サイカイ(キバ練)「……変わってない、か。」
路地裏にある、薄汚れた室外機の下。
古びたクッキー缶を開ければ、「キバの太陽」の面が月明かりを浴びて鈍く輝いていた。
___今日は、『西園練牙』の誕生日。
キバからのメッセージを貰って、もしかしたら今日この場所に来るのかも、なんて考えた。こっそり寮を抜け出して、あの時みたいに胸を高鳴らせて。逸る鼓動を押えながら薄暗い路地を覗けば、そこは静まり返っていた。
……ほんの、ほんの少しだけ、期待をしていた。今日なら、…今日こそ、キバに__練牙に、会えるかもしれないって。きゅ、と胸の奥底が痛んだ。
自分の期待と寂しさを沈めるように、ゆっくりと缶を閉まっていく。……大丈夫、練牙はオレを、ずっと見ててくれる。きっと、いつかまた逢えるはず。
沈んだ気持ちを晴らすように、顔を上げた。
__その時。
「……は、」
薄暗い路地裏の奥。
__顔を覆い隠すような黒いフードの隙間から覗いた、赤い髪と赤い瞳が見えた。
オレは慌てて走り出した。靴のつま先で蹴飛ばした空き缶が、鐘のように鳴り響く。
翻った黒い羽織を逃すまいと、必死に手を伸ばした。狭い路地裏で体制を崩し、伸ばした手はフードの下の方へ伸びる。
ぐっ、と黒いフードを掴み、震える声で、その名を呼んだ。
「__っ、キバッッ!!!!」
顕になったフードの下__オレと同じ顔をしたキバは、酷く驚いた様子でオレを見ていた。
ああ、ようやく、__ようやく、会えた。堪らずじわ、と涙が滲む。まるであの頃の、ストリートのレンに戻ったような、そんな気持ちだった。
言いたいことが山ほどあったはずなのに、言葉にならず、喉に詰まっていく。せっかく会えたのに、言いたいこと沢山あったのに、出てくるのは涙だけだ。あぁだって、この薔薇の優しい香りだって、キバそのもの__と、考え、思考が止まる。
__薔薇の匂いに交じって、鉄臭い、錆びたような匂いがした。
ひゅ、と少しだけ呼吸が止まる。暗く狭い路地裏じゃ分からないけど、キバは何処か怪我をしている。青ざめるオレとは対照的に、キバは優しく微笑むだけだ。
言えず溜まった言葉を飲み込み、詰まりかけた声で言う。その声は、今にも泣き出しそうな程、情けなく震えていた。
「…っ、何処か怪我して__」
「__レン、」
言いかけた言葉が、キバの呼びかけで消えていく。……オレにキバの言葉を遮ることは出来なかった。キバの言葉なら、なんだって聞きたかったから。
あの時と変わらず、優しく名前を呼ぶキバは優しく微笑む。その顔は少し悲しげで、オレもなんだか泣きそうになった。
キバはオレの手を握る。その手は、少しだけ冷たかった。
「__絶対、絶対にまた逢えるよ。…だから、レン、」
する、とキバの手が離れていく。キバは、その言葉の続きを言わなかった。……言わなくても、馬鹿なオレですら分かってしまった。
キバはもう行ってしまう。
でも、オレに引き止める術はない。……あの頃から、ずっとずっとそうだ。オレは行ってしまうキバの手を、掴むことはできない。オレが、キバを縛ることはできないから。
堪らず、下を向く。
あの頃のキバみたいに、気の効いた言葉すら言えない。視界から消える黒い羽織を、名残惜しく見ていた。
__と、その時。
ぐっ、とその冷えた手がオレの手を掴んだ。顔を上げるオレの瞳には、練牙の笑った顔が映る。壊れ物を扱うみたいに、キバはオレの手を絡めると、太陽みたいに笑って言った。
「__レンは俺が守るよ。だから絶対に、また会える。」
「……や、約束?」
「あぁ、約束。」
そう言って、キバは祈るように繋いだ手に口づけた。そうして名残惜しく、その手が離れる。
キバはフードで顔を隠し、黒い羽織を翻した。キバが行ってしまう。悲しくて寂しい気持ちは変わらない。けれど__キバが約束してくれたから、堪えることができた。
黒い羽織が路地裏の奥へ消える直前、はっ、と思い出す。そうだ今日、言わなきゃいけない言葉がある。オレばかり貰っている言葉を、少しでも返さなきゃ。
すぅ、と薄汚れた息を吸った。消えゆく優しい彼に、どうか届くように。
「__き、…キバッ!!誕生日…っ、おめでとう!!!!」
キバがパッ、と顔を上げる。そうして小さく何かを呟くと、路地裏の奥、暗い方へ消えていった。
声は聞こえなかったけど、キバが何を言ったかは分かった気がした。
『ありがとう。レンも、おめでとう。』
路地裏に月明かりが差し込む。
握られていた手を見てみれば、少しだけ赤い血がついていた。その血を守るように、優しく手を握る。
そうして、あの時のキバのように、拳を鼻先に当てて、目を瞑った。
キバに会えたのは嬉しかった。……でも、この再会は少しだけ喜べない。言いたいことも言えなかったし、何よりキバが心配だ。
まるであの頃のオレのように、顔を隠すキバは、何かから逃げ隠れているように思える。
……なぁ、キバ。
キバは今、幸せか?
馬鹿なオレは、あの一瞬でキバが幸せか、大丈夫かなんて、わからなかったから。
……また次会えた時、キバの言葉で、教えて欲しい。勿論、言える範囲で構わないけれど。
だから、…だからどうか。
先程のキバの仕草を真似て、手の甲に唇を押し当てた。そうして、祈る。
__どうか、どうか神様。
また次会える時まで、……いいや、会えたその先も、ずっとずっと。
「…キバが、__練牙が、幸せでありますように。」
オレの声が、路地裏に小さく木霊していく。
その反芻を聴きながら、ゆっくり目を開けた。……もうそろそろ寮へ帰らなきゃ、心配かけてしまう。
クッキー缶を隠したことを確認して、路地裏から大通りへ歩いていく。大通りはまだ賑わっていて、人の声も多く聞こえた。
大通りに出る直前、来た路地裏を振り返る。
キバが行った路地裏の奥は、もう見えなくなっていた。
__キバが約束してくれた。だから、大丈夫。絶対にまた会える。……だから、その時までは。
オレは滲みかけた涙を無理やり拭うと、大通りへ歩いていく。月明かりに照らされた大通りは、光を受けて、あのレンガのようにきらきら輝いているように見えた。