REBOOT 部屋はもうすっかりキレイになっていた。まるで雨彦さんが掃除をしてくれたみたいに。テレビもつけずに、スマホを手に取る事もせずに、僕は畳の上に転がって天井を眺めていた。少しだけ開けた窓からは爽やかな風が流れ込んでくる。今すぐ電車に飛び乗って、あてもなくふらりと、どこかへ。そんな気分になる季節だった。それが叶うだけの時間もあった。だけど、できなかった。目に見えないそれはどこを漂っているのかなんてわからないのだから。
大学の授業は休講になった。決まっていた仕事も軒並み延期か、中止になった。予定していたライブも……やりたい、だなんて、言えるはずがない。レッスンすらできずに僕たちはそれぞれの場所にいた。こうなる前に、最後に丸一日家から出なかったのはいつだっただろう。何をしようかと楽しみにしていたあの時の気持ちは今の僕の中にはなかった。読みたい本はたくさんあるけれど、観たい映画もあるけれど、今はそれを心から楽しめる自信はない。こんな気持ちで触れるのはどうしても気が進まない。そうやってたくさんの選択肢を潰した結果、僕はこうして何もせずに転がっていた。時間が過ぎていく。焦るというよりももっとぼんやりとした、けれど大きな何かが体ごと押さえつけているようだった。
ため息を何度ついたかはもうわからない。体を横向きに転がして、揺れるカーテンをぼんやりと眺めていた。このまま昼寝でもできたのならばいいけれど、疲れているのは心だけだから眠気がやってくる事もない。それでも僕は目を閉じて、遠くの音を聞いていた。鳥の声が聞こえる。走る車の音が聞こえる。それから……スマホが着信を知らせて震える音がした。
体を起こして画面を確かめる。クリスさんから。ビデオ通話だ。ロックを解除して通話ボタンを押すと、クリスさんが画面に映る。背景は僕の知らない場所だ。でも、海のそばだというのはわかる。
「もしもしー?」
『想楽! こんにちは』
電話越しのクリスさんの声はいつもと少し違って聞こえるけれど、その輪郭は確かにクリスさんのものだ。久しぶりに声を聞いた、と思ったら、胸のあたりが冷たくなったような気がした。その感覚から目を背けて僕は口を開いた。
「こんにちはー……ってあんまり言わないから、不思議な感じだねー。どうしたの?」
『今日は天気がよくて、海が一段と綺麗でしたので……画面越しにでも、見ていただけたらと』
そう口にしたクリスさんの表情がわずかに曇る。こうしてクリスさんがビデオ通話で何かを見せてくれる事は珍しくはなかった。けれど、今となっては、ビデオ通話は便利な道具以上の意味を持っている。どう考えても明るくはない状況の中で。
「本当にいい天気だよねー。海、どんな感じなのー?」
咄嗟に出した声が明るく響いてくれて少し安心した。クリスさんの顔が晴れる。カメラが回って、海へと向かう。太陽に照らされた水面は光の塊になって、それから揺れるように少しずつ元の色を取り戻した。南の方にでも行かない限り、日本の海はくすんだような色をしている。ブルーグレーだ。
「眩しいねー。でも、今日の海辺は気持ちよさそうだなー」
『ええ、風が心地よくて』
クリスさんの言葉はそこで途切れた。代わりに飛び込んできたのは、よく知っている声だった。
『もしもし』
画面が四つに分割されて、僕の顔が小さくなる。新しく生まれた画面には誰も写ってはいなかった。黒い背景の中に白い文字で名前が浮かんでいた。
『雨彦!』
「あ、雨彦さんにもかけてたんだねー」
『ああ。……なんだか久しぶりだな』
その声色を僕たちが受け止めて、そうしてできたわずかな沈黙を打ち破るかのように雨彦さんの声が聞こえた。
『どれ、俺もビデオ通話に』
不自然に途切れた声に、何が起きたかはすぐに察する事ができた。
『雨彦、ミュートになっていますね』
「マイクじゃなくてカメラのアイコンだよー」
少しの間の後に、画面に雨彦さんの顔が映った。どこかほっとしたような表情で何かを話しているけれど、今度は声が聞こえない。思わず力も抜けるというものだ。ふふ、と零れた笑い声を、僕は久しぶりに聞いたような気がした。
「そのままマイクのアイコンだけ押してー」
伏し目になった雨彦さんが画面に向かって手を伸ばす。微かに音が聞こえた。どうやらうまくいったらしい。
『どうだい?』
『大丈夫です。聞こえていますよ』
画面の中に僕たち三人の顔が映る。僕からは僕の顔は見えないものだ。ポスターやCDのジャケットのようで、僕たちが今、非日常の中にいるのを思い出した。……これが日常になりつつあるとしても、非日常のはずだった。そうじゃないといけない。何かに爪を立てるようにそう考えた。
『古論は海だな』
『はい!』
クリスさんはそう答えると、さっきのようにカメラを海へと向けた。雨彦さんと僕だけが画面の中に取り残される。
『気持ちよさそうだな』
『ええ、もう少ししたら冷えそうですが、今は心地よいです。雨彦はご自宅に?』
『ああ。……依頼もめっきり減っちまってね。おかげさまで部屋の掃除がし放題だ』
「依頼なき日でも掃除の手は止めずー。雨彦さんらしいねー。ちなみに僕の部屋もピカピカだよー」
『おっと、掃除屋の出番がなくなっちまったな』
「普段だったらなかなか時間も取れないから、お願いしたい所だけどねー」
会話が途切れる。直接顔を合わせている時であれば何事もなかったかのように流れていく沈黙が、重さを持って居座り始める。
『想楽』
画面の中に戻ってきたクリスさんが僕の名前を呼んだ。目線が逸れて、それからまたこちらを向く。僕の方を見る。
『大学の授業は、休講中ですか?』
鮮明とは言い難い映像では、表情の全てを受け取る事はできなかった。それでもクリスさんが僕を心配してくれているのはわかった。僕たちは確かにアイドルだけれど、僕が学生で、雨彦さんが掃除屋であるのと同じように、クリスさんも研究者だし……辞めているとしても、大学の助教だった。潮風がクリスさんの髪を揺らしていた。街中に充満している不安からは離れたその場所で、それでも、クリスさんはずっと心配してくれていたのだろう。僕や、僕と同じように学ぶ場所を奪われてしまった人たちの事を。
「……うん。オンライン授業も準備中らしいけど、いつになるかはわからないねー」
『そうですか……』
「どうせなら、今のうちに本を読んだり、調べ物をしたりしておかないとねー。アイドルの方の勉強も……」
口を閉じた。それで今の言葉が消せるのならいいのに。そう願っても無駄なのはよく知っている。アイドルが元通りに活動できるようになるのは、多分、大学の授業がどうにか再開するよりも後の話だ。トップアイドルと呼ばれる人たちであれば話は別だけれど、僕たちはまだその場所には届かない。存在しないアイドルは応援できない。いつまでも待っていてもらえるほど甘くはない世界だ。これまで積み重ねてきたものが少しずつ崩れていく。僕たちが動けなくなっている間に全部が溶けて、何もなくなってしまうのかもしれない。何かが僕たちの足元で大きく口を開けている。呑み込もうとしている。
『さて』
短い言葉の後に耳慣れない音がして顔を上げた。映る雨彦さんの姿を見て、その音の正体に気が付いた。くぐもって聞こえたけれど、雨彦さんが手を打った音らしい。
『それなら、勉強の成果でも見せてもらうとするか』
「え?」
『古論はそこで踊れるかい?』
『人はいませんが……』
クリスさんの戸惑った声が聞こえた。じゃあいけるな、と珍しく雨彦さんは強引に話を進めていく。雨彦さんの姿が遠ざかる。準備運動のように体を動かしているのが見える。本当に踊るつもりなんだ。
『北村も』
「え……えー、うん……」
立ち上がって、僕の姿がどうにか映るようにスマホを棚の上に置いた。下の階にも住んでいる人がいるのだから、全力で踊るわけにはいかない。つま先を床に軽く打ち付けるのはいつもの癖だった。ダンスシューズは履いていないし、レッスンスタジオの床でもないから、返ってくる感触は全く違うけれど。
クリスさんもどこかにスマホを立てかける事ができたらしい。海を背にした影が小さく見えた。雨彦さんが曲名を告げる。僕たちが一番多く歌って踊った曲だ。二人の姿はほとんど見えないけれど、カウントだけで今二人がどう動いているか、僕がどう動けばいいかがわかる。ワン、ツー、スリー、フォー。単調に繰り返されるカウントに引き込まれていく。ステップ、腕の角度、表情。もう何日も眠っていたものが目を覚まして、血のように体を巡っていく。ダンスシューズが立てる音もないし、僕たちを写す鏡もない。それなのに僕はレッスンスタジオのにおいを確かに感じていた。二人の息遣いも、離れているのに不思議と感じる体温も。
気が付けば雨彦さんが繰り返していたカウントは消えていた。それでも僕たちは踊り続けていた。曲の最後まで踊り終わってからそう気が付いた。息が上がっていた。運動不足だ。この生活ならそれもそうだろう。
『ちょっとサボっていたんじゃないか?』
「雨彦さんだっていつもよりもしんどそうだけどー?」
『私もです。いけませんね、これでは』
そう口にするクリスさんの声は、少し弾んで聞こえた。
「人が少ない時間に走りにでもいかないとねー」
ため息をつく。苦笑いの混ざったため息はどこか軽やかに響く。僕たちの置かれた状況は変わらない。恐れていた通り、積み重ねたものはあっさりと崩れていく。それでもずっと心は軽くなっていた。
『……歴史を辿れば珍しくはないとしても、その中で生きているとなるとどうしてもな』
独り言のような雨彦さんの言葉に、クリスさんも僕も首を縦に振った。乗り越えてきた人たちがいるのは知っているけれど、それは後から振り返っているから見える事だった。終わりが来ないとは思っていないけれど、その出口がどこにあるのか今の僕たちには見えない。それでも僕たちは、強がる事に決めたのだった。
「落とし前、つけてもらおうしっかりとー。奪われた分は、後できっちり取り返しにいかないとねー」
『はは、違いない。利子もつけてもらわないとな』
『なにやら物騒な話に聞こえますが……そうですね、この逆境にもハモのように食らいついて見せましょう!』
見えない未来に竦む気持ちはまだあるけれど、足を止めたくはないと思った。ステージでもスタジオでもないこの場所で踊っただけだった。それだけだったのに、アイドルという名前の心臓はあっという間に目を覚ました。僕たちの中で動き出した。まだ死んでなんかいない。生きているのだから、何かに吞みこまれていくのをただ眺めているだけだなんてできるわけがない。
『トレーニングがてら、もう一曲踊っておくかい?』
『いいですね、何にしましょうか』
「画面録画もしておけるし、後でチェックするのもいいかもねー」
僕たちはまたそれぞれの位置について、画面越しに目を合わせた。……直接目を合わせられる日はきっとまだ先だ。でも、いつか来るその日にも、その先に連なる日々にも、この心臓を鳴らしていたい。
カウントが始まる。血が巡り始める。いつかまた浴びる光の眩しさを思い浮かべて、そこにある熱を思い浮かべて、僕は足を踏み出した。
(END)