知己のひめはじめ【知己のひめはじめ】 陳情令・座学/全年齢
(しばた三歳)
「おうい!」
白い校服をたなびかせて、二度見するほど細く伸びやかな肢体が、小鹿のように軽やかに走ってくる。
タタタン、タタタン。階段を駆け降りてくる不思議な足拍子は、姑蘇藍氏の子弟たちからは決して発されない音だ。
「へへっ、ここにいたんだな。蔵書閣にいないから探したぞ」
いったい何がそんなに楽しいのだろう。魏無羨は冷泉の淵に立ち、藍忘機を見下ろしながら、実にご機嫌そうに笑っている。
冷泉に浸かったまま白衣を羽織り、江家一番弟子の笑顔をまぶしげに見上げた藍忘機は――まぶしいのは水面に反射した日差しのせいであり、他に意味はない――不愛想にひとこと「何の用だ」と問うた。すがめた目線は鋭く、まるで妖邪を見据えているようだ。しかし魏無羨は一切頓着せず、
「まったく、今日は肌寒いのに、みずから冷泉に入るだなんて。お前は本当に気が知れないな! ほら、もう修行は十分だろう? そろそろ上がってこいよ」
黒光りする随便をチャッと腰に差し、魏無羨は水に向かって手を差し伸べる。しかし藍忘機はすいっと顔を反らし、「不要」と魏無羨に背を向けた。
「藍湛~。その態度は可愛くないぞ? せっかく可愛い顔してるのに、お前って本当につまんない男だなあ」
「……」
思わず振り向き、魏無羨をきつく睨む。しかし、最近になってようやく悟った(相手にしてはならない)という教訓を思い出し、またすっと横を向いた。
「あははっ! お前ってほんと、心底つまんないのが一周回って、逆に面白いよなぁ」
いったい何が面白いのだ。膝を叩いてケラケラと笑う魏無羨を視界に入れぬよう、きつく目を閉じながら考える。
(可愛いのに可愛くない? つまらないのに面白い?)
魏無羨の言動は奇天烈だ。まったく意味が分からない。まるで異国語のようだった。
「なぁ藍湛? さっきいい事を聞いたから、お前にも教えてやるよ」
あからさまに無視しようとする藍忘機相手にまったく怯まず、魏無羨はその場に腰を下ろし、うきうきと話し始めた。
「あのな、聶兄が教えてくれたんだけど。東夷の正月の風習でさ、ヒメハジメってのがあるんだって……」
いわく、「ひめ」にあてる漢字によって意味が変わって来ること。
いずれも、初二(正月二日目)に行う「新年はじめての行為」であること。
「姫」の場合は、姫飯の食べ初め。
「飛馬」は乗馬初め。
「火水」は水仕事や煮炊きの初め……。
目をきつく閉じ、無視を決め込んでいるにも関わらず、ポンポンと跳ねまわる鞠のような明るい声は、思わぬ角度から藍忘機の心に入り込んで来る。常に冷静沈着であったおのれを試すかのように、魏無羨は藍忘機の心をかき乱すのに長けていた。
(この男を前にして、心を平静に保つ)
かつて、これほどの難行があっただろうか。藍忘機は苛立ちとともに眉間の皺を深くした。
「さぁ、ここで問題だ。藍湛、『秘め』の場合は……何の初めだと思う?」
一方の魏無羨はにやにや笑いを深め、少しも落ち着かず、細い体を左右に揺らしながら話し続ける。藍忘機の真っ暗な視界には、水辺に座り込んだ魏無羨がいつまでも浮かんでおり、白い校服からチラリと覗く黒い靴がなぜだか胸をもやもやさせた。
「なぁ、いくら深窓の令嬢みたいなお前でも分かるだろう? 秘め事の『秘め』だぞ?」
(……限界だ)
背を向けたまま、無言で冷泉から立ち去ろうとする藍忘機に、
「おい藍湛! 行くなよ、こっちを見ろよ!」
魏無羨は水面をペチペチと叩いた。すると思いのほか大きな音がたち、パッチャン、パッチャンと水しぶきが上がる。
「あははっ。藍湛、これも面白いぞ? 手のひらを開くと、高くて馬鹿みたいな音が鳴って、指をぎゅっとくっつけると、ホラ、低くて間抜けな音が出る。……って、あれ? 藍湛?」
魏無羨が水面に気を取られたのはほんの一瞬。その隙に、藍忘機は見事に姿を消した。
ぱっと面をあげれば、濡れた足跡が点々と、階段の中ほどまで続いている。白く特徴的な後ろ姿は、たとえ全身が濡れ鼠のままであろうと、凛と気高く美しい。魏無羨は置いて行かれたのにもかかわらず、なぜか無性に嬉しくなって、またその背を追いかけた。
「なぁ藍湛、待てよ! 何を恥ずかしがってるんだ? もしかして秘め事を想像しちゃって、いたたまれなくなっちゃったのか? なぁなぁ、お前がいったい何を想像したのか、俺にも教えてくれよ!」
にぎやかな声が林に響き、少しずつ小さくなる。
冷泉はしばらく、水面に魏無羨の残した波紋を描いていたが、そのうちシン……と静まり返った。
陰と陽――静と動。
対を成すかのように、正反対の少年たち。
彼らがいずれ巻き込まれてゆく、大きな運命のうねりを占うように。
水面はきらめきながら、ゆらゆらと風に揺れていた。
(了)