魔王の住処に忍び込んだ俺が見たのは、綺麗な男でした石畳が長く続く廊下には所々小さな灯が空中に浮いており、俺の動きに合わせて影が揺れた。
とにかく足音を立てずに、歩き続ける。
奇跡的に潜入できたものの、ここはまだ目標地点では無さそうだった。
標的はただ一人、魔族の頂点に立つ男。
今や世界は魔族どもに支配されつつあり、俺が身を置く修真界でさえ圧倒的力の前に圧されている状況だ。
奪われた土地では理性が微塵もない下級魔族が増殖し、何の力も待たない人間は恰好の餌食だった。
全ての元凶は、魔族の勢いをつけたある男が頂点になってからだ。
世のためにもどうにかして、俺はそいつを殺さねばならない。殺せずとも、何かしらの情報を持って帰らねばならない。
いつの間にか廊下を抜け出し、一つの部屋の前に立っていた。
部屋といっても鉄格子が厳重に張られており、見た目はまるで牢のようだった。
しかし中は豪華蹂躙といった言葉が似合うほど、様々な装飾品や絵画などが置かれており、まるで大事な何かを丁重に慎重に囲っているかのような、子供が大切にしている宝箱を思い出した。
さきほどまでの凍えるような寒さだった廊下が嘘のように、ここの空間は人が過ごすのに適した温度になっており、肌がじんわりと膨らみを取り戻すのを感じた。
「……誰だ?」
凛とした重みのある声が響き、俺は思わず顔を上げた。
そして息を飲む。
深緑色のゆったりとした着物から覗く真っ白な肌。
それは日光を浴びていないのか、深海の真珠のように輝いていて、長い睫毛が涼しい目元を飾っている。
言葉を発したであろう口元は桜色の唇を持ち、薄くツンとしていた。
艶々とした黒髪は長く、腰かけている椅子の手摺に乗って地面に流れ落ちていた。
その佇まいは美しく、一種の美術品のようで、時間の流れが止まったのかと錯覚した。
牢とも思える一室の中心に存在する美しい男。
なんとも不似合いで、異様な光景だった。
「……? 冰河の使いか…?」
俺が黙っているからか、男は不思議そうにこちらを見た。
視線を向けられて身体が揺れる。こんなに緊張することなんて滅多にないが、知らずのうちに鼓動が速くなっていた。
「……あんたこそ誰だ? なぜここにいる?」
俺は声を絞り出して問い返した。
この男が人間なのか魔物なのか、一目見ただけでは判断がつかない。
今は人間に化けることに長けた魔物も多く、日常生活に溶け込んでいる者も少なくない。
もしこの男が魔物でないとしたら、明らかに高貴な身分の者で、徳の高い仙師か、俗世の人間ではないだろう。
男は俺の言葉に何を思ったのか、ゆっくりと立ち上がり、近づいてきた。
身の丈に合っていない大きな着物のせいか、足元は引きずっている。
「そなた、仙師か」
男は格子に駆け寄り、俺を見上げた。
近くで見れば余計に彫刻のような顔立ちだと分かったが、その瞳には動揺が含まれている。
俺は瞳に吸い込まれそうになりながらも逸らさずに、この男が魔王の巣にいる意味を考えていた。
魔王の配下になった者なら、この時点で侵入が発覚したことになる。わざわざ自己紹介をする意味はない。
だが、すぐに仲間共に知らせないところを見ると何か訳ありなのか?
どちらにしろ、もうこの男と対面していることに変わりはないため、俺は静かに肯定として頷いた。
すると、男は顔色を一瞬で変えた。悪い方に、だ。
「だめだ、すぐ逃げろ」
まるで男は俺が何を目的に来たのかすでに勘づいたかのように、顔色をさらに白くして、格子をぎゅっと握りしめた。
「今ならまだ間に合う。退け」
「……俺が何故侵入したのか知っているのか」
「魔王の暗殺」
男がきっぱりと正解を言い当てた。
俺の黒装束と仙師ということから分かったのだろう。
「あぁ。ヤツを殺すか、そのための情報収集が俺の任務だ」
俺は身体に忍ばせているいくつもの対魔族用の武器に触れた。
もちろん魔王に正面突破で挑むことはできない。だから睡眠中など隙を見て致命傷を与えるしかない。
「もう一度言う。退け。今すぐだ」
男は格子越しに、俺の襟元を掴んだ。
恐ろしいほどに洗練された顔が睨んでくる。
「命を無駄にするな。この階は例え魔族でも殺される。早く――」
「なら、あんたは何なんだ」
俺は男の言葉を遮った。
俺の一族は長年魔族に恨みを持っていた。諦めきれずに修行を続け、声がかかった。
実力を買われたのか自分にやっと出番が回ってきて、時空の歪みから入り込み運良く魔王の拠点にまで侵入できたというのに、撤退しろと?
「あんたは魔族じゃないんだろう。殺されずにここで何をしている?」
俺がそう言うと、男は言葉に詰まる。
「私は……」
ここで俺はふと気づいた。
男の腹に、膨らみがあることを。
「……あんた……」
視線に気づいたのか、男は腹を隠すように上着を羽織り直した。
「私のことは気にするでない。早く……」
そこまで言った男は突然ぴたりと動きを止め、廊下の奥を見て何かを感じ取ったようだった。
「まずい」
俺も同じ方向を見たが、暗く何も見えず、何の音もしていない。
「帰ってきた」
男はそう呟き、素早く牢の隅の出入り口から俺の手首を強く引っ張った。
何のことを言っているのか分からない俺は、急に男の気が触れたのだと思った。
「早く」
囁くような声で強く言われ、俺は部屋の中に入り込み、寝台の後ろの隙間に投げ込まれた。
頭をぶつけて不格好な体勢になり、思わず男に不満をもらした。
「おいっ」
「そなたの痕跡を消す。死にたくなければ黙って静かにやりすごせ」
男は部屋に霊力を撒き、俺の匂いを消したようだった。これは高度術法のはずで、そこらの仙師では到底会得できるものではない。
この男、本当に何者だ?
疑問が頭を占めていると、ギィと格子を開ける音が響いた。
「師尊」
別の男の声が耳に入ってきた。
穏やかな声。だが、風采と品格が伴っているのが伝わってきて、只者ではないことが分かる。
「今戻りました。人界で珍しい茶葉が手に入りましたので、煎れますね」
「あぁ、ありがとう」
俺は言われた通り大人しくするしかなく、じっと隙間に挟まって様子をうかがっていた。
師尊と呼ばれたさきほどの男が、煎れられた茶をゆっくりと飲みながら、たわいもない会話を続けている。
押し込まれたここは見事に死角で俺の存在は見えていないだろう。
視界は寝台に塞がれているので、耳だけが異常に冴えた。
なるほど、あの男は「師尊」だったのか。そして、牢を訪ねてきた男は「弟子」?
拾った情報を整理したものの、変わらずどういう状況なのかは明確には理解ができなかった。
目の前の二人は、俺もよく知っている平凡な師弟生活をしているように見える。
だが、ここは魔界で、魔王の住処だ。
訳もなく普通の生活などできるわけがない。
さっき「師尊」は俺に『逃げろ』『死にたくなければ黙ってろ』と言った。
その後すぐ気配も無く現れたあの男――「弟子」。
「師尊」が俺を匿う理由は、この「弟子」が原因?
そして何より気になるのは「師尊」の腹の膨らみ。あれは……まるで……。
「何かありましたか、師尊。お顔の色が優れない気がしますが」
茶器を置く音がして俺の意識は師弟の二人に戻る。
「いや、特に何もない。いつも通り、そなたの茶は美味い」
その言葉に気を良くしたのか、「弟子」がくすりと笑った。
「時間をかけてじっくり選別した甲斐がありました」
心から嬉しそうな「弟子」の反応、これは嘘ではなく本物だろう。
師弟仲はかなり良好なことが雰囲気から読み取れ、ほのぼのとしている。
もし今この場に俺が出て行っても、丁重に迎え入れてくれるのではないかと思うほどに。
しかし隠れろと言われた以上、とにかく今は「弟子」が立ち去るのを待つしかない。
そう思っていると、「弟子」が動く気配がした。
「……師尊」
突然俺にくっついている寝台が揺れた。二人がそこへ腰を下ろしたからだ。
見つかったわけではないと分かり特に焦りは無かったが、「弟子」が「師尊」を押し倒したと分かる音が聞こえ、不穏な空気を感じ取った。
「……師尊、師尊、口を開けて」
「だめ、びん……んっ」
水分を含んだ音がし始め、俺は初めて動揺した。
……これは、つまり、二人は接吻をしているのではないか。
師弟だろう? 男同士で? どういうことだ? 何が起きてる?
「はっ……、ふぅ、んぁ」
受け入れた「師尊」の声が艶めかしく室内に響き、ぴちゃぴちゃと、まるで誰かに聞かせたいかのように、接吻の勢いは増していった。
一通り満足したのか、舌を擦る音が止み、「弟子」が「師尊」の手を取り起こす。
「申し訳ございません、どうしても貴方に触れたくて……」
「はぁ、ん、気にするな」
「弟子」が明らかに反省の色を示し、「師尊」が息を整えながら返事をする。
気にするなだと? 師弟でこの行為は禁忌だろう。
俺は混乱するしかない。
「師尊、こんな弟子は嫌ですか? 我慢もできないこの弟子は……」
「すぐ否定的な考えをするでないといつも言っているだろう? ……師も触れ合うのは嬉しいよ」
「娘子……っ」
この一言で俺の心臓は飛び出しそうになった。
この二人は、師弟であると同時に、そういう関係なのか……!?
「娘子、どうか私が外に出ている間は絶対安静に過ごしてください。生まれる子のためにも」
「……相公よ、私もこの子もいつも静かに過ごしている。だから、案ずるな」
「弟子」が「師尊」を抱きしめたのか、振動で寝台がまた揺れた。
だが俺はもう隠れていることを忘れてしまうほどに、衝撃を受けていた。
師弟が夫婦の契りを結んでいて、しかも、身篭っている。
あの腹の膨らみは、そういうことだったのだ。不自然に大きな着物も、腹を締め付けないためだったのか。
脳内で謎が解けていく。
「前のようにここから去ろうとすると、私の心は酷く傷つき、枯れてしまいます」
どろりと空気が変わる。
陰気、痛心、悲哀……、様々な負の感情が辺りを支配し、机に乗っている食器がカタカタと鳴った。
外からは聞いたこともないような魔物の鳴き声が木霊し、騒がしくなってきた。
俺は全身が岩に圧し潰されているかのように苦しくなり、肺が破裂しそうで声が漏れそうになった。
このままだと全身から汁を垂れ流して死んでしまいそうだ。
「冰河、ほら、こっちを向いて。もうあのようなことはせぬ」
優しく包み込むような声で「師尊」がそう言った。
「私には、そなただけ」
すると、部屋の空気が一瞬にして変わり、やっと苦しみから解放された。思い切り息を吸い込みたいが我慢する。
この現象の発端である「弟子」はスンと鼻を啜って、立ち上がった。
「……師尊、私の子となれば敵対勢力に狙われることは明らかですので、何卒ご理解ください。そのうち階を移す手配もします」
この時点で、とある可能性が俺の頭の中をよぎっていた。
聞こえてきた会話全ての情報を繋ぎ合わせると、導き出される答えがある。
そんなことあり得るのか? だが、すでにあり得ないようなことが目の前で起こっていたのだ。
考えたくないが、でもそうとしか考えられない。
この「弟子」が……魔王。今や三界を支配せんとする魔王だ。
「師尊、大変心苦しいですが、弟子はそろそろ行かねばなりません」
「……怪我をせぬよう、気を付けて」
「はい、行って参ります」
ちゅ、と軽く接吻を残して「弟子」は出て行った。
無機質な鍵をかける音が響き、足音が遠ざかって行く。
俺は、じっとその場から動かずにいた。隙間に収まったまま、壁と同化しているかのように。
少し経つと影が落ちてきて、覗き込まれているのが分かった。
「もうよいぞ」
俺は寝台を僅かに動かして身体を抜いた。節々が少し痛んだ。
どのくらい隠れていたのかもう分からないが、知らずのうちに身体はとても緊張していたらしい。
「師尊」は肘をさする俺を見て言った。
「今のうちに」
格子の端に手がかざされ、俺が入った時と同じ箇所に出口が現われた。
「弟子」――「魔王」が出て行った出入り口とは違う。
「師尊」は俺を逃がしたいと言っていたから、この戸の存在を魔王には知らせていないのだろう。
俺は「師尊」をじっと見た。
この美しい男は徳の高い仙師で、本来は仙界で優雅に煙でも燻らせながら多くの弟子を育てることが似合う存在だろう。
なぜか今は魔王の伴侶で、しかも身篭っている。
さっきの会話から過去逃げようとしたことがあり、この格子内に監禁されている。
そしてもう一度自問自答する。
俺の目的は? 魔王の隙を見て暗殺すること。または役に立つ決定的な情報を握ることで。
だが……。
「……分かった、撤退する」
俺の返答に「師尊」は安堵し、頷いた。
開いた出口をくぐって振り返ると、すでに出口は閉じられて冷たくて頑丈な格子が部屋を塞いでいた。
今気づいたが、この格子にはかなり薄い霊力が張り巡らされている。
おそらく「師尊」が、魔王の目を盗んで少しずつ自分の力が効く範囲を増やしていたのだろう。
だからこそ、俺は魔王と鉢合わせにならずに済んだ。
腹が重いのか、「師尊」が椅子に腰かけ、俺に言った。
「そなたは偶然私の部屋に迷い込んだから、運が良かった。今までの者はこうやって助けることもできなかった」
俺は、魔界で散っていった先輩や他の峰の者たちを思い出した。生還できるかは五分五分だ。それぞれ親兄弟がいて、師兄弟がいて、友人がいた。
急に悔しさがこみ上げてきて、静かに口調が強くなる。
「あんたは帰りたいと思わないのか。魔王にいいように扱われるだけでいいのか。一緒に帰ればいいだろう」
俺の言葉に「師尊」は目を丸くし、そして微笑んだ。まるで子を宥める母親のようだ。
「……これは私が自分を選んだ道。私は夫を愛している。それに、この子が腹に宿った時に覚悟を決めたのだ」
遠い目をして、「師尊」は窓を見た。
「私は帰らぬ」
魔界の地下深い場所だから青空などあるわけがないが、まるで本人には見えているかのようだった。
「そなたもさっきので分かっただろう。魔王は倒せない。周りにも伝えてくれ。……ここには来るな、と」
◆
生暖かい空気、岩石が飛び出した地面、走りながら俺は時空の歪みを目指した。
そして記憶を掘り起こす。
あの魔王が人界、仙界に手を伸ばし滅ぼさんとする勢いで攻撃を仕掛けてきたのはいつの頃だったか。
魔界との境目が歪み、各地から魔族が行き来できるようになってしまった。
大勢が死に、山が燃え、村が消え、魔族の占領が始まった。俺の一族も滅ぼされた村の一つだ。
ある日、攻撃が止んだ。
魔族が大幅に勢力を拡大した状況は相変わらずだが、一方的な侵略が止まったことは大きかった。
変わらず仙界とはお互いが睨み合い挑発し合う状況ではあるものの、やっと戦火の中駆け回る暮らしではなくなった。
攻撃が止んだ理由はなんだったのか。
当時、人々の間では多くの噂が飛び交っていたという。
そのうちの一つが、『魔王が愛する人を手中に収めた』というものだった。
獣が番を見失い、首輪が壊れたまま暴れまわった結果、やっと番を取り戻したようだと。
やっと合致した。俺を助けてくれた「師尊」こそ、魔王がどうしても手に入れたかった相手だ。
まずは帰って、報告せねば。
上役を通して四大仙門に協力を要請して……そうだ、確か蒼穹山派には魔王とも渡り合えると聞く掌門もいる。どうにかできないのだろうか。
空気が薄くなり、時空の歪みが存在を主張してくる。ここを渡れば人界だ。
俺は右脚から踏み入れた。
――はずだった。
「もう帰るのか」
背後から声が響き、背筋が凍ったかと思うと、俺はバランスを崩してその場に倒れ込んでいた。恐怖で足が絡まったのではない。
俺は自分の身体に起きた異変に気付いた。
「……な……」
ない。太腿から先が。俺の右脚が。
「もう少しゆっくりしていったらどうだ? わざわざ虫けらなりに、俺を殺しに来たのだろう?」
顔を上げると、若々しい眉目秀麗な男が俺を見下ろしていた。
この声はさっきまで聞いていた「弟子」のもので……魔王のものだ。
こいつが、修真界で何としても仕留めたい男。
その視線は汚物を見ているようで、人間に向けるものではない。
あんなとろけるような甘い声を発していた人物とは思えなかった。
「師尊がお前を逃したからといって、俺が見逃すとでも?」
魔王の片手には、俺の右脚があった。
目線に気づき、魔王は口角を上げてぐしゃりと大腿を握り潰した。
「畜生め……っ!」
俺は歯を食いしばって吠えた。
気づかれていたのか。この男は、俺があの部屋にいたことを最初から気づいていて、「師尊」との会話を楽しんでいた。
口からは血が大量に滴り、地に落ち、吸い込まれていく。
魔界の土は常に乾いていて、血を求めていた。
片脚を失ったことでじわじわと痛みが身体を支配し始め、出血で意識が混濁していく。
知らずのうちに胸元に忍ばせていた刃を握りしめていた。
「おまえ……、あの人を閉じ込めれば愛されるとでも思っているのか……っ」
これは無駄な抵抗だ。俺だって分かってる。唐突に思いついた最後の無駄な抵抗なんだ。
魔王は瞳の色が暗くなり、笑みが消えた。
「……気が変わった」
一瞬腕が熱くなったかと思えば、俺の両腕が消えていた。
「ぐぁあっ!」
ごろんと地面に転がった俺の腕。その手には刃が握られたままだ。
「即死にしてやろうと思ったが、やめる」
魔王が地面をトンと軽く蹴った。
俺の横たわった所は溺れそうなほどに血の海だ。無意識に涙が溢れ、鼻水が垂れ、涎が落ちた。
あぁ、ここまでか。
かろうじて息をしていると、地の底から高い鳴き声が響き、いくつもの大きな手が植物のように生えてきて俺を抑え込んだ。
「遊び相手が欲しい者たちはいくらでもいる。そう急いで逝くこともない」
俺は声を出す暇も無く、複数の手によって身体を解体されていく。魔王はじっとその様子を見て、きちんと俺が処理されているのかを確認していた。
頭部、胸、腹、残った左脚……全てがバラバラになって地底の魔物と共に俺の身体は連れ込まれた。
そして俺の怨念だけが、そこに残った。
◆
「師尊」
呼ばれて沈清秋は振り返った。
いつも洛冰河は足音一つ立てずこの部屋へとやってくる。なのに、今日は珍しく廊下から足音を響かせていた。
それはとても僅かな音であり、魔族でも中級程度では拾えない音だろう。沈清秋だから分かるものだった。
おかげで、命知らずの侵入者を匿うことができ、帰すことができた。
「おかえり。怪我はないか?」
「無傷です」
そう答えると洛冰河は沈清秋の肩に顔を埋めた。
「ん、どうした。疲れたか?」
沈清秋が頭を軽く撫でる。
「……師尊、師尊はこの弟子のことを……」
洛冰河がそこまで言って黙りこくると、沈清秋は何かを察した。
「……冰河。何をまた勝手に思い込んでいる? 師はそなたを愛しているよ」
「…………はい。私も師尊を愛しています」
言葉を繰り返して確かめるように、洛冰河は頷いた。
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