革のにおいこの人、リーグに入る前は族か何かだったのではないだろうか。
人気のない倉庫で壁際に追い詰められ、下から顔を覗き込まれる。深紅の瞳が放つ鋭い視線に晒され、アオキは珍しく焦燥感に駆られていた。自身が知る限り誰よりも長い脚が腰のあたりで壁を蹴り、身動きを封じられている。
「アオキさん、さっきの試合のことで、ちょっと話せますやろか」
数分前の出来事を思い出す。
久しぶりに現れた骨のあるチャレンジャーとのバトルを終えたばかりのアオキに大股で歩み寄ってきたチリは、不機嫌さを顕にそう声をかけた。周囲にいたハッサクやポピーが不安げに見つめるほど有無を言わさぬ口調に大人しく従い、ほとんど使われることのないリーグ地下の倉庫へと連れてこられた。人気のない廊下を彼女について進む間、どこか気に障るような内容があっただろうかと、バトルの流れを思い返したが心当たりはない。倉庫のドアを開けたチリはアオキを中へと促し、後ろ手に鍵をかけた。不審に思う間もなく両腕を捕まれたアオキは、一瞬で壁際に追い詰められたのだった。
「チリさん、これは……」
恐る恐る口を開くと、一拍置いてチリの口角が上がった。
「ちょろいな、アオキさん」
「………は?」
「ウソや、あんなん。ウソっちゅうか、口実やな」
呆気に取られるアオキを他所に、チリは脚を下ろして手のひらをこちらに向け、敵意がないことを示すポーズを取った。
「ああでも言わんと、2人きりになれんからなぁ」
「どういう、」
「この後ジムに戻るんやろ?」
真っ直ぐこちらを見つめる瞳からは、先程の不機嫌さは消えていた。代わりに別の"熱"を感じる。
「失礼しますー」
そう言ったチリは、徐にアオキの手を取った。そうして試合中から嵌めたままのグローブの留め具を外し、露になった手首のあたりを、赤い舌でゆっくりと舐めた。
「っ!……なに、を」
「んー?なんやろねぇ」
チリは平然とグローブをまくり続ける。嫌な汗が掌に滲むのを感じたが、アオキの反応などまるで気にしていないという様子で、親指の付け根の辺りにも舌を這わせた。何が行われているのか分からず混乱する頭の中で、とにかく止めさせなければと警鐘が鳴る。
「あの、勘弁してください……試合中、汗もかいていますし……衛生的にも……」
「知っとるよ、バトル中気にしとったし。あれだけ白熱したらそら汗のひとつもかくわな」
「におい、とか……」
「おんなじ手袋しとるから慣れとるし」
汗で張り付いたグローブが、裏地を見せながら親指から外される。チリの細腕など、振り払おうと思えば簡単なことのはずなのに、裸になった親指が、彼女の赤く小さな口に吸い込まれていくのを見ていることしか出来ない。
ぱく、と音がした気がした。親指の付け根に、歯の固さを感じる。チリはゆっくりと舌を這わせながら、上下の唇で根本から指の背と腹を柔らかく擦った。指先へと達すると、軽いリップ音と共に親指を解放する。挑戦的な視線が下から覗いている。
熱を持った指が、黒い革を剥かれていく。チリは親指と同じように、一本ずつアオキの指を吸った。唾液で濡れた指が空気に触れる度、何かが背筋を駆けていく。
グローブが完全に剥ぎ取られ、最後の一本をざらりと舌が擦る感触に耐えながら、アオキは自身の息がかなり浅くなっているのを自覚していた。横目で先程チリがかけたドアの鍵を確認する。
小指が解放されるのを待って、チリの顎へと手を伸ばす。角度を付けて、彼女の濡れた唇へと顔を近付けようとした瞬間、ぺち、と乾いた音が響いた。顎に添えた手を叩いたチリは、満足気な笑みを浮かべながらアオキの手を振り払うと、一歩下がって距離を取った。
「職場やで」
「それは、あなたが...」
「いやー残念やなー。チリちゃん珍しく今日はもう上がりやねんけど、アオキさんジム行かなあかんもんなー」
大げさな身振りを交えて白々しく告げたチリは、身動きが取れないでいるアオキを頭から足先まで眺めると、再び距離を詰めた。首元に小さな顔が寄ってくる。
「それとも、ここで続きします?」
「...っ」
「なーんてな」
パッと身体を離したチリは、再び両手を開いて掌を見せた。
「チリちゃんのこと、ずいぶんほっぽっといてくれたやん。せやからこれはお仕置」
「それは、仕事が...」
「知っとるけど、そろそろ限界やな〜。このままやとチリちゃん何するか分からんよ。そのへんのかわいい子ら全員食ってまうかも」
ポケットに突っ込んでいたグローブを、胸元に突きつけられる。チリはそのままドアへと向かい、鍵を開けた。
「チリさん、」
「19時まで、宝食堂で待っとるわ」
ほな、と言ってチリは何事もなかったかのように部屋を出ていった。
アオキはその場にしゃがみこみ、深く息を吐くとスマホロトムで時間を確認する。16時を少し回ったところだった。今日中に終わらせなければならない膨大なタスクをリストアップしていく。
「タチが悪い......」
小さく呟いて、アオキは立ち上がった。無意識にグローブの着いていない手を顔の前へと持ってくる。
革のにおいに、微かな甘さが混じっていた。