりだいぶ長くなった髪を結い上げた。
随分と昔の夢を見た。あれからもう10年近く経つが、人生で一番最初に出来た友人を忘れたことは無かった。
なんだか懐かしい気持ちに浸りながらゆっくり布団を片付けていたら、また旦那様に怒鳴り声で呼ばれてしまったので急いで廊下を走った。
「珍しいな、お前さんが寝坊するとは」
「す、すみません…」
「次からは気をつけなさい。とりあえず境内の掃除だ」
「はぁい」
あの家族たちに捨てられてから、ずっとこの神社でお世話になっている。ここはとあるお狐様を祀っているところらしく、毎年多くの人が参拝に来るので、そこそこに有名なんだと思う。
私を引き取ってくださった旦那様は、厳しくもあるが非常に人情に厚いお方だ。
私の目を見ても“普通の人間”として見てくれて、特別扱いもせずに接してくれる。
旦那様はこの神社の宮司さんで、私は旦那様の下で巫女として仕えている。
やることは境内の掃除とか家事とか参拝客の対応とか、ごくごく普通だ。
ただ、この空間では普通ではないことも当たり前に起こる。
せっかく箒で集めた落ち葉が、風も吹いていないのに舞いだした。初めてこの現象が起きた時はパニックになったが、もう何度も見かけるとさすがに慣れる。
「……赤井さん」
「そう怒るな。悪かった」
眉をひそめて、誰もいない空間に向かって低く名前を呼ぶ。すると、黒い狐耳とふさふさの尻尾をもった麗しい男性が、突然目の前に現れた。
彼は艶っぽく笑うと、手をかざして散らかした落ち葉をすぐに集める。ついでと言わんばかりに、私が手に持っていた箒まで取り上げられて、吸い込まれるように彼の手に収まった。
「もう仕事は終わったのか?」
「いえ。…今日は寝坊しちゃって」
「ホォー?君にしては珍しいな。昨夜眠れなかったか」
「うーん、そういうことじゃないんですけど……。…あ。赤井さん、お客さんが参拝に来ましたよ」
「あぁ。お互い仕事が終わったら、ゆっくりお茶でも飲もう」
黒狐の怪しいあの男の人は、どうやらここに祀られている「赤井秀一」という神様のようだ。彼は人が訪れると本殿に姿を隠す。そこで参拝にきたお客さんの願いや誓いを聞き、手を貸したり貸さなかったりするらしい。選ぶ基準は分からない。
彼と出会ったのは、この神社に来てから数ヶ月してからだった。最初は怖いお兄さんが来たと思ってビクビクしていたが、赤井さんがふさふさの耳と尻尾を触らせてくれたことで心が開けた。子供は単純なのだ。赤井さんは、私が彼の姿をみとめたことに対してひどく驚いていたけれど、すぐに順応してよく私の前に現れた。
旦那様には姿が見えていることは言っていない。というのも、赤井さんが黙っていろというのだ。神様とは“概念”として存在するべきものだから、形あるものだと思われてはいけないらしい。なんとも難しい。
赤井さんによって先程よりも綺麗に集まった落ち葉を、ごみ袋に突っ込む。箒は赤井さんが片付けてくれたので、そのまま袋をゴミ捨て場まで運んだ。
今年17になる私は、旦那様のご厚意で高校に通わせてもらっている。相変わらずここの地域でも好奇の目に晒されることはあるが、以前に比べれば随分と楽になった。
友達も増えて、夢だったLINEの交換も叶った。ある程度の仕事が終わって一休みしていると、机に置いたスマホから通知音がした。確認してみると、友人からのお出かけのお誘いだった。
『紡〜!今日暇?良かったら
一緒にここに行きたいんだけど!』
メッセージと共に送られてきた画像は、何やら小綺麗な喫茶店だった。
「ポアロ…?聞いたことないけど、ご飯が美味しいのかなぁ」
昼前だというのにお腹がなりそうだ。とりあえず友人に了承の意を伝えてから、旦那様に一言断ってくる。
「旦那様〜」
「どうした」
「仕事が終わったので、今から友達と喫茶店に行ってきます」
「喫茶店?」
「はい。ポアロってところなんですけど」
旦那様は知っているのか、「あぁ、あそこの」と納得したように頷いたあと、がま口の小銭入れを手渡した。
「!旦那様、これ」
「足しにするといい。ゆっくりしてこい」
旦那様は強面だしぶっきらぼうだけど、やっぱりすごく優しい人だ。深々と頭を下げてから、次いで赤井さんのもとに急ぐ。
「赤井さーん」
「ここだ」
本殿近くで名前を呼んだら、すぐ真後ろから声が響いた。思ったより距離が近くて身体がびくりと跳ねたが、赤井さんは気に止めることなく用件を尋ねた。
「すみません、実はこの後友人と喫茶店でお茶することになって……」
「そうか。俺のことは気にせず楽しんでくるといい。あまり遅くならないようにな」
「はい!」
巫女服から余所行きの服に着替えると、意気揚々と集合場所に向かって歩いていった。
「お待たせ〜!」
「おー、きたきた」
既に友人は待ち合わせ場所に着いていたようで、こちらに大きく手を振ってくれた。それに振り返すことで応えると、少し小走りで隣に立つ。
「今日は誘ってくれてありがとう!喫茶店なんて初めてだからちょっとドキドキするよ〜」
「もー、普通の飲食店だって!ほら、行こ」
手を引かれて向かった先は、友人が送ってくれた画像のままの建物。窓には大きく“ポアロ”と書かれている。
「最近入ったアルバイターさん、すっごくイケメンなの。男っ気のない紡に、異性を意識してもらおうと思ってさ」
「……ホストじゃないんだから…」
飲食店なのだからシンプルに食事を楽しみたいところだ。しかし、随分と楽しそうな友人に水を差す訳にもいかず、呆れながらも彼女に続いて扉をくぐった。
ーーー
「いらっしゃいませ!」
可愛らしい女性店員の掛け声を受けて、思わずたじろいでしまった。友人はそれを見て苦笑したあと、また私の手を引いて席に誘導してくれる。
「……ごめん」
「いいのよ、私が強引に連れてきたんだし。ほら、メニュー!」
大きな冊子を手渡して、「圧倒的オススメ」といいながらひとつの料理を指さした。
「ハムサンド?」
「そう。安室さん…あー、イケメンアルバイトお手製のサンドウィッチ」
「当店でもオススメしてるので、是非ご賞味ください」
突然声が聞こえたと思ったら、先程は見かけなかった男性の店員がお冷を持ってきてくれていた。
彼は私と目が合うと、何故か目を大きく見開いて固まった。
私も、強い既視感を感じて、彼の整った顔を見つめて固まってしまう。
「あれ?紡、安室さんと知り合いだったの?」
「!」
友人の声で我に返ると、初対面の男性の顔を見つめてしまったことを激しく後悔した。いくら既視感があるとはいえ、失礼だろう。
「す、すみません。知り合いに似ていたもので、つい」
「あ、いえ、こちらこそ!」
安室さんという店員が慌てて頭を下げるので、こちらも慌てて頭を下げた。2人で頭をペコペコするというなんとも異様な光景が広がっていた。
「ご注文お決まりでしたらお伺いしますよ」
「あ、じゃあ私はハムサンドで!」
「私は……この、ナポリタンで…」
「…。…かしこまりました」
オーダーすると安室さんが一瞬真顔になった気がしたが、瞬きをした瞬間に爽やかな笑顔が戻っていた。
「ごゆっくりどうぞ」と、定番のフレーズを言って去っていく彼の背中をなんとなく目で追っていると、ニヤけた顔をした友人がからかうように声をかけた。
「ね、もしかして気になってる感じ?」
「ん?あぁ、うん。まぁ」
「あの美貌に当てられたら、そりゃ男っ気ないあんたでもなびいちゃうわよね〜」
「……」
そういう意味で気になった訳では無いんだけど…。しかし、そんな弁解はきっと彼女の耳には届かないだろう。面倒になったので特に訂正をすることもなく、談笑をしながら料理が来るのを待った。
喫茶店でお昼を食べるという初めての体験で、私は終始感動しっぱなしだった。せっかく来たのにもったいない、と友人はハムサンドを分けてくれたし、自分が注文したナポリタンも大変美味しく頂いた。
食後から暫く。友人が御手洗に行きたいと言うので、紅茶を飲みながら彼女が戻ってくるのを待っていると、すぐ隣に誰かの気配を感じた。カップを置いて視線をやると、お冷とオーダーのときに見た安室さんがいた。
「…?」
「……やっぱり、貴方が…」
「え?」
安室さんが不意に泣きだしそうな顔をするので、慌ててしまう。初対面のイケメンの慰め方なんてさすがに分からない。ひとりでわたわたしていると、安室さんがおもむろにポケットに手を突っ込んだ。そこから取り出したのは、一枚の紙。
「…受け取ってください」
「はい?……え、あの、これ」
「今日帰ったら、連絡をください。……絶対に」
差し出された紙には、安室さんの電話番号らしき数字が羅列していた。