マシアス叙事詩 11.【マシアスのレテ流れ】
~生きていれば大体のことは何とかなることの例え~
場所は、レテ川上流部。
の、更に上空。
マッシュ・レネ・フィガロは、先程会敵したタコ型の魔物を追いかけて、勢い余ってレテ川に飛び込み、まんまと吹き飛ばされていた。
頭上に川面。
足の下は青空。
このまま川面に飛び込んで、一番衝撃を少なくすることがせいぜいか、まで覚悟を決めた時。
川面に、大きな岩が見えた。
このままと、頭からぶつかる位置にある。
仮に腕を出して岩を砕こうとしても、落ちている状態だと、砕いた後もそのまま岩にぶつかることは避けられない。
仮に助かったとしても、岩を砕いた上で体を支えた腕が無事かどうかは、自信がない。
戦えない身体になってしまったら、意味がない。
(……ここまでか)
その時。
マッシュは確かに一度、諦めた。
(悪い、兄貴。後は頼んだぜ)
そして、覚悟を決めて目を閉じた。
次の瞬間。
全身を、衝撃が襲ってきた。
突如として息の出来ない中に突き飛ばされて、体は凄い勢いで一方方向に動いていく。
(……は!?)
何があったと思いながら、目を開けると。
滲む視界の先に、確かに光があった。
(……水……川の中か!? あの状況から岩を避けて着水した!? どうやって!?)
一瞬前からは、どう考えてもありえない状況に置かれていることはわかった。
だが、どうしてそうなったかは、マッシュにもわからない。ただ、マッシュにとっては僥倖だっただろう。
(……今考えることじゃねぇ!)
わからないことは、考えない。
まず、最善を尽くす。
(息さえ出来れば……!)
水の中で体勢を整えて、真っすぐ光に向かって泳ぎ出す。
「……ぶはっ!」
川面に顔を出した瞬間、思いっきり息を吐いて、吸う。ひたすら繰り返す。
息は整ってきたが、体の大半は水の中で、このままでは平地が見えるまで流されるままだ。
(……この流れを逆行するのは無理だな。方向的には東の大陸か……)
東の大陸から、ナルシェに向かう必要がある。
思いがけない旅路に放り出されたが、マッシュはまず、今五体満足で生きている事実に安心していた。
……確かに、死を覚悟したのだ。
それがどうして、こうやって、川を流れていられるのか。
(俺が考えたところで、多分何もわからねぇな。とりあえず……生きて、平地に着くことが大事だ)
頭を切り替えて、可能な限り消耗しないように、川の流れに身を任せる。
一時は足元に見えた青空が、視界を埋め尽くしていた。
目を閉じた一瞬のことを。
真っ暗な中で交わされたやり取りを
マッシュは全て忘れている。
『お前に死なれては困る』
響いたのは、凛々しく、強く。
何故か、どこか必死さを感じる、女性の声だった。
『お前だけが、これまでのどの未来にもいなかった』
先ほどの岩を、何ともなしに思い出す。
『お前の名を呼ぶ男は、全ての未来にいたにもかかわらず。お前は、どこにもたどり着けなかった』
声が示す男が誰なのかを、ぼんやりと察しながら。
『お前は、お前の道を進むだけでよい。信じるものがもうあるのならば、そこに付き従うがよい』
声が促したことは、それだけだった。
それ以上は、きっと話さないのだろうと、マッシュにもわかった。
『……君は、誰なんだい?』
声の主が命の恩人であることは、マッシュにとって明白だ。だから、名前くらいはと思っただけだ。
……それさえ、忘れ去る。
そのように、この空間は出来ていると、知っているのは声の主だけだ。
それでも、答えた。
『……幻獣……ソフィア』
彼女が、三闘神の女神としか呼ばれなくなる前。
大三角島に降り立った時に知り合った、小さな友人達から貰った、大事な名前だ。
名を聞いて、マッシュは笑う。
『ソフィア! 助けてくれてありがとな!』
それだけを残して、マッシュの意識はそこから消えた。今頃、川の中で意識を取り戻しているだろう。
『……ここで死んでいた方がよかったと、思うかもしれないのに……』
この世界の三闘神は、まだ封魔壁の奥で石となって眠っている。
ソフィアは、全く別の未来にたどり着いた世界から、意識とわずかな力だけを残して時間を遡行してきた。
元の世界は、もう変えられない。
他の世界も、似たものだった。
その中にあって、必ず、どんな未来であっても、歩んでくる人間達がいた。
その内の一人が、いつも、どの世界でも、言っていた。
『マッシュさえいてくれれば』と。
その名前を頼りに、ソフィアはここまでやってきた。
幻獣が全ての元凶であるのならば。
せめて、人間だけでも。
……最初に、自分をソフィアと呼んでくれた、小さな友人達の子孫だけでも。
よりよい未来に送り込めるのならば、と。
マッシュを助けたソフィアの願いは、それだけだった。
たった一人を助けただけの事実が、どれほど広く、大きく、世界に影響していくかを、まだ知らないままで。
レテ川を流れていけば東大陸に着くだろう、とはわかっていた。
あくまでそれは、知識としての話だ。
濡れた身体で立ち上がり、あたりを見回す。
「……どこだ、ここ?」
人生初の東大陸上陸に対し、マッシュの第一声はそれだった。
無理もない。
そこは東大陸でも辺境に位置する、一軒家しか見当たらない辺鄙な場所だったのだから。