いろは歌 字を教えてほしい。真顔で頼むロキへカイムは首をゆるやかに振った。
「私からもお願いします!」
プロメテウスも手を合わせる。しかしカイムは肩をそびやかした。
「他に適任者がいるでしょう。フォラスかマルファス、フォカロルにでも頼みなさい」
「すぐ覚えられた」
「つまり、渡された教材が合わなかったと」
「そうなの。さすがカイムさん!」
感情を聞き取るプロメテウスがいては、何を言っても見抜かれるだろう。カイムは資料の資料を整理していた手を止めた。
「ヴィータの字も読めずに来るとは。今までは……おっと、失敬。私としたことが」
杖をくるりと回す。ロキがソロモンと契約に至った経緯はカイムも簡単に聞いている。商習慣どころかヴィータの字も読めず、契約などおぼつかなかったロキへ彼のマネージャーだったという男性が代わりに契約関連は引き受け、歌の歌詞は試奏代わりに歌って覚えさせたという。金のために嘘をついていたと聞いてはいるが、ロキのあまり相手を疑わない性格や人目を惹く美貌を考えるとむしろマネージャーのような相手にすぐ会えたのは僥倖としか言いようがない。
(ああ。悪党になれなかった善人ですねえ、きっとその男)
会ったこともない相手だが、なんとなく察した。少しばかり変わった男なのだろう。ややもすれば異端となりかねない。
「それで?字を覚えてどうするのです?」
「手紙を書かない。会いに行くから必要ない」
「ふむ。会えない時に手紙ですか。不要な気もしますがねえ」
「カイムさん!」
眉を逆立てるプロメテウスには構わず、カイムがすっと手を伸ばした。手袋に包まれた指をロキの唇に触れる寸前で止める。
「貴方には歌があるでしょう?道化は演じる、歌手は歌う。それでいいのです」
「よくわからない」
「分かっていただけて何よりです」
踵を返すロキとカイムをプロメテウスがハラハラしながら交互に見る。
「おい、プロメテウスも頼んでるのに」
「なんです?ああ、お待ちなさい」
カイムがさらさらと手近な紙に書きつけた。歌詞と楽譜が書かれている。
「これを渡しておあげなさい」
「これは?」
「ヴィータの子どもの遊び歌ですよ。いろは歌と言って文字が一通り入っています。個の方が覚えやすいでしょう」
「カイムさんありがとう!」
「この程度のこと、礼には及びませんよ。それより我が君が字も読めない者を放置してると思われるわけにはいきませんのでね」
「おい、そういう言い方はないだろ」
「ああそうそう。手紙を書いたらまず見せてください。我が君への不満など書かれていては困りますから」
「大丈夫だよ。でも、そうだね。字が間違ってないかロキも見てほしいかも。ありがとう!」
にっこりと笑ったプロメテウスがロキを追いかける。
「おい、待てよ!カイム、後でプロメテウスに謝れ……っていうか無視かよ!」
「鳥の丸焼きを夕食にするよう提案しましょうか?」
「遠慮します」
青ざめたプロデューサーがプロデューサーを追いかけ始めた。それをチラリと見てからカイムは書類の整理に戻った。
歌詞の紙を受け取ったロキがプロメテウスへ渡した。
「読める。歌わなくていい」
「分かった。ちょっと待ってね、あたしも知らない歌だから」
「おい、いいのかプロメテウス?あんな風に言われて」
プイプイと抗議するプロデューサーにプロメテウスは首を振った。
「カイムさんから聞こえた音はね、とても優しかった。優しくて、悲しくて、あとね、何て言えばいいのかな。羨ましい?頑張れ?そう言っているように聞こえた」
友をなくした青年の、ロキはまだやり直せるのだという思いをプロメテウスは確かに聞き取っていた。
「手紙書けたら見てもらうぜ♪」
歌うロキへプロメテウスは頷いた。
後日、ナナシがたどたどしい字で“好き。愛してる。俺の歌をまた聞いてくれ”と書かれた手紙を受け取ることになったかどうかは、オリアスさえも見通せなかった。