『朧(おぼろ)』 はあはあと息もまだ整わぬまま、ヘッドボードのティッシュを乱雑に抜き取って幻太郎の腹を拭う。脇腹まで流れ落ちた分も優しく拭き取ってやった。
それからようやく幻太郎の身体から出ていく。本当は名残惜しいけれど。抜くときに幻太郎がん、と小さく呻いて身体を震わせたので、愛おしくなってももの内側に一つキスを落とした。ゴムを外し、ティッシュにくるんでゴミ箱に投げ入れ、自分のモノもさっと拭く。どうせ後でシャワーを浴びるので、始末はそこそこで構わない。
ベッドへと倒れ込み、一二三が自身の後始末をしている間に気だるそうに寝返りを打った幻太郎の背中に抱き着く。額を押し付けた幻太郎の肩は少し冷やりとしていて、火照った身体に心地良かった。かいた汗がもう冷え始めているのかもしれない。風邪を引いてはいけないと、一二三は掛け布団を引き上げて幻太郎の身体を覆ってやった。幻太郎は疲れ切っているのか、向こうを向いたまま何も言わず、背中だけで一二三の行動を受け入れている。
幻太郎と身体の関係になってからどのくらい経っただろう。二、三週間に一度、一二三の呼び出しに呼応してシブヤからもシンジュクからも離れた目立たないホテルで行われる、誰にも内緒の逢瀬。幻太郎の方から連絡が来たことはない。一二三は本気で幻太郎のことが好きで恋人になりたいと願い、そのことを幻太郎にも伝えているが、これまで色よい返事を貰えた試しがなかった。それでも誘えばこうして来てくれるのだ。
幻太郎の気持ちは一二三には分からない。出会った最初はにべもなく拒絶されていたことを思うと、こうして一二三に抱かれ、おとなしく腕の中に納まっている今は少しは気を許してくれているのだろう。ディビジョンバトルの会場などで会う時の人を小馬鹿にしたような態度は相変わらずだが、二人きりで会う時の幻太郎はいつもより口数が少なく、表情もやや暗いことが多かった。なにごとかを思い詰めているような。あるいは何かを我慢しているような。
一二三と会うことが嫌で苦痛を抱えているのであれば、呼ばれても来なければ良いだけだ。幻太郎にとっては最も簡単な選択のはず。幻太郎が一二三を拒絶していた頃ならば、確実に呼び出しなど無視されていただろう。だが今はそうではない。来るのはやぶさかではないけれど、来ると苦しくなってしまうのだとしたら。それは、つまり――――
「幻太郎はさ、今でも俺っちのことキライ?」
「名前で呼ぶなと何度言えば――」
「メンゴ。で、どうなの? 今でもキライ?」
「……嫌いです」
「でも抱かれるのはイヤじゃないんだ」
「…………」
腕の中の幻太郎は微動だにしない。向こうを向いたままで表情も分からない。
「もしかしてさ、幻太郎は俺っちと会ってることを隠しておきたいの? 敵チームだから?」
「…………」
「ポッセの奴ら、あんまそーいうこと気にするようには見えねーけどな」
「……どうでしょうね」
「俺っちは付き合ったら周りに言いてー派だし、そーいうのちゃんとしといた方がいいと思ってっけどさ、幻太郎がイヤなら秘密にしとこーよ。だから、ね。俺っちと付き合ってください」
上半身を起こし、顔を覗き込んで目を見て伝える。幻太郎は視線をあげてちらりと目を合わせたあとですぐに目を伏せ、ふるふると首を横に振った。さっきまでの名残か睫毛はしっとりと水分を含んで、瞬きのたびに重そうに揺れている。ベッドサイドランプの明かりを映してキラリと光る様が美しい。束の間、一二三はその輝きに見惚れた。
口では「嫌い」なんて言っているが、幻太郎の様子を見るに本心ではない、と思う。とすれば付き合えないと考えるだけの理由があるのだろう。その問題を解消してやればよい。
一二三は、周囲にバレるのが恥ずかしい、敵チームだから外聞が悪い、というのがそれではないかと推測したけれど、それはどうやら違ったらしい。以前「ホストという職業が問題か」と聞いたこともあるが、「女性の恨みを買うのは恐ろしい」なんて茶化しながらも否定されたので、そのセンでもない。あと残った可能性といえば。
「まさか独歩に遠慮とかしてる? よく誤解されっけど俺っち達ホントにそーいう関係じゃねーから」
「…………」
「独歩はもう兄弟みてーなモンだからさー。幻太郎と付き合うって言ったら、そりゃびっくりはされるだろーけど、でも独歩はゼッテー応援してくれっから。だから心配しなくていーよ」
「…………ましい」
「え?」
小さく呟かれた言葉ははっきりと聞き取れなかった。おそらくは「羨ましい」か。聞き返しても幻太郎は首を横に振るのみで、それ以上口を開くことはなかった。いつもはふわりと柔らかい幻太郎の茶髪が今は汗で重みを増して、首を振った拍子にぱさりと目元を覆った。落ちた毛束を指でかき上げてやって、現れた目尻にひとつキスを落とす。
首を振ったからには独歩も理由ではないのだろうか。となると一二三にはもうこれ以上思い当たる理由がない。幻太郎をこんなにも頑なにさせている原因とは一体何なのか。
「じゃあどうしたら付き合ってくれんの?」
困った挙句、無駄だとは知りつつもストレートに質問をぶつけた。だが案の定幻太郎は目を固く閉じ黙りこくったままで、一二三を無視し続けている。一二三はなす術なくシーツに倒れ込み、再び幻太郎の身体に腕を回した。
幻太郎の一筋縄ではいかない部分を愛してもいるが、さすがに少々難易度が高すぎる。今日のところはここまで。肉体の疲労からくる眠気に今は身を任せてしまいたい。幻太郎を抱きしめて眠れることは幸せには違いないのだから。
「このまま幻太郎を連れて誰もいない所へ逃げちゃおっか」
連れて逃げて閉じ込めて、そうして自分だけのものにしてしまえたら簡単なのに。
とろとろと微睡み始めた頭で、ついそんなことを考える。
「……そんな意気地もないくせに」
切って捨てるように呟かれた言葉は、フェードアウトする意識の底へゆらゆらと沈んでいった。
(了)