龍の揺り籠 運転がうまいな。そう褒めると、きまってSAIは複雑な顔をする。
かつてのインドでは日本の交通マナーは通用しなかったと話では聞いたことがある。向こうでは貴様もスピード違反したのか、とたずねると、スピード違反なんて存在しないよ、と肩をすくめていた。つまりは無法地帯だからどれだけ速度を出しても問題ないということらしい。ルール無用の運転をしていた姿を見たかったと好奇心を抱いてしまうほど、SAIの運転は丁寧で滑らかだ。
とは言っても、SAIがドライバーを務めることは多くはない。雇っている運転手の仕事をむやみに奪うことはないし、そもそも龍水自身も運転はできるのだ。
だから、こうしてSAIが龍水を迎えに来たときくらいしか機会はない。
龍水は、仕事で出かける以上に趣味の旅も多い。そんな弟が、船で帰ってくるなら港、飛行機なら空港、電車なら駅に、どんなに仕事が切羽詰まっていてもSAIは必ず迎えに現れる。いつだったかその目の下に薄らと隈を見つけて、運転をかわろうと言ってみたこともあるが、なんで迎えに来られたほうが運転するんだよと却下されてしまった。
どんなに遠くからでも帰る前に必ずSAIに連絡するのが、ふたりの間の暗黙のルールだった。なにか始まったきっかけがあったのか、今では覚えていないほど前からこの習慣は続いている。
こんなことを多忙なSAIがする必要はない。断るべきだ。その考えは毎回頭に浮かぶのに、SAIがあまりに当然のような顔をしているから言い出す機会を逸していた。
いや、嘘だな。龍水は己の言い訳を否定する。本当はこの時間が失われてしまうのが惜しくて、今日まで口に出せなかったのだ。
「SAI」
ん、とSAIが返事をする。息を吸う音が、静かな車内に存外に響いた。
「次からは迎えに来なくていい、……と言ったらどうする」
ずるい聞きかたを。龍水が自分自身の情けなさにわずかに眉をひそめた事実を、この暗闇が覆い隠してくれるだろうことが唯一の救いだ。
SAIは龍水をちらりと見て、表情を変えずにすぐに前に視線を戻した。
「嫌なのか?」
「嫌、ではない」
むしろ嬉しいと伝えていいのか迷って、結局口にはしなかった。龍水が期待を見せたら、この兄は二度と応えてくれないような気がして。
「じゃあいいだろ」
SAIはこれで会話は終わりと言わんばかりに切り上げた。
どういう意味なのだろうか。SAIがこの習慣を続けたがる理由はないはずだ。龍水は兄の思考がよくわからない。
もしかすると、大昔に置いて行った幼い龍水への罪滅ぼしなのかもしれない、と考えることがある。こうしてそばにいてくれることも、すべて。それならなおさら、罪悪感から解放してやるべきかとも、思う。
塗りつぶされたかのように真っ暗な道路を、ハイビームの光の筋が走っていく光景を黙ったまま眺める。それをどう思ったのか、SAIは龍水に言った。
「寝てろよ」
「だが」
「大丈夫だから」
兄の横顔を見た。街灯から車内に届くわずかな明かりだけが、その高い鼻や頬の精悍な輪郭を浮かび上がらせている。
それをぼんやりと見つめているとおかしなことに、大きな翼の下で守られているような気分になった。
ここにいればすべてが大丈夫だ、こうして兄の傍らにいればなにもかも。
まるでここが世界一安全な場所のように感じ、複雑な思考は溶けて全身が安堵に満ちていく。幼子のころですら覚えのない感覚に、龍水はまどろみに誘われながらも戸惑う。
けれど、嫌ではない。むしろ心地よかった。ずっとこの時間を味わっていたいと思っても、睡魔はいとも簡単に龍水の意識を奪い去っていく。
眠りに落ちるその瞬間に、おやすみ、とささやきが聞こえた気がしたけれど、それは龍水の気のせいだったのかもしれない。
信じられないほど優しく、愛おしむような声だったから。