甘くて昏い夜のこと 恋に落ちたときの匂いを覚えている。
七海が帰ってきてからしばらく経ったときのことで、僕はたびたびアイツの家に転がり込んでいた。七海がまた、あの時みたいにふいっといなくなってしまわないかすごく心配だったから。
「そんな風につきまとわなくても、もう逃げたりしませんよ」
って七海は僕が部屋を訪れるたびに、呆れたみたいな顔をしてクソデカい溜息をつくけど。
「ほんと?」
「ええ、大人ですから」
それでも僕は疑心暗鬼なので七海の家に入り浸る。任務やら情報共有やら何やら、本来なら補助監督がやる仕事を僕がひったくって、あらゆる雑務を届ける態で部屋を訪れていく。
大人かあ。
僕は高専にいたときからずっと七海のことが好きだったし、なんか色素の薄い柔そうな肌とかまだ少し未発達の手足とかさらさらの金髪とかに一目見たときからなんか釘付けになってしまったんだけど、七海にはそんなのは全部子供の戯れみたいな感じで思われてたのかなーとか考えてしまう。
ずっと好き好き言ってたから、厳密にいつから好きだったのかわかんないし。七海にはこの人マジでうるさいな、みたいないつもの眉間に皺を寄せた顔をされて適当にあしらわれていただけなんだけど。でもうっかり押し倒したりしたときも、なんか思ったより手応えがなくて、あれ、なんかもっと、嫌がったり舌打ちしたりするんじゃないの七海、って顔を見上げたら、七海はやっぱり困ったみたいなうんざりしたみたいな表情をしてるだけで、僕のことを押しのけたり引っぱたいたりしないので、これはいいってことなのかな?って頬を寄せたり唇を押しつけたりしてたら
「そういうのは大人になってからするものでしょう」
って平然と涼しい顔で言われたんだった。確か。
なんだよ真面目かよ、って思ってから、いやでもこれは嫌いって言われてないしワンチャンありなのでは? ってめちゃくちゃ都合の良い解釈したりしたんだけど、まあ、七海がそう言うなら、って僕はいったん引いたわけ。
でもそうこうするうちに僕らには普通の学生時代よりけっこう酷いことが色々と起こって、僕も七海も色々と打ちのめされてしまったし、七海は突然僕の元を去ってしまったし、その時の僕らの様子を説明するのは難しい、とても。
でもともかく七海は帰ってきた。
僕はそれが嬉しくて嬉しくて、任務の前後や授業の合間に、七海がいてもいなくても、勝手に部屋に上がり込んでテレビ見てたりソファで昼寝したり、冷蔵庫にあったプリンを勝手に食べて七海の帰りを待ってたりする。何をしても七海は特に怒らなかったけど、プリンがなくなったのがバレたときはすごく怒られた。ごめんって。
その日も、僕は自分の任務が終わった後、夜遅くに七海の家に向かった。明日の伝達事項と、その他諸々、何よりあいつの顔が見たいから。
で、もう寝てるかもしれないな、と思いながらエレベータで七海の家のドアの前まで来たときに、僕は思わず立ち竦んだ。
そこら一帯に、甘くて良い香りが漂っていたからだ。
「なにこれ?」
僕は急いで部屋のドアを開ける。
その途端、僕の身体にその濃密な甘い香りが纏わり付いて、まるで身が竦んだように動けなくなってしまった。七海の部屋じゅうに、その甘い香りは立ちこめていて、窒息しそうだった。
これ、カラメルの匂いだ。
砂糖を煮詰めて、少しだけ焦がした、ビターで甘い香り。
「七海?」
僕はかろうじてそう尋ねる。
すると、薄暗いキッチンで作業をしていたらしい七海がふと手を止めて、ああ五条さん、と答えた。
「七海、何してるの」
目を懲らすと、大柄の筋肉質の男がボウルと泡立て器を抱えていた。そのシルエットが、妙にミスマッチで、ボウルも泡立て器もひどく小さく見えて笑ってしまった。本当に、いつの間にこんなに大きくなったんだこの子は。
「五条さん。いま、ちょっと、プリンを作っていて」
「プリン」
僕は甘い香りの中を漂うようにして七海に近づく。
「今、黄味と白身を粉砕してるところです」
僕はボウルの中身を見る。
そこにはありったけの卵が、呪術界屈指の近接ファイターの腕力で潰されたいた。
「容赦ないね」
「はい。私の十劃呪法はどんな相手にも強制的に弱点を作り出し、対象を線分したとき7:3の」
「待って、術式開示しないで」
しかし七海は手を止めず続ける。
「あなた、買ってきた端から、全部食べてしまうでしょう。もう山ほど自分で作ることにしました」
「そんなに食べたかったのプリン」
「そうですよ」
僕は七海の隣に立ってその手元を見つめていた。溶いた卵と牛乳と砂糖を鍋に合わせて小鍋に移し、火にかける。
「卵多めの固いやつです」
「僕の好きなやつだ」
七海はカラメルを入れたガラスの器に、温めた卵液を漉して流し入れ、僕はソファに座って大人しくその様子を見ている。何かに集中しているときの七海は邪魔をするとすごく怒るし、何よりこの馨しい香りをずっと堪能していたかったから。
砂糖とバニラの甘ったるい香りに、全身が溶けていくみたいだ。
これに、すっかり僕は参ってしまった。
甘いものは好きだし、プリンだってよく食べるけど。作っているところを見るのは初めてだった。
食べる以上に、それを作っている過程の匂いがこんなに心地よい素敵なものだなんて、僕はこれまで知らなかった。こんなに幸せで、甘美な香りがこの世にあるなんて。
七海は容器に流し入れた卵液をオーブンに入れると、僕の隣に腰掛けて手元にあった本を開いた。
「あとはオーブンで蒸し焼きにします」
七海の体の至るところから、カラメルとバニラの甘い匂いが漂ってきて 僕は、あまりに幸せな気持ちで、傍らの七海の身体に倒れ込んだ。そして、思わずその首筋のあたりに鼻を押しつけた。
「いい匂いだね」
「2、30分くらいでできますよ」
「そうじゃない、こっち」
僕はさらに身体を傾けて、すごく久しぶりに七海を押し倒した。
昔より骨張った身体は手応えがあって、昔よりも少し、七海は驚いているみたいだった。
僕らはまあまあ年をとってもう学生ではなくて、薄い胸板の柔らかい手足をしてた少年は筋肉質のすっかりたくましい大人の男になっていて、僕は自分が知らない時間を確かめたくて、七海の胸元に顔を埋める。
「七海どうしよう、やっぱり好き」
「プリンがですか?」
「違うよ! そうだけど!!」
僕がそう言うと、七海は少し笑った。
「大人になったけど、やっぱり七海が大好きなんだよ」
僕は彼が帰ってきてから彼に何度そう言い続けたかわからない。そのたびに、七海は昔と同じように少し困ったみたいなうんざりしてるみたいな顔で「相変わらずですね五条さん」って言った。
そして、七海の大きな手が僕の頬を撫でた。
「高専のときからずっと聞いてますから、知ってます」
「大人だからもう我慢しなくていい? プリンもいっぱい食べたいし」
「どうぞ」
七海はまた静かに微笑む。僕も笑う。
それから僕は幸せな気持ちで、七海のシャツのボタンを外して、さらに濃密な甘い香りの中に分け入っていく。