【五+夏×七】鴉色の影爽やかな新緑が揺れ、梢がさわさわと囃し立てている。
新しい季節の生暖かな風が、顔だけでなく半袖や短パンから伸びでた素肌を撫でた。
芝生の上にペタンと座り込んだ運動着姿の七海の上に、黒い影が落ちた。陽が西に傾きかけた時刻、薄暗くなるにはまだ早い。
はっと顔を上げれば、組み手をしていた一つ上の先輩が大きな体躯を曲げてこちらを覗き込んでいた。
美しい雪色の毛先が、乱れた長い前髪に落ちるほど。
丸いサングラスの向こうから、じっと自分を見つめる美しいまなこ。
その比類なきかんばせに密かに息を呑む。怯んではいけない、たった今、打ち負かされたばかりだ。
悔しさを表に出せば、この人はそこにつけ込んでくる。
先輩が珍しく高専にいる放課後、体術を磨くために、稽古をつけてもらっていた。
「弱い」だとか「ヒョロい」とか。掛けられた言葉は、汗で素肌に張り付く芝生の数より多いかもしれない。
こうやって自分の顔を覗き込んで、何か言いたげに薄い唇がゆっくりと開くのをぐっと待つしかなかった。
「……七海、お前さぁ」
ほらきた、どうせいつものお決まりの言葉だ、と七海は覚悟した。無意識に丹田に力が籠るのは、生粋の負けず嫌いだからだ。
丸く黒い二つの鏡に、汗まみれで顔を赤くし芝生や土で汚れた自分の顔が写っている。
ふいにその中の自分が大きくなったと思った瞬間。
「な……、ん、ぅ……!?」
押し当てられた唇。奪われたファーストキス。
ゆっくりと柔らかな上下の肉裂が微かに離れ、下唇をちゅと食む。
少し引っ張られる感覚がやけにリアルで、七海は愉しまれていることに気が付いた。
偶然触れたわけじゃない。
五条さんは、私に、キスをした……。
覚悟を込めて硬くした腹筋の裏側がじんわりと熱くなる。
下の唇にゆっくりと押し当てられるエナメル質。
ただ感触を味わうように何度も甘噛みされ、もどかしい感覚が広がっていく。
いきなりのキスの理由も、頭がぼうっとしてきて考えられない。
無下限のない彼の汗の匂いが、思春期の繊細な情緒を揶揄う。
芝生まみれの手で、彼の腕に触れて良いのかどうか分からず、七海は指先だけで男の黒衣を摘んだ。
肘元のたるみをくいと引っ張ると、五条の唇がゆっくりと離れていく。
ずらしたサングラスの向こう側から、悪童感たっぷりの高慢で意地悪で綺麗な瞳が七海を見つめていた。
「はは、顔真っ赤じゃん。かわいい」
「サイテーですっ……」
もしかしたらこれが初めてかもしれない。彼の身体に打撃を入れられたのは。
七海は揶揄の言葉に顔を更に赤くし、五条の分厚い胸板をどんと押した。
もちろん体幹がしっかりしているのでその身体が揺らぐことはない。尻餅を付くのは自分の方だった。
覆い被さる鴉色の下から抜け出すと、七海はその場から逃げた。
精一杯の強がりも見透かす空色を閉じ込めた眼光が、心の深いところまで差し込むのはこれが初めてだった。
恥ずべきことだけど、考える間も無く身体が動いていた。あの場に留まってはいられない。
五条の大きな口が開いて頭から飲み込まれてしまいそうな、圧倒的な彼の空気に本能的に逃げ出した。
キスが揶揄いなのか、悪ふざけなのか、はたまた……。
その真意も分からないけれど、とにかく今の五条の前にはいられなかった。
後で顔を合わせたときに何を言われるか、なんて考える余裕もない。
唇も柔和な濡れた感触がいつまでも残っていて、手の甲で拭えば青い草の匂いに咽せそうになる。
耳の先や心臓がズキズキして痛い。それに、腹の深いところも。
組み手で負かされた痛みや悔しさを上書きする初めての感覚。
振り返ることも出来ぬまま、七海は寮へと駆けて行った。
▲△▲
グラウンドから寮へと向かう道すがら。
後もう少しで門をくぐるというところで、また黒い大きな影にどんとぶつかった。
ふらついてよろける七海を支えた男は、掴んだ腕を離してはくれない。
「待って、七海」
「あ……、夏油さん」
じいと衣服よりももっと深い闇色の瞳が自分を見下ろしている。
もう一人の先輩にキスされ、赤い顔で逃げ出した顔を。
七海は視線を意識して顔を背けた。長い前髪で目元が隠れていて良かった。
唇からファーストキスの余香を拭い取ったけれど、もしかしてこの人は気付いているのか。
切長の秀麗な瞳がより鋭さを増すのが、横顔をひりひりさせる。
「は、離してください」
「どうしたんだい?」
五条さんにキスされたことを、夏油さんは知っているのかどうか。
勘付いたか、そのシーンを見ていたのか、残穢を視たのか。
人の心を深くまで見つめる眼差しに、優しい笑顔がかえって怖い。
五条とは正反対の態度が、七海の心を惑わせる。
「顔が赤いよ」
「あ……」
「悟に何かされたかい?」
ひたと大きく綺麗な手が輪郭に沿う。上気した頬には心地良い冷たさ。
これ以上背けるのは許さないとでもいうような強い手付きで、顔を上げさせられる。
白い喉元を晒し、おとがいがぐいと持ち上がる。
斜めに流した金絹の毛先がさらさらと雪崩れ、七海の目元が露わになると、夏油の指先が目尻をゆっくりと撫でた。
泣きたくなるくらいパニックだったけど、涙は溢れていない。
でも、夏油の仕草は涙拭うようで、七海は心臓がまた見えない手で掴まれたように痛んだ。
「あの……」
「何でもないって訳じゃなさそうだね」
「……夏油さん、そぉやって探るの、性格悪いですよ……」
七海が眉間に力を込めて負けん気で柳眉を逆立てると、夏油は一層微笑みを深くした。
そして掴んだ腕にそっと力を込めて引き寄せる。
その力の強さに狼狽えていると、また、影に覆い被さられてしまった。
腕よりも別なところに落ちる感触に七海は眉を潜めた。
ああ、これは知っている。だって、さっきも、されたから。
「ぅうん……」
もう一人の先輩にも唇を奪われ、七海はすぐそばの黒髪を甘い鼻息で揺らした。
上唇をちゅうと甘く吸われ、嘴のように尖った口器を舌先でくすぐられる。
五条にされたキスとはまた違った上手さ。熱い軟体がするりと上下の狭間を舐め、薄く開いた歯列を割って侵入してくる。
この人に噛み付くなんて出来ない。いいように舌を絡められ、擦り合わされ、自分がディープキスをしているのだと分からされる。
抗えず、なす術もなくオトナのキスを受け入れ、また腹の内側がぞわぞわと騒ぎ出す。
初めて生まれた感覚に今度こそ、本当に目尻にじんわりと涙が溜まる。
「ふ……ァ、げとぉ、さん……」
「かわいいね、七海。部屋まで送っていくよ」
「ひ、一人で戻れます」
「今、君を独りにしたら悟に先を越されてしまいそうだからね」
もう既に、夏油にキスする前に手を出されてしまったのだけど。
何かされたと知っている口振りに七海は何も言い返せなかった。
どうして、この人たちは私にキスを……。
五条だけでなく、夏油からも口付けされ七海はますます分からなくなっていた。
ただの暇潰し、何かの罰ゲーム。それだったら早く種明かしをして欲しい。
掴まれた腕が解かれたけれど、胸の痛みは未だ続いている。
そっと肩を抱かれて家屋へと誘われる中、七海は俯いていて気が付いていなかった。
木陰で自分達を見つめる男の存在を。
夏油のボンタンの幅広い生地が歩くたびに生足に擦れ、彼との距離に心が波立って落ち着かない。
自分の部屋の前まで行くのに、とてつもなく長い回廊を歩かされた気分だった。
「私はこの後任務があるから、気を付けるんだよ」
そう言って去っていく夏油に一応の礼を告げ、七海はドアを閉めた。
自分の部屋に帰ってきた安堵から力が抜け、戸に背中を預けてずるずると座り込む。
西日が薄いカーテン越しに差し込んでいて、七海の足元にまで届こうとしている。
二人の先輩から、同じ日にキスをされた。
急に宙へと放り投げられたような青い春の心を抱え、キスによって生まれた居心地の悪い感覚が広がる腹部を両腕で覆う。
「一体、何だっていうんだ……」
七海はその場に蹲って、本音を吐き出した。