恋のはじまり「これ届いてたぞ」
ランドルは自宅の重い扉を開け、灯りのついたリビングへと向かう。
リビングではトレーニング用に開けられたスペースでフェザーが腕立て伏せをしていた。フェザーは顔を上げずにそのまま、おかえり、とだけ告げ、引き続き小声で数字をカウントしている。
「…99、100!」
フェザーがトレーニングを終え起き上がるとランドルの方へ顔を向けて言った。
「おかえり、ランドル!」
「ただいま。これ、プロテストの案内だろ」
ランドルはマンションのエントランスのポストに入っていた封筒の束から、フェザー宛の封書を差し出す。
「おお!サンキュー!」
それを受け取ったフェザーは手で破らんばかりの勢いで封筒を開けようとしたので、ランドルは慌ててハサミを差し出した。
「あとちゃんと上着着ろ、身体冷えんだろ」
日課の筋トレをしていたらしいフェザーは半袖のTシャツにトレーニングパンツの出立ちだ。熱気が籠る身体をクールダウンさせているが、木枯らしが吹き荒ぶ中、身体を縮こませながら仕事から帰ってきたばかりのランドルは、薄着のフェザーを見てブルっと身体を震わせた。
ランドルに言われたフェザーは床に投げてあったジャージに袖を通す。
寒さを感じてなさそうなフェザーの体温がどんなものかとランドルは自分の手を伸ばした。
「冷え!」
冷えた手でいきなり手を触れられたフェザーは予想通りの反応をしたので、ランドルは機嫌良く笑う。
「今日外クソ寒ぃんだよ」
「じゃあランドルの手はオレが温めてやろう!」
そう言って触れた手を握り返される。その手を解くこともせず、フェザーの熱い手のひらをむぎゅむぎゅと揉む。
フェザーはそれに気をよくしたのか、両腕を広げて、ほら、とランドルの行動を促した。
そんなフェザーの顔は屈託のないもので、優しい笑みで彩られている。
ランドルは少しだけ口を尖らせたあと、羽織っていたコートを脱ぎ、フェザーの腕の中へと入り込む。
途端、フェザーの匂いと温かい体温が身体に流れ込んできて、強張っていた全身が弛緩していくのを感じた。
「冷えてるなあ、外そんなに寒いのか」
「テメェ今日一歩も外に出てねぇだろ」
「早朝のランニングには行ったぞ」
フェザーに抱きしめられ、ランドルはその背中に腕を回す。甘えるように首元に頬を寄せ、身体を寄せ合った。
「街はクリスマス一色だぜ」
「そうか、もう年末だもんな」
「季節感なさすぎ」
「む、善処しよう」
フェザーは困った風にそう言うと、さっき開けた封書に手を伸ばした。
中から書類を出し、内容物を確認する。
そこにはプロボクサーになる為の、プロテストの案内と受験票が入っていた。目を通していくと筆記試験と実技試験の日程が示されている。
「試験、いよいよだな」
「おう、全力で挑むつもりだ!」
「受かれよ」
「もちろんだ!そのために頑張ってきたからな!それにお前にばかり頼っていられないしな、プロになって試合に出られるようになったら、もう少し渡せると思う」
フェザーが言うのは生活費のことだ。
学生の頃からプロボクサーになりたいと語っていたフェザーは高校卒業と同時に家を出て一人暮らしを始めた。
より集中できる環境が欲しいと、ジムの近くに家を借りた。
バイトをしながらジムに通っていたが、それだけでは収入が足りず貯金も徐々に減っていった。シンプルな生活を好むフェザーは浪費家ではないが、最低限の生活をしていても家賃や高熱費などの出費はかさむものだ。今の自分に見合った仕事を選ぶこともできない状況で、生活が困窮することは目に見えていた。
幼馴染のランドルはそんなフェザーの性格をよく知っていたので、たまに足を運んでは差し入れしたり身の回りの世話などしていたが、どんどん公共料金催促の書類が積まれていくのを見るに見かねて、生活費に口を出した。
たどたどしく収入と出費を口にしたフェザーに、ランドルは頭を抱え、プロになる前に死なれては困ると真剣に考えた。フェザーは器用な性格ではない、バイトも探せば効率良く稼げるものもあるだろうが、フェザーはそういう取捨選択は苦手なのだ。手っ取り早く目につくものを選んで職を得ている状態だった。稼げる土建屋のバイトは夜間に渡り、生活のリズムも狂ってしまい余計に他の仕事も探せなくなっていた。
ランドルは幼少期から空手をやっていて、プロこそは目指さなかったものの、今でもクラブに通っている。
高校時代に空手の大会に出たときに、モデルをやらないかとスカウトされ、今は芸能プロダクションに片足を入れている状態だ。
最初は興味がなく断っていたが、スカウトマンがしつこく、いや情熱的であったため、空手を続けることを条件に飲んだ。空手の写真なども撮らせて欲しいしそれも仕事になると聞き、自分を育ててくれたスポーツに貢献できるならと誘いを受けた。
正直自分の容姿がそこまで受けるとは思っていなかったが、珍しいピンク髪でロングヘアの男性モデルはなかなか貴重のようで、それなりに仕事があった。
自分が生活を安定させていく一方で、フェザーの生活がままらない状況に耐えかねたランドルは、フェザーの家に通うことが多くなった。
生活費の見直し、公共料金滞納の支払い、食事の管理、洗濯や掃除など、どれも家では適当にやっていたし親に頼りっきりで得意とは言えなかったが、フェザーのためなら進んでやることができた。仕事の傍らスマホでレシピを検索し、スーパーで買い物をしてフェザーの家に行く。簡単なものならすぐ覚えたしフェザーが美味しいって言ってくれるのは嬉しかった。
フェザーもランドルが支えてくれたおかげで、今までどうしていいか分からなくなり放置していた家事などを進んでやるようになった。生活のリズムが少し安定すると心の余裕も出てくるものだ。
2人の間に特別な関係はなかった。幼馴染だったしずっと一緒にいたけれど、同じ格闘技に携わって切磋琢磨する関係だった。フェザーが独り立ちすると聞いてランドルは別の道を行くフェザーをずっと気にしていた。
家に通うたびに顔を突き合わせ、フェザーの生活の中に入り込んで、いつのまにか合鍵まで渡されて、ランドルがいてくれるからオレは生きられるとまで言われて、ランドルの中にあったフェザーへの想いはどんどん膨れ上がっていった。
元々好きだったのだ。学生の頃は恋愛感情というものがよく分からなかったが、ずっとフェザーから目が離せなかったし、なんでも先に走っていくフェザーを追いかけて、自分も一緒に走りたかった。必要とされたかった。
2人の距離はいつしかパーソナルスペースを超えて繋がりあった。お互いずっと腹に抱えた想いは一夜で暴発し、赴くまま求め合った。
ずっとランドルが好きだったと言われ、俺だってずっとお前が好きだったと言った。
無我夢中でランドルはフェザーに抱かれた。無我夢中で求められたのが何よりの幸せだったことを覚えている。
「そういえばこの前ランドルの載ってる雑誌、本屋で見た」
フェザーの声で現実に引き戻され、甘い想像をしていた自分を振り払う。
ファッションブランド雑誌はフェザーの興味の範囲にはないが、ランドルが話したので探したのだろう。
「すごくかっこよかったぞ!ランドルのフォーマルな格好なんて初めて見たな」
どうにも恥ずかしいのでモデルの写真などフェザーにあまり見せないが、真っ直ぐに褒められて嬉しくないわけではない。
「…惚れ直したか?」
「うん!こんないい男がオレのパートナーなんだって思ったら、オレも頑張らきゃなって思ったぞ」
「フン当たり前だ」
「でもオレはこっちのランドルの方が好きだけど」
急に頬に触れられフェザーの方に顔を向けられた。
その目には熱がこもっている。
「馬鹿、これは貴様用だ…」
自分もフェザーの頬に触れてゆっくり撫でていく。
じわじわと上がっていく熱を感じて息を詰めた。
「…オレ専用ってことだよな」
「言い方悪すぎだろ」
「へへ、ランドル…」
一気に甘くなった雰囲気から流れるように唇を合わせる。
冷えていた体もすっかり温まって、互いの熱を交換し合うように角度を変えて何度も合わせた。
思わず先を促しそうになりランドルは制止する。
「さあ、帰って早々盛ってねぇで、晩飯にするぞ」
「えーーー!?」
突如ランドルが離れて、空いたフェザーの両腕が風を切った。
夕食を終え、洗い物を済ませたフェザーはキッチンからリビングへと戻る。
するとスマホを見てくつろいでいたランドルが船を漕いでいるの見つけた。
声をかけずそのまま散らかっていたトレーニング器具を静かに片付ける。
プロになると言って勇んで出てきたけど、現実はそう甘くもなく、ランドルがいなかったらもしかしたら夢を諦める選択肢だって考えたかもしれない。
甘えた考えだって分かってるけど、ランドルが助けてくれたおかげで今の自分がある。1人でもなんとかなるだろうと思ってて、でもそんなことは全然なくって、たまに顔を出してくれるランドルが恋しくて仕方なかった。ランドルがこんな心配そうな顔して自分のことを見てるなんて思わなくて、ずっとごめんって謝りたかった。
ランドルにはランドルの生活があって、順調そうにしていたし、オレのことなんて構ってる暇なんてないはずなのに、次はいつ来てくれるんだろうってばかり考えてたし、来たときは帰って欲しくなかった。帰ったあとは寂しくて泣いたときもあったのだ。弱っていた自分に活力を注いだのはランドルだった。いつしか積もった想いはランドル自身を求め、あまり素直になってくれないランドルが照れるように真っ直ぐ応えてくれたのが本当に嬉しかった。
ずっとオレといて欲しいって伝えて、そのあと慌ててランドルが嫌じゃなければ…なんて言ったら、舐めんなよって怒られた。嫌だったらこんなとこ来てないしお前と一緒になんかならねぇよ!って言われて、あっと思ったんだ。こんなに想われてるのに勝手にごめんとか居なくなったらとか悩んで、オレ馬鹿だなって。
ランドルと一緒に住むようになって、合わないときは喧嘩もたくさんするけど、オレの夢を一緒に見て応援してくれるし、仕事のこと照れくさそうに語ったり、泣いたり笑ったり、足癖が悪かったり、やりたくないことは全部オレに投げてきたり、いろんな表情を見せてくれるから、どんどん好きが増していった。
眠るランドルを起こさないように毛布をかけてやる。大きなクッションに頭を預けて縮こまって眠る姿は誰よりも愛おしい。
クリスマスには何かプレゼントでもしようかと考えながら、フェザーはそっと頭を撫でた。