さて、どうしたものか。
愛之介のすぐ隣である、通路側の席に座る男は、ブルースーツの肩に頭を預けたまま、時折、窮屈そうに身を捩らせている。視線を落として、そっと様子を窺ってみると、眉間には深く皺が刻まれていて、閉じられた瞼はひくひくと動いていた。何か夢でも見ているのか、唸るような小さな声も漏れている。
「ゔ、……、……」
「……ッ、ふふ……」
あまりにも低い声に、愛之介は思わず零れてしまった笑いを噛み締める。常であれば、その声ですぐに目を覚ましたのだろうが、今日に限っては忠が瞼を開くことはないようだった。
◆
年の瀬が徐々に見えはじめた十二月のある日のこと。公務の年末進行と、Sの運営準備が重なった上に、東京でのあいさつ回りの時期が始まった。
他の用務であれば、愛之介が一人で行くか、別の秘書を帯同するという選択もできたのだが、ほとんどの連絡を請け負う窓口ともなれば、忠の顔を見せることに大きな意味がある。主なやり取りを行う秘書同士の顔を覚えさせることで、やりやすくなる仕事があることは確かで、結局、この数日間ほぼ徹夜となっている忠を伴って、愛之介は東京での公務をこなすことになった。
そして、連日連夜、会食や懇親会とは名ばかりの、忘年会らしきものをいくつも乗り越えて、ようやく二人は沖縄への帰路へと就く。
愛之介は、公務時にはファーストクラスはおろか、クラスアップすら行わないと決めている。曰く、ハイクラスのシートなど乗り飽きたということだが、クリーンな若手議員というイメージを保つためにも、必要なことだった。しかし、エコノミークラスとはいえ、航空会社のほうが気を使っているらしい。これまでに、同じ列に他の乗客が来たことはほとんどなく、一列を一人で使うことが多かった。
だが、今回はどうも様子が違っている。
「……これは」
「なんだ、連番か。珍しいな」
早朝とはいえ、東京のターミナルには、たくさんの人が行き交っていた。本来であれば、もう少し遅い便でもよかったのだが、師走の時期に、あまり事務所を空ける気にもなれず、結局二人は、一番早い便で帰ることにしたのだった。
忠の手元には、別の者が手配したらしい、羽田発那覇行き、六時二十分発の航空券。記された座席は、エコノミークラスの二人の席が、隣り合わせであることを示していた。
「おそらく、間違って指定したのでしょう。席の変更を交渉してきます」
「……いや、いい。お前が隣で何か問題があるか? ……お前が、僕と一緒は嫌だというのなら、それは仕方がないが」
カウンターへ歩き出そうとする腕を引き留めて、目を細めて笑う愛之介の瞳には、不思議そうな顔の忠が映り込んでいた。寝不足の脳では一瞬理解が遅れて、忠はぱちくりと目を瞬かせる。
「…………そ、んなわけ……ッ! …………いえ、失礼いたしました。では、荷物を預けて参ります」
思わず漏れたらしい声は、徐々に小さくなった。言葉を何とか飲み込んだ忠は踵を返すと、しっかりとした足取りで、今度は二人分の荷物を引きながらカウンターへと向かう。愛之介は、その後姿を満足げな様子で見送った。
程よく席の埋まった機内、手狭なエコノミークラスの座席に、大柄の男二人が並んで座る様は、はたからみても随分と窮屈そうに映ったらしい。
後方席には少し空席があるからと、どちらかの移動を提案されるが、愛之介は、打ち合わせがあるからと断った。
ほんの数時間のこと、座席をひとりで広く使うよりも、忠が隣にいるほうが、ずっと心地が良いということを、愛之介は心の内に隠していた。
「……すまない、連れが眠ってしまったようでね、ブランケットを貰えるかな?」
通りがかったキャビンアテンダントに声をかけ、愛之介が受け取ったブランケットに半身を覆われても、忠は身じろぎをするだけで、一向に目を覚ます気配はない。ブランケットの下で、愛之介はそっと、忠の手に指先を這わす。短く揃えられた爪の形をなぞって、指の長さを確かめて、てのひらの暖かさを感じながら、指同士を絡めてゆるゆると握り込む。眠ったままの手を、愛之介は満足するまで撫で、擦り、擽った。
「……ふん」
しかし、よほど疲れていたのか、いつまで経っても忠からの反応はない。少しだけ感じるつまらなさと、普段はあまり見ることのない男の寝顔を天秤にかけ、愛之介は後者を取ることにした。
「……? ……んぁ、ふ……」
やがて到着も近付いた頃、機体に大きな揺れが走る。着陸準備の振動で、ようやく忠は目を覚ました。あくびを噛み殺しながら、固まった身体をほぐそうと伸ばした腕は、思ったように動かない。
「起きたか、……おはよう。随分と良く寝ていたな、少しはすっきりしたか?」
「ふ、ァ……あ、はい……おはよ、………………ぅッ!?」
ぼやけていた意識が一気に引き戻される。しばしの沈黙の後、忠はようやく、今の状況を理解した。
「……ッあ、、い、のすけ、さま……」
「うん?」
「も、申し訳ありません……か、肩を……! ……か、た……ッ?!」
「……構わん、ほとんど寝ていなかったのは知っているからな」
何食わぬ様子で言う愛之介だったが、ブランケットの下では、未だしっかりと忠の手を握り込んだままだった。
「……愛之介、様……」
「……どうか、したか?」
忠の手に絡めた愛之介の指に、力が籠もる。強弱を付けて握りながら、伸ばした指先で手の甲を撫で、骨の形を確かめるようになぞってゆく。少しだけ離れて、指の股に爪を立てたかと思うと、また近付いて皮膚同士を隙間なく触れ合わせる。それはまるで、愛撫のようだった。
「……ッ、う……ァ」
「こら、まだ寝ぼけているのか?」
顔を伏せたまま、思わず漏れた忠の甘さの混じる吐息に、愛之介はいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「ッ、お戯れを……!」
慌てた声と共に忠が視線を上げる。愛之介の座る窓際の席には鮮やかな朝陽が差し込んで、その顔は眩いほどに輝いて見えた。
「あ……」
「……ほら、もうちょっと、な?」
光の中で人差し指を唇にあて、小さく囁いた愛之介の声は、忠以外には聞こえない。隣席同士、隠れるようにこっそりと手を繋ぐ。二人顔を見合わせて笑う姿は、まるでいたずらをしている子供のようだった。