バレンタイン 道満は困惑していた。
眼前には飾り立てられたチョコレートケーキがある。バレンタインデーに立香へ渡そうと思って製作したものだ。レシピは膨大な電子データから材料に合わせて逆引きで選出した。「コレが作りたい!」というこだわりはなかった。
慣れないチョコレートという食材を難なく扱い、普段料理などしないのにそつなく完成までたどりつけてしまった。その上、余ったチョコで呪符型の飾りを作り、ココアパウダーと溶かしたチョコで模様を描き、同じようにマスターへのバレンタインの贈り物をしようとケーキを作っていた誰かの残骸の生クリームを少々拝借してアクセントをつけ、仕上げに式神を模したメレンゲドールをいくつか乗せた。
レシピの完成写真よりも圧倒的に立派で個性に溢れる一品が、すでに綺麗に片付けられたキッチンの片隅で存在を主張していた。
己の多才さがいっそ怖ろしい。道満はため息をこぼす。
持ち前の器用さと芸術的センスによって作り上げられたマスターへのバレンタインの贈り物はあまりに完璧だった。
『不器用さは手作りの最大の武器』と言っていたのは誰だろうか。不格好でいい。美味しくなくていい。気持ちがこもっていればいい。外側のデコレーションは下手でひび割れているほど込めた気持ちが輝いて見えて相手の心に刺さるものだ、と。
しかし、道満の作り上げたそれは手作りの贈り物としてはあまりに外側が完成されていて、飾り気のない気持ちなんて少しも見えやしない。
道満は常日頃は、隙あらばマスターをからかって、ことあるごとに馬鹿にして、時には天邪鬼が過ぎると自分でも思うこともあるが、後悔なく彼とのふれあいを楽しんでいる。
けれど今日くらいは、ほんの少しくらい素直になりたい。胸の内をひっくりかして探し回らなければみつからないくらいの純朴さを見せたい。裏表なくあなたが好きだと伝えたい。
それなのに。
「……」
これは失敗だ。皿ごとゴミ箱へ捨てようと思った。これでは内に込めた想いは伝わらない。
作り直すだけの時間はある。わざと下手に作る事も出来る。少しいびつで愛嬌のある見た目の甘いだけのチョコケーキに、「上手く作れなくてすみませぬ」と自らを卑下する苦い一言を添えて、なんならわざと指に絆創膏でもまいておけば人の良い立香はきっと大喜びするだろう。ありがとうと口づけをくれるだろう。大好きだよと言ってくれるだろう。
「…………」
それも何か違う。今日くらいは彼を欺したくない。
バレンタインデーという年に一度の普段しないことをしていい日。いつもと違う自分を見せていい日。364日にわたって積み上がった素直じゃない自分を精算できる日。
偽ってしまえば一年分の後悔がさらに増えることになる。
「ンンンン……」
このケーキにもたっぷりと気持ちが籠もっていることには違いない。立香に食べてもらいたいし、喜んでもらいたい。しかし、これでいいのかわからない。どうすべきなのかわからない。
ああ、呪いが掛かってしまった。
毒は入っていない。媚薬も混ぜていない。呪詛も練り込んでいない。ただ、好きな人に自分の一番の本心をさらけ出し、剥き出しの愛を告白しようとすれば混乱する呪いが発生してしまった。
いつもこうだ。こじれた感情から絞り出した想いが強ければ強いほど自ら呪縛されてしまう。
道満は困り果てて、とりあえず立香に渡すチョコレートを冷蔵庫にしまった。
いっそ誰かに見つかって食べられてしまえばいい。
立香は困惑していた。
「上手くできない……」
材料の板チョコを刻む程度のことにかれこれ15分以上も時間を掛けている。
まな板の上に置かれた長方形のチョコレートのはようやく正方形に近付いてきたくらいだ。
ガリ、ゴリ、ともどかしいペースで刻んでいく。
指先に上手く力が入らず、どうしても震えてしまう。人理のための過酷な戦いを経てきた身体の内側はぼろぼろだ。指先にいたっては壊死したような色になっている。回復するいとまもない。回復するかどうかもわからない。休めるときは休んだ方がいいとわかっているが、今日くらいはこうやって自分のためだけにがんばりたいと思っていた。
バレンタインデーという好きな人に想いを伝える日だから、一年分の愛と感謝を込めて道満に贈り物をしたい。21世紀の汎人類史においては、バレンタインデーは女性から男性に気持ちを伝えることが一般的だが、同性の恋人同士である自分たちはどちらがどちらにおくってもいいはずだ。
チョコを細かくして、湯煎で溶かす。溶けたチョコを型に入れて固める。型から取り出してラッピングする。難しいことではないはずなのに、このペースでは朝になっても終わらないかもしれない。
「……」
惨めな気分になってくる。こんな簡単なことすら自分一人ではできないなんて、と。
本当ならもっと手の込んだものを作りたい。特別な日だから、精一杯上手く作ってがんばったところを見てもらいたい。君のためならこれくらいできるんだよと伝えたい。それくらい好きなんだよと道満にわかって欲しい。
わがままな願いではないはずなのに、それすらも許されないのかと視界が潤む。
立香は包丁を持つ手を止めた。
とっくに日付が変わっている。
明日も朝から周回があるし、これ以上遅くなると睡眠時間が足りなくなる。
人類最後のマスターとしての義務感と道満のことが好きな一人の人間の気持ちを天秤にかけて前者を選ぶ。顔も知らないたくさんの人のために自分の気持ちを犠牲にする。すっかり慣れてしまった心の痛みといっしょに、刻みかけのチョコレートを冷蔵庫へいれようとして、立香はそれを見つけた。
夜半ではあったが立香は道満の部屋を訪れた。
扉をノックしても返事はない。耳をすませばくぐもった恨めしげな声が漏れ聞こえてくる。
マスター権限で解錠して侵入する。声のするベッドに目をやると、シーツの上には特徴的な白と黒の長い髪が散らばっていた。
その中心では道満が胎児のように丸まって、地を這うような声で怨嗟をつぶやいていた。主に自分自身の日頃の行いを呪っている。
「道満」
声を掛ければ、跳ね上がるような勢いでびくんと全身を震わせていた。立香は起き上がりかけた道満を押しとどめて、隣に腰掛けた。
道満の腕が立香へと伸びてくる。狙いは立香が持ってきたものだ。
立香はそれをやんわりと制すると、サイドテーブルに持ってきたそれを置いた。見事なできばえのチョコレートケーキと取り分けるための皿とフォーク、そしてステンレスマグに入ったコーヒー。
「俺のタメに作ってくれた作ったケーキだよね?」
モチーフを見ても明らかだ。なによりメッセージカードに見立てた薄い板チョコの隅に「立香へ」と道満の字でホワイトチョコペンでかかれている。不自然に空いているスペースには他にまだ言葉が入る予定なのだと簡単に想像がついた。
道満は答えずに、布団を引き寄せて頭から被ろうとする。
「俺も道満のために作ろうと思ったんだ」
バレンタインだから。
「でも出来なかった」
バレンタインなのに。
「指が上手く動かなくてチョコを刻むこともできなかった。諦めて片付けようと冷蔵庫を開けたらこれを見つけて、これ絶対道満が俺に作ってくれたんだって嬉しくなって持ってきちゃった。道満って料理も出来るんだね。自称多才は伊達じゃないなあ。しかもオシャレで格好いい。すごいなあ」
「……」
「チョコを溶かして固めるだけもできなかった俺とは大違いだ」
自虐ではなく、自分にできないことをやってのける道満への尊敬。
道満はもぞりもぞりと首を横に振った。
「……それは呪われております。捨ててくだされ」
「呪詛入り? 美味しそうなのに……」
「いいえ、いいえ」
道満の髪がシーツの上で踊る。
「何も入ってはおりませぬ。どこにでもある一介のケーキにございます」
「でも今、呪われてるって」
「内ではなく外に想いが伝わらなくなる呪いがあるのです。拙僧、うっかりその呪いを受けてしまいまして寝込んでおります。恐ろしいでしょう? お捨てなされ」
虚飾という呪いだと道満は言った。見た目の煌びやかさが目をくらませて、真実の素朴な想いが見えなくなる。
「そんな呪いなんて感じないよ。あったとしても俺には効かない」
だって道満からの想いはしっかりと立香の胸に届いている。自分から道満への年に一度の特別な愛情表現は挫折を余儀なくされた。それなりにショックを受けていたところに、道満から自分への素晴らしい一品を見て暗い気持ちは吹き飛んだ。こんなすごいものをもらえるなんて自分はなんて道満に愛されているのだろう、と。この上な幸福な気持ちだった。
「それとも俺から道満への好きの気持ちが伝わらなくなっちゃうのかな。それだと嫌だなあ。俺からは何も準備できなかったし」
「そのようなことはありませぬ!」
がばっと道満が起き上がった。長いまつげが少しだけ濡れていた。
「何もなくとも、立香が拙僧のために貴重な時間を使うてくださったこと、何も用意できなんだと憂いてくださったこと、痛いほどにわかってございますとも! 拙僧のような者の歪んだ情を認め、受け入れ、あまつさえ愛なるものを注いでくださったことも!」
ほろり、大きく開いた眼から零れるのは悲しみではなく。
はらり、瞬きとともに伝うのは苦しみとま真逆のもので。
自らが生み出し、自らが縛られた呪詛がほどけていく。
「ほら、全然呪いなんてないじゃん」
立香は道満をぎゅっと抱きしめながら、優しく諭すように言う。道満の髪を撫でる。頭をよしよしする。背中をぽんぽん叩く。手を取る。顔を見る。頬に口づけする。道満の唇に触れる。
「道満の作ってくれたケーキは気持ちごと俺がもらうよ。それからいっしょに食べよ」
「はい」
「ちなみに……」
「はい?」
「ここには何て書くつもりだったの?」
薄い板チョコのメッセージボードは一言二言書き込むスペースが空いている。
「そ、それは……」
「教えて」
立香は道満に覆いかぶさるようにして、耳元で囁いた。
道満の背筋にぞくりと震えが走る。
「……『はっぴーばれんたいん』と……」
そのようなありきたりな文言であるはずがない。
「嘘つき」
立香が道満の耳たぶを噛んだ。
「……『ホワイトデーは倍返し希望』」
道満らしいけれどそうではないはずだ。
「それも違うよね。本当は?」
舌先が道満の耳孔へと潜り込んで甘い尋問が道満を暴いていく。
「うう……『一緒にいられて幸せです』とか『これからも共に居たいです』のようなことを……」
どれも愛しい恋人へ向ける言葉に違いないが、核心からは少し逸れている。
「どーまーん?」
「ンンンンンンー!」
道満はそれを自分の口から紡ぐことはできなかった。
ひったくるようにメッセージカードがわりの薄い板状のチョコを手に取る。どこからともなく取り出したチョコペンで『永劫に愛しています』と秀麗な文字で書き加え、顔を伏せながら立香に捧げる。耳が赤いのは立香に舐められていたからだけではないはずだ。
「ありがとう。俺も愛してる」
満足げに微笑んだ立香は道満の手からそのチョコレートを受け取り、口にくわえる。片方を道満口元へと差し出した。道満も察してチョコレートのメッセージカードの一端を噛んだ。
そして、『愛』を分かち合うように端から食べてすすめて、最終的にほんのり苦くてとことん甘い愛の結晶は触れた唇同士に熱く溶けて混ざり合い――。