泣き顔 道満が泣いている。
表情は殺し、しかし背を丸めることなく真っ直ぐと、遙か遠く、想いすら届かぬ果てを見るように泣いている。
その光景があまりにも美しかったから。そう思ったことが申し訳なかったから。胸が痛くてたまらなかったから。
嗚咽ひとつこぼさずに泣くその姿に涙が出た。
涙をこぼす彼を綺麗だなんて感じる自分は本当にひどい人間だ。
「マスター、どうかなさいましたか」
それなのに彼は、自己中な滴を頬に流しただけの俺に向かって気づかいの声を掛けてくれた。
穏やかな声。なのに今は少しばかり固い気がする。
無理をしているのだろうか。
「なんでもないよ」
これほどわかりやすい嘘もないな。
「なんでもありましょうや。貴方が拙僧の前で涙を流したのですから。拙僧にはそれが耐えられませぬ」
「……」
それは君が、と言いかけて飲み込む。きっと同情だと誤解される。彼が嫌うとわかっている感情を抱いたと思われたくはない。
「……道満は優しいんだね」
論点をずらす。
「拙僧が?」
「そう」
「優しくなどありませぬ。むしろ逆でしょうなぁ。拙僧はただ己の快楽のために生きている外道ですとも」
うっすらと浮かべた笑みは自虐のそれだ。
……最悪。話の持って行き方を間違えた。
「それでも君は俺を傷つけたりしないじゃないか。誰かに強制されてとかじゃなくて」
「カルデア召喚式による制約は受けておりますが」
「そういうの抜きにしてもだよ」
「ふむ」
「だから、そんな風に自分を卑下しないで欲しいと思う」
マスターづらして偉そうなことを言う自分に反吐がでそうだ。偽善者ですらない傲慢なエゴイスト。悲壮感ただよう泣き顔が綺麗だね、って本当のことを言ってみろよ、馬鹿野郎。
「……」
「それと」
「はい」
「泣かないで、なんて軽々しくは言えないけど、泣きそうなくらい辛いことや悲しいことがあったら話して欲しい。俺なんかじゃ力ないなれないだろうけど」
ろくでもない本心を隠すための善良な人の皮をかぶる。もちろん嘘なんかじゃない。ただ薄っぺらいだけ。
自己嫌悪が積み上がっていく。
自暴自棄で付け加えた一言は、道満に言った言葉と矛盾しているとわかっている。彼にはネガティブな発言を禁じたのに、自分は「そんなことない」と生暖かいフォローを期待しているともとれる発言をするなんて。
最悪、最悪、最悪。口を開かない方がましだった。
「……」
「お心遣い痛み入ります」
いつものあの貼り付けたような笑顔。ああ、こんな顔をさせたかったわけじゃないのに。
じゃあ、どんな顔をして欲しかったんだ? 彼にどんな言葉をかけたかったんだ? どう答えて欲しかったんだ?
わからない。自分が彼に何を望んでいるのか。
道満はとっくに泣き止んでいる。涙の跡も残っていない。目尻の化粧に乱れた様子はない。
道満が泣いていたなんて白昼夢か幻覚か、その手のあり得ない映像だったのではないかと思えるくらいに名残がなかった。
「ところで」
道満が口の端に貼り付けていた笑みの形に亀裂が走る。裂け目が深まって、彼の鋭い犬歯が覗き、その隙間から言葉と共に炎のような影がちろちろと見えてぞっとした。
これは、肉食獣が獲物を前にして低い威嚇音をたてているのと同じだ。
「もしや、拙僧が泣いていたなどと申しておられました?」
YESと答えれば俺は頭からがぶっと喰われてしまいそうな雰囲気だ。
いっそそれでもいいかな、なんて考える。穴があったら入りたい。この場から消えてしまいたい。そんな気持ちだから。安易な逃避を夢想する自分にまた一つ自己嫌悪。
しかしこれ以上もやもやしたくなから覚悟を決めて答える。
「……うん」
肯定すると、道満の目つきが変わった。
瞳孔が開き、黒曜石の輝きを持つ虹彩がこちらをまっすぐ見据えてくる。視線が突き刺さり痛いくらいだ。
「そこは、いいえ、と答えるべきところでしょうに。大人の配慮とはそういうものですぞ。やれやれ、所詮はまだお子様ということですなァ」
呆れたようにため息をつかれてしまった。そこで道満から感じていた恐怖に近い気配がふっと消える。
つまり、泣き顔なんて見ていない、からの、泣いてなどいなかった、だから、心遣いも不要、で、いつも通りに、ということにしようと俺に圧をかけて首を横に振らせたかったらしい。
「ごめん」
「いえ、謝罪など不要。なんぞ誤解でもなさったのでしょう。そうでしょう?」
改めての問い。今度は空気を読めるな?と首を少し傾けている。
そうするべきか、否か。
「……あのさ」
「はい」
「…………あー……、聞いちゃいけないかもだけど、どうして泣いてたの?」
穏便に済ませてもやもやを抱えるよりは、もやもやごと何もかも両断してすっきりしたい性分が俺。爆死覚悟の特攻だ。
「ンン~! 我が主は人の心の機微に聡いと伺っていましたがそうでもないのですねェ。それとも嫌がらせですかねェ?」
道満は大仰に肩を落としてうなだれる。
「言いたくないなら言わなくても」
「いえ、話しましょう。貴方には知る権利があります。いえ、義務があります」
ぬっと彼の影が上にさす。
「立香」
顔が近づく。
「貴方が死んでしまうやもしれぬと思ったからですよ。拙僧のおらぬところで、つまらぬことをして、笑えぬありさまとなっておったからです」
彼の大きな手のひらが俺の頭……ではなく頭の脇の枕の端を掴む。道満の言うとおり、俺はレイシフト先で大怪我をした。意識が戻ったのがついさっき。目覚めて最初に目に入ったのが吸い込まれそうに綺麗な道満の泣き顔だったのだ。
「それで、もう言葉を交わすこともできぬかもしれぬと思うたら、こう、胸の内を何かでぐしゃりと潰されたようで、苦しくてたまらなくなったのです」
抱いた気持ちを表現するかのように枕をぐしゃぐしゃと爪で裂いて中身をかき混ぜて……あー、そんなことしたら医療スタッフに怒られるよ。
「つまり、あなたのせいです」
じろりと睨まれた。
「心配かけてごめん」
けれど理由がわかって俺の胸の中は雲外を穿って青天に上ったようにすっきりとする。積み重なっていた自己嫌悪が内側から反転する。
だって彼の涙は俺のためのものだったのだから。彼を泣かせたのは他ならぬこの俺。彼に泣くほどの感情を与えたのは間違いなく俺なのだ。
勝利者のような愉悦。自らの矮小さを恥じたことすら馬鹿馬鹿しい。全ては杞憂のようなものだった。
自分の傲慢オブ傲慢を全肯定できるような自信がみなぎる。
「何を笑っておるのです」
「なんでもないよ。嬉しいなって思っただけ」
「ハア? 何を言っているのかわかりかねますな」
「わかんなくていいよ」
わかられると少し困る。彼ならエゴイスティックな喜びをそれでいいと一緒にわらってくれるかもしれないけれど。
俺を想って泣いていた道満の涙が美しかったなんて。
その涙にもらい泣きするほど心震えたなんて。
そして心配してもらえたことが嬉しいなんて。
なにより、俺を失うことを恐れる道満が愛おしいだなんて。
ああ、自分は本当にひどい人間だ。