空を見なよ ここは氷の上ではないから、頬を撫でていく空気も冷たくはないのだった。ブレードがリンクの上を滑る。進む先を確かめる。膝を曲げて、踏み切る瞬間に備えた。タイミングを合わせて跳び上がる。息を吐いて体の中心に力を籠める。そうすれば跳べるはずだった。何度も何度も繰り返したのと同じように。そのはずなのに、まるで一度でもその感覚を手に入れたと思ったのが幻だったかのように、その感覚はボクの体を擦り抜けていく。ただ反転しただけの体がリンクに下りる。始めた頃はこの瞬間に何度も転んでいたけれど、さすがにもう転ばなくなった。滑りながら方向を変えるのも、止まりたい場所で止まるのも上手くなった。それは確かに成長だけれど、それを成長と呼ぶのはあまりにも空しい。掛けてあったタオルを手に取って顔を埋める。汗を拭いて、もう一度。だって、跳べなければ意味がない。
助走の長さを変えてみたり、速度を変えてみたり、踏み切る足を変えてみたり。とにかく思いつく限りの変化を加えてみたけれど跳べなかった。いつも通りにやってみても、やっぱり跳べなかった。滴り落ちる汗を手の甲で拭う。もう一度。
「ミナトー」
滑り出す直前に声が聞こえて顔を上げた。リンクを見下ろす踊り場で、山田さんが何かが入ったビニール袋を掲げていた。
「そろそろ昼飯の時間だし、休憩しろー」
いいもの買ってきたぞ、と山田さんは笑った。袋の中身はここからは見えなかったけれど、どうにか口の端を持ち上げて頷いた。リンクから降りてシューズを脱ぐ。プリズムショー用のシューズはそれなりに重い。それを脱いだはずなのに、疲れが溜まった足はまだずっしりと重かった。階段を上りながら、筋肉痛になるだろうな、と考える。その痛みと引き換えに得られるものがあるならば大歓迎なのに。
前を歩く山田さんが提げている袋は淡いピンク色をしていた。くり抜いて作られた持ち手と、控えめな大きさで印刷されているロゴマーク。中身はパンか何かだろう。そういえば、西園寺が新しいパン屋ができたのだと話していた。食堂の扉を開ける。今、寮にいるのはボクたちだけだから、食堂にはもちろん誰もいなかった。静まり返った食堂は寂しい。この場所にやってくる誰かのことを思いながら、一人で料理をしている時にはそうは思わないのに。
どこかに座るのだろうと思っていたけれど、山田さんはどの椅子にも触れなかった。近くの机の上に提げていた袋を置いて、テラスへと繋がる扉の鍵へと手を伸ばした。あまり開ける事のない鍵はその分固いようだった。それでもどうにか鍵を外す。軋むような音を立てながら扉が開く。温かい風が流れ込んでくる。学年が上がってもうすぐ一ヶ月だ。桜はもうとっくに散って、季節は少しずつ夏へと向かっている。
「せっかくだし外で食おう」
山田さんはどこからかテーブルと椅子を運んできた。どちらも初めて見るものだけれど、埃が溜まっている様子はなかった。もしかしたら、よくこうしてここで昼食を食べているのかもしれない。ボクたちが学校に行っている間に山田さんがどう過ごしているのかは、当然ボクたちは誰も知らない。
袋の中には予想通りパンが入っていた。山田さんはそれを一つ一つ取り出してはテーブルの上に置いていく。メロンパン、チョココロネ、コーンパン、カレーパン、クロワッサン、それから最後にタマゴサンド。
「たくさんありますね」
「どれも美味そうだったからなあ。先に好きなの選んでいいぞー」
どうしようかな、と手を彷徨わせる。チョココロネは山田さんが食べるような気がする。西園寺と一条は早めに帰ってくる予定だから、後で食べるかもしれない。選ぶとしたらきっと西園寺はメロンパンで、一条は……どれだろう。でも、クロワッサンは選ばないような気がした。ボクがクロワッサンの入った袋を手に取ったのを確かめてから山田さんはチョココロネの入った袋を手に取った。それから袋の中に残っていた紙パックのカフェオレを二つ取り出した。飲み物を用意しないと、と考えていたボクは目を瞬かせる。
「お、うまい」
チョココロネを齧った山田さんはそう零す。まじまじとチョココロネを眺めているのはその味を噛み締めているからなのだろう。思わず笑ってしまってから、ボクは手元へと視線を落とす。朝食の後、片づけを終えてからずっと動き続けていたのだからお腹が空いているはずなのに、クロワッサンを包む袋を開ける気にはなれなかった。袋を留めているセロテープの端を指でなぞる。切り口のざらざらとした感覚は、まるで自分にやすりを掛けているみたいだ。
「……ま、なんだか知らないうちにまた跳べるようになってるもんだよ」
その声に顔を上げる。あっという間にチョココロネを食べ終わったらしい山田さんはテーブルに肘をついて、手のひらに頬を預けながらそう言って目を細める。返事に困っているボクを置き去りにして、山田さんは食堂へと入っていく。それからすぐに戻ってきた。なぜか何枚かのチラシを手にして。それから何を言うでもなく、そのチラシを折り始めた。縦半分に折って、広げる。端をその折り目に向かって三角形ができるように折る。反対側も同じ。それから最初に作った折り目で半分に畳む。
「紙飛行機ですか?」
「そ。飛んでるもの見たら跳べるようにもなるかもしれないしな」
「ええ……」
「疑ってるなー? なるなる」
ハピなる、とボクたちがよく知っている歌のフレーズへと繋げながら山田さんは紙飛行機を完成させた。覚えてるもんだな、と口にしながら。
「ミナトはよく飛ぶ紙飛行機折るの上手そうだよなあ」
そう言いながらボクに向かってチラシを差し出した。よくポストに入れられている不用品回収のチラシだ。山田さんはどこか期待したような目でボクを見ている。潮も同じような目をしながら、紙飛行機を折ってくれとせがんできたなと思い出す。それはもうずっと昔の話だけれど。テーブルの上にチラシを置いて、まずは縦半分に折ってみた。折り始めてしまえば、あとは体が覚えていた。何度も何度も折ってきたから。出来上がった紙飛行機を見て、山田さんは身を乗り出して目を丸くする。
「全然違う形だ。後でそれ教えてくれ」
真剣な表情でそう口にする。その顔を見て、今更ながら思い出す。……そういえば、僕は今プリズムキングと一緒に紙飛行機を折っているのか。そう気が付いてはみたものの、どうにもその事実は遠くにあるような気がした。
「よし、どっちが遠くまで飛ばせるか勝負だ。……といってもこれはもう俺の負けな気がするけどなー」
山田さんは立ち上がって屋根のない場所まで歩いていく。ボクは膝の上のクロワッサンの袋をテーブルへと置いてその後を追った。
「行くぞー」
山田さんの合図に慌てて紙飛行機を構える。少し上向きに構えて、腕を大きく振るのがコツだ。山田さんが紙飛行機を飛ばす。それに続くように腕を振る。紙飛行機がボクの手から離れていく。その瞬間に見えたのは、雲一つない青空だ。
紙飛行機は色とりどりの花が咲く植え込みへと向かって飛んでいく。どこまでも、なんてことはなかった。ゆるやかに高度を下げて、それから地面の上を少しだけ滑ってから止まった。ボクはそこまで歩いていく。紙飛行機を拾い上げて、また空を見上げた。そうか、今日はいい天気なんだ。日差しは見た目よりも柔らかくて、風が心地よくて。気が付かなかったなあ、と思いながら、拾い上げた紙飛行機についた砂を手で払った。深呼吸を一つすれば、春の空気が体の中に流れ込んでくる。軽くなったような気がした。心も、体も。
「跳べそう?」
山田さんの問いかけも軽やかだ。ボクの答えを知っているみたいに。振り返ってうなずくと、ボクと同じように紙飛行機を手にしている山田さんは笑った。山田さんにもこうやって、どうにもならなくて、どうにかしたくて、空を見上げた日があったのかもしれない。
「まあ、でも今日はもう練習しすぎだな。昼飯ゆっくり食って、その後少しだけな」
「はい」
テラスへと戻っていく背中を追いかける。踏み出した足で地面を軽く蹴ると、春の風が頬を撫でていく。最後にもう一度空を見上げた。日差しが降り注いで、世界が眩しい。
(END)