Trap Drip こじんまりとした、個人経営の喫茶店。
親戚の紹介によってそこでアルバイトをしていたピーニャには、ここ最近ささやかな楽しみがあった。
「いらっしゃいませ! 今日も来てくれたんですね、先生」
ピーニャに“先生”と呼ばれた男──ジニアは、静かな喫茶店によく似合う…とはお世辞にも言い難いくたびれた格好で入口のベルを揺らした。幸い空いている時間のためテーブル席も空いているが、ジニアはいつも決まってカウンターに腰を下ろす。
「こんにちはあ。いつものコーヒーと…今日のおすすめは何ですかあ?」
「ご飯より先にコーヒーでいいんですよね。うーん、結構お腹空いてます?」
「そうですねえ」
「じゃあ、今日はドライカレーがありますよ! 親戚がガラルに行ってたんですが、すっかりカレーにハマっちゃったみたいで」
ジニアは、ほとんど決まって夕方から夜にかけての時間帯にやってくる。“先生”と言っているようにアカデミーの教師をしていて、残業があってもなくても夕食をここに食べにくるのだ。
昼休憩ならともかく、夜もそんなに融通が効くのかと以前聞いた時は、「まあ、なんとでもなりますよお」と微妙な答えを返されて苦笑した。
「へえ、ガラルに」
「普段から料理する人じゃないんですが、やたらスパイスとか買い込んできちゃったんですよ。余らすのももったいないので、代わりにボクが。まだまだ付け焼き刃ですが…」
「わあ、じゃあぼくは実験台ですかあ?」
「あ、ひどい! まずくはないですよ! …たぶん!」
コーヒーを淹れながら、軽口を交わす。これもほとんど、ピーニャの日常となっていた。どことなくくすぐったさを感じながら、もうすっかり覚えた動きでお湯を注ぐ。
慣れた、とはいえ、ジニアとの付き合いは数ヶ月ほどだ。それも、個人経営で人が少ないとはいえ喫茶店の店員と客という関係で、“付き合い”と言っていいのかすら分からない。
しかしジニアはよほどこの場所が気に入ったのか高頻度で休憩や食事に来るし、決まってカウンターに座るので比較的会話も交わしている。キッチンカウンターの形をしているそこは、仕事中でも会話がしやすいのだ。
ピーニャの最近の楽しみもまさに、これである。
ジニアはアカデミーでは生物学の教師をしているようで、かなり博識だ。普段人にものを教えているからか話も分かりやすく、時たま会話に挟まれる雑学にはよく驚かされた。
それに──…とちらりとジニアに目を向ければ、ぱちりと目が合った。
「? 店員さん?」
「! あ、っなんでもないです! コーヒー、お持ちしますね!」
不思議そうな顔をしたジニアから、慌てて顔を逸らす。まだ少し、あのレンズ越しの淡い色の熱が頬に残っている気がした。
ジニアは、身だしなみこそかなり適当だが、よく見ると本当に整った顔立ちをしているのだ。
同性だし、ピーニャに元々そちらの気質は無いし、そもそもただのアルバイトとお客だ。どうこうなろうとは思っていない。
それでも。それでも、
「…お待たせしました。今日もミルクとお砂糖はいらないんですよね?」
「はあい。ありがとうございまあす」
にこり、と柔らかい笑顔が向けられる。
「いい香りですねえ」
優しい声が、鼓膜を揺らす。
「えへへ、ありがとうございます」
それだけで、十分なのだ。
「カレーもすぐ作りますね!」
“常連だから”と誰に対するものかも分からない言い訳をしてジニア専用に作るメニューだって、ただのピーニャの自己満足だ。ジニアがいつも来る時間帯が比較的他のお客が少ないため今のところ(大目に見てくれている店長以外には)バレずに済んでいるし、そういったことに疎いらしいジニアになら気づかれることもないだろう。
「……慣れないガラルカレー作ってる間に、今日のお土産話聞かせてくれますか?」
「毎日飽きないですねえ」
「先生のお話、面白いですから!」
「若い人でそんな風に言ってくれるの、店員さんくらいですよお。…そうですねえ、それじゃあこの間個人的にしたフィールドワークで───…」
翌々日。一日の休みを挟んで再びアルバイトにやってきたピーニャは、かつてないほどの忙しさに見舞われた。
たまたま近所でイベントがあったらしく、その帰りやはねやすめに「とにかく開いている喫茶店を」となだれ込んでくるお客で溢れたのだ。
元々個人経営で細々とやっている店だ。それも今日のイベントはゲリラだったため、客足を予測して他のアルバイトを入れる対策も取っていなかった。ホールをほとんど一人で回したピーニャは、客足が落ち着く頃にはもう疲労困憊で、いつもは嬉しく思う入口のベルの音にすら『もう勘弁してくれ』と思う始末だった。
しかし、そこに現れた来客に、疲労が吹き飛ぶような錯覚を覚えた。
「こんにちはあ」
いつも通りのんびりとした声で入ってきたお客──ジニアは、ピーニャの姿を見つけるとひらりと手を振ってきた。
「先生!?」
思わず、既に暗くなっている窓の外とジニアの顔を交互に見てしまう。普段ジニアが来る時間にしては、かなり遅かった。
「こんな時間に珍しいですね、空いてる席どうぞ!」
棒のようになっていた足を跳ねさせ、カウンター席を空ける。いつもの席に腰掛けたジニアに水を出して、キッチンへと回った。
「今日は忙しそうでしたねえ」
「え? …あぁ、そうなんですよ! 忙しすぎて見に行けてないんですが、近くで何かイベントがあったみたいで…今ちょうど落ち着いたとこです。先生、いい時に来ましたね」
「ふふ。店員さんもお疲れ様です。まだ若いのに、ほとんど毎日働いてますもんねえ」
ふわふわとした声音でまっすぐ褒められ、顔に熱が集まってしまうのを隠すように俯いて頭をかくフリをした。
自分で言うのも何だが、確かに日数だけ見るとアルバイトにしてはかなり多めに入っている。喫茶店の仕事も接客も好きでやっていることではあるが、昨日の休みも久しぶりだった。
なんだかよく見てくれているな、なんて、都合よく受け取ってしまいそうになる。
「…き、昨日は休みだったんですけどね! そういえば先生、昨日も来られたんですか?」
「いえ、昨日は来ていませんよ」
「あ、そうなんですね。なんかほとんど毎日見てる気がして」
「まあ確かに、お休みの時以外はほとんど毎日店員さんの顔を見てる気がしますねえ」
「じゃあ昨日はお互いたまたま……あっ! す、すみません注文も聞かずに! 今日はどうしますか?」
ピーニャがわたわたと慌てたようにペンを持つと、あぁ、とジニアはそれを制すように手を上げた。
「今日はコーヒーだけで大丈夫です」
珍しい、と思ったが、確かにいつもより遅い時間だ。夕食は既に済ませているのだろう。
わかりましたと笑顔を返すといつものコーヒーを淹れ始める。ピーニャのシフトの時間的に、今日の最後のお客だろうか。それがジニアであることで、今日一日の疲労が報われたような気さえした。我ながら随分単純だ。
鼻歌でも歌い出しそうになるのを堪えながら、お湯を注ぐ。いつも通りブラックで提供すれば、軽く礼を言ったジニアは立ち上る湯気を眺めつつ、うっすらと口を開いた。
「…そういえば、昨日のお休みは何をしていたんですかあ?」
カップを持つ指をぼんやり眺めていたピーニャはその声で我に返ると、慌てて問われた内容を反芻する。
「あっ、ええと、昨日…は、そうだ、出かけてました! 最近全然服買えてなかったので、そろそろ新調しようかなって」
「お友達と?」
「いやー、シフトが不定期なのでなかなか友達とは遊べなくて、一人ですよ」
「へえ」
短い返事の後、カチャリと僅かに音を立ててカップに口がつけられた。思わず顔に集中してしまう視線を剥がしながら、なんだかいつもと雰囲気が違うような気がするジニアにそわそわとエプロンをいじる。
そうだ、いつも会話は基本的にピーニャから振っていて、今日のようにジニアから掘り下げられることはあまりなかったのだ。
夜、という雰囲気もあいまってか、なんだかジニアがいつもと違う人に見えた。
「……せ、先生は昨日もお仕事ですよね?」
何故だかいたたまれなくなって、とりとめもない話を振ってしまう。いつも何を話していたか、すぐに思い出すことができなかった。
「そうですねえ」
「忙しかったんですか? 昨日、うち来られなかったんですよね」
口に出してから、しまった、と思った。これではまるでジニアが来るのを待ちわびているようではないか。実際はピーニャも休みだったため昨日来ていたところで会えはしないのだが、もう少し別の言い方をすればよかったと冷や汗をかく。
「昨日は、」
ぴたり。と目が合う。
カップが置かれるのが、随分ゆっくりに感じられた。
「きみがいなかったので」
「っ、え?」
すんなりと言葉の意味を理解することができなかった。
「今日遅くなったのも、理由が二つあります」
畳み掛けるように、ジニアが指を二本立てる。
「ひとつ。突然のイベントのせいできみが忙しそうで、ゆっくり話せそうになかったから」
「え、ぁう、」
困惑で頭が回らない。相手がジニアなせいもあるだろう。疲労のせいもあるのだろうか。
「もうひとつ。もうすぐきみがあがる時間だと思ったから」
少なくとも一人でも冷静にジニアの言動を観察できる者がいれば、「やめておけ」とピーニャに言ったのは間違いないだろう。
「ところでぼく、夕飯まだなんですよねえ」
「え、あれ? 食べたんじゃ、」
「そうは言ってませんよ」
一口、黒いコーヒーが飲み込まれる。
今まではふわりと包むように合わされていた視線が、明確に絡め取られた。
「“ピーニャ”さん」
にこ、という笑顔が、いつもとは違うように感じられた。
「この後どうですか?」
終