800字小説練習(SB69) 外部の音楽スタジオでの自主練を終えたシアン。出口のあるロビーに差し掛かると、ガラス張りの自動ドア越しに冬ならではの白い結晶が降っているのが見えた。
厚着して来て良かったと思う反面、傘を持って来ていない事に不安を覚えた。
取りあえず自動ドアの外に出て雪を見上げる。勢いは存外強く、たぶん積もるのも時間の問題だ。
「困ったにゃ……コンビニまで走ろうかにゃ……」
はあ、と白煙の嘆息と共に独り言を呟いたその時。
「お前こんなとこでなにしてんだ?」
「あ、クロウちゃん」
話し掛けて来たのは偶然通り掛かったクロウだった。彼もまた手袋、コート、マフラーの重装備だ。片手に真っ赤な傘を差している。本当に深紅色が好きなんだなあ、とぼんやり考えた。シアンも手袋と傘はないが、同じような格好だ。
「此処の音楽スタジオで練習終わったところなんだけど、傘がないからコンビニまで走ってこうかにゃって。クロウちゃんは?」
「オレはこの近くで次のライブの打ち合わせしてたんだ。そしたら突然雪が降りやがってよー、傘持って来といて良かった黙示録だぜ」
「そっかー、備えあればなんとやらにゃ。それじゃああたしはコンビニ行くにゃ」
「待ちやがれ」
「にゃ?」
雪の街へ踏み出そうとした瞬間に呼び止められ、慌てて足を止める。クロウを見ると、彼は空いている方の親指を立てて傘を指し示した。
「入ってけよ。どうせ事務所に戻るんだろ? オレも今回の打ち合わせの事社長に報告しねえとだし」
「えへへ、じゃあお邪魔しまーす!」
笑顔になったシアンはタタッと小走りで傘に入った。
「いや、遠慮ねえなお前ッ!!」
「事務所までしゅっぱーつ!」
「へいへい」
雪のShibuvalleyを歩くその道中、他愛ない話をする。シンガンの次のライブでは新曲を披露するとか、音楽スタジオでの練習の進捗だとか。いつもと違う白化粧をした街がそうさせるのか、会話は弾んだ。
「なあ。その手、冷たくねえか?」
会話が途切れたところでクロウが不意にそう口にした。
「まあ、冷たいけど我慢出来るにゃ」
シアンはそう気丈に言うも、クロウは彼女の冷えた手を見下ろしてなにかを考えているようだった。
すると、クロウがふと足を止める。一歩進みかけたシアンも足を引き戻し同じようにした。
「どうしたにゃ?」
小首を傾げて尋ねると『ちょっと持ってろ』と傘を渡される。
ピチピチと雪が傘に落ちる音を聞きながらクロウは左の手袋を外す。そしてそれをシアンの左手に填めてくれた。
でもどうして片手だけ? そう不思議がっていると、クロウが自身のコートのポケットをポンと一度叩いた。此処に右手を入れろという事らしい。
「クロウちゃんもそういう紳士的な事が出来るのにゃ」
「失礼だなお前ッ!! 文句あんなら返しやがれ!」
「あー、嘘嘘! えっと、お邪魔します」
傘を返しポケットに右手を入れる。途端に彼の体温が手を包み込み、思わず口角が上がりそうになった。ごまかすように白い息をちょっとわざとらしく吐いてから『ありがとにゃん。行こっか』と促す。
急に現れた雪たちがくれたちょっとした暖かい贈り物。それに感謝するシアンの尻尾は嬉しそうにうねっと動いた。