はやく君のものにして「恋人ができたって本当?」
大真面目な顔でたずねられ、一瞬、意味を理解するのが遅れた。それくらい予想外の問いかけだったのである。しかし驚きから生じたその間は、兄の誤解を深めるのに十分だったようだ。独り言のように小さく、本当なんだ、とつぶやくのがかろうじて龍水の耳に届いた。
龍水に特定の相手ができたなどと、いったいだれがこの兄にそんなことを吹きこんだのか。龍水の知るかぎりそんな噂は立っていないはずなのに。
ひとまずは事実を伝えようと口を開く。
「いや、」
「別れてよ」
「………………は?」
今度は、一瞬では済まなかった。
目を見開いて固まった龍水に対して、SAIは変わらず真顔で微動だにしない。そのまま何秒経ったのか、ようやく龍水は聞き返した。
「なんだと……?」
あまりにもSAIらしくない言葉に、聞き間違いか、あるいは別の意図があるのかと勘繰る。しかしそんな考えは、当の本人によりあっさりと否定された。
「誰だか知らないけど、そいつと別れろって言ったんだ」
きっぱりと言い放ったSAIは、睨みつけるような強い視線でまっすぐに龍水を見つめている。兄が第一印象よりも意志が強い男であることはよく知っているが、こんな姿を見るのは初めてで、龍水にしてはめずらしくかなり困惑していた。
「なぜ誰かもわからないのに反対する?」
率直な疑問だった。
龍水は家族についてよく知らない。しかし普通は相手に関する情報がない状態で、しかもまだ交際の段階で、反対などしないのではないだろうか。少なくとも龍水はそうだ。
「俺は貴様が誰を愛そうが、よっぽどの相手でなければ応援するぞ」
「そりゃおまえはそうだろうね」
その言葉に突き放されたように感じて、龍水は黙った。
僕とおまえは違う。物心ついてから今日まで何百回と言われてきた言葉だった。時には諦念、時には激しい憎悪をともなって。
龍水の表情が硬直したのを見てSAIがあわてたように首をふった。
「反対とか、そういうんじゃないよ。僕は……」
言いかけた言葉を切って、SAIは龍水から逃げるようにふいと目をそらした。そして、少し間を置いて大きく息を吐いてから唐突に、おまえ覚えてる? とたずねた。
「僕が昔、いつも持ってたおもちゃのこと」
「おもちゃ?」
「ルービックキューブに似てる、いろんな形になるパズルみたいなやつ」
「ああ……」
そう言われてみれば、幼いSAIの手にはそんなものが握られていた気がする。龍水の記憶が正しければ、SAIが小学生になる年齢ごろまではよく持っていたように思う。
「あれさ、ほかの兄弟に譲れって言われてとられたんだ」
いつのまにか見なくなったのは単に飽きたからだと思っていたが違ったようだ。似たような経験は龍水にもあるので想像は容易だった。もちろん龍水は譲らなかったが。
そのときのことを思い出したのか、SAIは不機嫌そうに黒々とした眉を寄せる。
「嫌いなんだよっ、昔から……。自分のものを人にとられるの」
それは、どういう意味だ。
は、と息のような声だけが漏れた。SAIの言葉を頭の中で反芻してみても、脳みそがうまく働かなくて、なにか言うべきことがあるような気がするのに言葉にならない。
「……俺に恋人ができたというのは、事実では、ないぞ」
と、やっとそれだけを伝えた。
「そっか!」
それを聞いたSAIの顔がぱっと輝く。
「じゃあいいや、あっそういえばこの前お前が言ってたゲームのギミックなんだけどっ」
急に機嫌がよくなったSAIはすっかりいつもどおりで、さっきまでの姿が嘘のようだ。弟に恋人と別れろと言うような兄にはとうてい見えない。けれどほんの少し前、その口がたしかにそう言ったのだ。
ああ、と心ここにあらずな相槌を打ちながら、龍水の脳内にさまざまに思考がよぎる。
これから俺に恋人ができたらやはり別れろと言うのか、とか、貴様は俺を自分のものだと認識しているということか、とか。
そして、もしもその恋人が見も知らぬほかの誰ではなくて──、龍水を誰にもとられたくないと言う独占欲の強い男だったら? とか。
そんな想像が苦しいほどに心臓に絡みついて、消せない。