君にあげる薬はない01.プロローグ
立秋。まだ、カレンダーでは盆前だというのに、暦ではもう秋を迎える。毎日、好天の日が続く。好天といえば聞こえは大変良いかもしれないが、今世の夏の好天とは心地良いものではない。毎日釜茹で地獄かのような暑さで、向日葵は空を見上げるのが億劫になってしまうほどだった。
夜空に踊る美しい花火も、蚊取り線香の匂いも、エアコンも、夏の風物詩と謳われるものは全て嫌いだというそんな男がいる。
…五条悟。彼は、ピアニストだ。優れた容姿とその長い指が紡ぐ旋律が美しく日本でも指折りの有名なピアニストである。今では彼のコンサートは人気で数ヶ月先のチケットが取れないほどだった。
そんな五条は、数日前に横断歩道を歩いていた所を急に左折してきたバイクに巻き込まれ、事故に遭い右腕を骨折をしたのだ。ピアニストにとって腕の骨折は大変なことだが、生身の身体にバイクが勢い良くぶつかったのだから、右腕骨折のみで済んだのは不幸中の幸いだった。
しかし、暑い夏が嫌いな男だ。そんな男に、骨折は不幸中の不幸でもあった。ピアノが弾けない事などどうでもいい。それよりも、何よりも、ギブスが暑くて痒くて耐え難い事なのだ。
五条は、都内の整形外科病院を後にするとその隣にある調剤薬局へと眉を寄せながらのろのろと入る。調剤薬局の中は観葉植物がたくさん置いてあり、パキラやドラセナ、アンスリウム等がこの簡素な部屋の中で深緑を一層濃く色付かせて置かれていた。五条はそんな観葉植物に眼もくれず、不機嫌そうに処方箋をカウンターへと叩き付けるように置いた。薬剤師の女は怯えながらも受け取るとおずおずと口を開いた。
「しょ、処方箋承りました。あの、ほ、保険証と、お薬手帳をお持ちでしょうか…」
「は?お薬手帳なんか一々持ってる訳ないでしょ」
女は口をぱくぱくさせながら、途端に涙目になる。五条は何の罪悪感もなく、頭を掻いて面倒くさいと言わんばかりの態度でカウンターにもたれ掛かる。周囲の患者たちが五条にざわつき始めたところで、女の肩口に一際大きな骨張った手が置かれた。
「はいはい、こんにちは。本日、保険証をお持ちで?」
女の後ろからぬっと現れた男は薄っぺらい笑みを浮かべて現れた。五条とはそう変わらない大きな体躯を持ち、一房垂れた個性的な前髪。そして長い髪は低い位置で一括りにしていた。束ねられた房になった黒髪が、胸元へと垂れている。
「…え、?」
「ですから、保険証をお持ちで?お薬手帳はないのでしたら、お作り致します。保険証をお貸し下さい」
男は貼り付けたような笑みで細い目を更に糸のように細めた。五条は唖然とした。五感全てが目の前の男を捉え、血が噴き出すように熱く騒いでいるのだ。五条は唇を震わせながら、絞り出すように口を開いた。
「……すぐ、る…?」
「は?」
「傑だよな?!僕だよ!ねぇほら、悟!!」
カウンター越しに身を乗り出しながら食い気味に話す五条の勢いに薬剤師の男は思わず身を固くする。ああ、こういう手合いたまに居るんだよな。と男は親指で額をトントンと小突ききながらまたナンパかと小さく溜息を付いた。
「確かに私の下の名前は傑ですが、私は貴方のことは知らないですね」
「…傑…ッ僕達、前世で親友で…っ」
そう言いかけた途端、男は、畳み掛けるようにカウンターから身を乗り出して「ありますよね?保険、証」と遮る。五条はハッとしたかのように弾かれたようにブランド物の財布から保険証を出していた。女は「お預かりします!」と挙動不審気味に頭を下げると同じようにカウンター奥の調剤室へと逃げるように消えていった。その場に残されたのは、目の前の不思議な男と五条になった。男は「お薬をご用意致しますので少々お待ち下さい」と言うと、男も調剤室へと踵を返す。男の胸元に付けられたネームタグを見ると「夏油傑」と記されていた。
「…やっぱり傑だ。ねぇ、記憶がないのか?僕のことわからないの?」