[webオンリー展示]Good boy.「よしっ、終わったっ」
ディスプレイから顔を上げて背伸びをする。最後に時間を確認してから、二時間が経っていた。
ふう、と息を吐いて冷めきったコーヒーに手を伸ばして、ようやくSAIはずっとそこにいた人影に気づく。
「りゅ、龍水っ⁉」
ソファに座ってこちらを見ていたのは、弟、龍水だった。様子から察するに、今来たばかりというわけではなさそうだ。
「終わったのか」
「う、うんっ、……ごめん待たせた?」
「構わん」
龍水はいつもどおり鷹揚にうなずいて、
「待ってたぞ」
と言った。
「ああ、うん……?」
ごめんの返事が構わない、なのだから、龍水が求めているのは謝罪ではないのだろう。しかし、じっと訴えるように見つめてくる瞳がなにを期待しているのかSAIは皆目見当もつかず戸惑う。
「貴様、待てと言っただろ」
「……言った、っけ」
「言ったぞ」
「いや、言ったね、うん」
ぼんやりしているが、記憶がよみがえってきた。たしかに言った気がする。ちょうど作業に集中しているときだったから、龍水が来てばーっと話し出した口を静かにさせたくて、ほぼ無意識のうちの言動だった。
──ちょっと大人しくして待ってて、そう言って。
わしゃわしゃ。
弟の頭を撫でたのはなかば無意識だった。
思い出して、SAIは若干赤面する。もう成人した弟になぜあんなことをしたのか。
しかし、そんなSAIにはおかまいなしに、龍水はもう一度同じようなことをくりかえした。
「だから、大人しく待っていたんだ」
「……うん……?」
話の着地点が見えない。SAIが待っていてと言ったから待っていた。それはわかった。なにか用があったから待っていたのではないのだろうか。
困惑するだけのSAIに焦れたのか、龍水が眉を寄せた。怒っているというよりは、それはまるですねているような表情だった。
「褒めないのか」
一瞬、なにを言われたのかわからなかった。その次に日本語の意味を取り違えたのか疑った。
だって、そんないじらしい言葉、このいつも自信満々な弟には似合わないだろう。まじまじと龍水を見つめる。
しかしいたって本気でSAIに褒められたがっているようだと遅まきに理解すれば、SAIの心の底のほうに、じわりと甘い優越感のようなものが湧き上がってきた。いつも人を褒めてばかりいる弟を、褒められるのが自分だけなのだ。
SAIはゆっくりと弟に向かって手をさし出した。
「……おいで」
それは正解だったらしい。龍水の顔がぱっと輝いて、いそいそと寄ってきてSAIのそばに身をかがめる。
SAIのてのひらに、すり、と頭がすり寄せられた。さらさらした髪の奥に、あたたかい体温の感触を感じる。人の頭を撫でたことなどほとんどないから、おっかなびっくり、できるかぎり優しくそっと手を滑らせる。
犬みたい、とSAIは思った。なんだっけ、あの大きくてぴかぴかの金色で、いつも笑っているみたいな犬は。
そうだ、ゴールデンレトリバーだ。
思ってしまえば、もう、そうとしか見えなかった。さっきの目は、待てをされたあとに褒めてほしがる犬そのものだった。そう思うとそのあどけなさに心臓のあたりがうずいて、勝手に口が動いていた。
「いい子」
SAIの手の向こうで、龍水が満足げに目を細めた。その表情が飼い主の前でリラックスしている犬そのもので。
犬を飼っていた同僚が、何度家の中をめちゃくちゃにされても笑って許していた理由がわかった気がした。ちょっとくらい迷惑をかけられたって、全幅の信頼を寄せてくる存在にこの安寧を与えられるのが自分だけだと思ったら、もうなんでもしてやりたくなってしまう。
龍水なのに、もうちゃんとした大人の弟なのに。
認めたくないけど。
ああもう、かわいくってしかたない。