ふたご あ、まずい。そう思った時には既に遅い。有名なことわざって案外的を得てるよなぁなどと現実逃避する。
その時の迅には、目の前の新緑色がおおきな悲しみと、静かな怒りで色を濃くしていくさまを見ていることしかできないでいた。
事の発端は迅の何気ない発言で、それを聞いた嵐山の堪忍袋の緒がついに切れたようだった。
母を亡くし師を亡くし仲間を亡くし、自暴自棄になっている自覚は多少なりともあった。生まれ持った能力による自身の命の重さを知らないわけではない。けれど、大切に思っていた人たちを喪う辛さを、未来を知りながら何もできなかった無力感を、そう間を空けずして何度も味わってしまえばそういう考えになるのもしょうがないだろう、と迅は思うのだ。
嵐山はそんな迅の思考が言動の端々に滲んでいることを敏感に感じ取っていたらしい。なにか言いたげにこちらを見てくる様子に気づいてはいたものの、正直なところ放っておいてほしくて気づかないふりをして過ごしてきた。そのツケが今まわってきたと言えば、まさにその通りだった。
「おはよーかきざきー」
「おはよう。おまえら、喧嘩でもしたのか?」
「まぁ、そんなとこ」
窓側の一番後ろの席が迅にとっては定位置で、学校側による配慮だ。ボーダーとしての任務や暗躍に忙しい少年のため、迅や生徒たちが気を遣わないようにあえて一番目立たない場所を与えてくれている。
柿崎はそんな迅の目の前の席で、嵐山は廊下側から二列目、一番前の席だった。
人気者でもある嵐山は今日もたくさんのクラスメイトに囲まれている。嵐山にも、そしてもちろん迅にだって、お互い以外にも友人が居るのだ。なんらおかしくもないのだから、気にすることでもない。
まあ、周囲からすれば、いつもなら迅が登校するなり文字通り席まですっ飛んで行くような男が軽い挨拶だけで終わらせる姿に違和感を持つだろうし、気にもなるだろうが。
「……早いとこ仲直りしとけよ」
「んー?うん」
迅に詳しく話す気がないことを正確に読み取った柿崎は、今回は長い戦いになるであろう予感にため息を吐いた。
迅も嵐山も、普段は柿崎自身が子どもに思えるくらい大人びた考えや態度を取ることが多いのに、時々ひどく幼い意地を張り合うことがある。それだけ気を許し合っていると思えば微笑ましいが、大抵の場合その喧嘩には柿崎がしっかり巻き込まれるのだ。別に悪い気はしていないが、大変なことも確かで。
追加でもう一つ息を吐く柿崎の後ろでは、迅が余裕綽々の顔で笑っている。
英語の授業では最後の十五分間、好きにグループを作って各々自己紹介を英語で行う自由時間が設けられている。基本的には二人から四人といった少人数で集まり、実際に習った英語を使ってみましょうという教師の方針だ。
好きに集まっていい、という指示に生徒たちが誰とグループを作るかと言えば、たいていの場合、普段から仲の良い友人たちだろう。嵐山、迅、柿崎も例外なくそんな生徒の一人であったし、実際三人でよく集まってロールプレイをしていたのだが。
「なあなあ、迅と嵐山の喧嘩まだ終わってないの?」
「そうみたいだぞ……」
思い出したかのように柿崎に聞いてきたクラスメイトに苦笑いで答えると、英文の書かれたプリントを興味なさげに眺める目の前の迅を見た。くるくると迅の手元で回されていたシャープペンシルが高い音を立てて机に転がり落ちると、いつものゆるい笑顔を浮かべる。
「粘るよねぇ」
「いやほんとにな〜」
「嵐山にしちゃ珍しいなぁ」
「のんきに言ってる場合か!」
席の近いクラスメイト二人と交わすのんびりとした会話に思わず突っ込んでしまう。数日前から続く二人の喧嘩は未だに終わりそうにないらしい。
ほぼ毎日ある英語の授業において、最近の嵐山は違うグループに誘われるがまま参加しているようだった。今までは嵐山の方が迅と柿崎の居る窓際の席まで真っ先に誘いに来ていたのだが、喧嘩をした翌日からとんと寄り付かなくなった。なんともわかりやすい。
なんだかんだで、授業中に時折ちらりと迅の様子を伺っていることにとっくに気づいてはいるのだが。迅はその能力でもってそんな嵐山のタイミングを読んでいるようで、そういう時はぼうっと窓の外を眺めているから視線が合うわけもなく。つれない態度をとる迅と目に見えてしゅんとしている嵐山の顔を見る度に、何故か柿崎が心と胃を痛めるはめになっている。
「迅もそろそろ許してやったら?」
迅の横の席に座るクラスメイトの言葉にええ、と肩をすくめる。
「許すも何も、おれは別に怒っちゃいないんだよ?」
くるりと再び手元でシャープペンシルが回される。
「やだ怖い……ガチで怒ってるやつじゃね?」
「ほんとだって!」
けらけらと迅たちの笑い声が賑やかな教室にも響いて、私語に気づいた教師から英語を使って話せているか、とやんわりとした注意が飛んでくる。オッケーオッケー、ノープロブレム!と元気に答える姿に、柿崎はどうにも違和感を覚えてしまうのだ。
「おまえらの問題だからあんまり口出したりしないつもりだけど、先延ばしにしすぎるとあとが大変だからな?」
口を出すのはこれが最後だと心に決めて柿崎が言えば、わかってるよ、といつもの笑顔で返された。本当にわかっているのだろうか。わかっていない気がしてならない。
「Take it easy!」
心配です、と顔に書いてある柿崎に向かって白い歯を見せて迅が笑う。
「それ、覚えたての英語使いたかっただけだろ……」
*
ホームルームを終えた教室は静かだ。帰宅部の生徒は用事がなければ早々に帰宅するし、部活がある生徒たちはほとんどが準備を済ませて出ていってしまうため、室内はがらんとしている。ちなみに柿崎も例外ではない。
残ってまで話す相手も今は居ないので、さて帰ろうかとスマホを消して机の横に引っ掛けてある鞄に手を伸ばすと、その向こうに爪先の赤いシューズが見えた。高校では上履きはなんでもいいので青や緑や黄色といった色とりどりのシューズがあるけれど、好んで赤を履いている男子生徒で、迅に話しかける生徒はあまり居ない。
「なに?」
思ったよりも平坦な声が出て自分でも驚いたが、態度にはおくびにも出さない。今まさに迅に声をかけようとしていた嵐山を気にするでもなく、努めて冷静に見えるよう鞄を机に乗せて引き出しの中の教科書を突っ込んでいく。
「……今日も先に帰っててくれ」
嵐山はそんな迅に少しばかり動揺したのか、迷ったように沈黙して、一言そう言うとこちらの返事も待たずに鞄を持って教室を出ていった。嵐山を待っていたらしい女子生徒の姿が扉の向こうに見える。清純そうな見た目のその子は同じ委員会だったか、それとも。
嵐山隊は他の隊員に比べて格段に仕事量が多く、特定の部活に入部することは諦めたのだと言っていた。いざ試合の日に緊急出動や広報の仕事が重なっては部員に迷惑をかけてしまうから、とも。
その代わりのように、比較的融通の利く委員会活動にはできるだけ参加しようと力を入れていることは知っている。他でもない嵐山が迅にそう話したのだから。まあ何にせよ、迅には関係のないことだ。
最近はずっとこうだ。そう何度も言わなくたっていいのにとすら思うが、嵐山はいつも律儀に言いに来る。喧嘩中によく言いにこれるものだと逆に感心してしまったぐらいだ。
そもそも、嵐山と迅は一緒に帰る約束なんてしたことがない。放課後は本部に直行したり、度々嵐山の家に遊びに行くことがあったから帰っていただけで、別に毎回一緒に下校する必要はまったくないのだ。
「まじめくんだなぁ」
教室の誰も、迅の独り言になど気がつかない。一人しか居ないのだから当たり前なのだけれど。
日直の閉め忘れた窓の向こうからひんやりとしてきた風が迅の横髪を揺らすのが鬱陶しくて、少し乱暴気味に窓を閉めた。ガシャン!という音が室内に響いて、その音の大きさにも少しだけ苛立ってしまった。ああもう、まったく。自分らしくもない。
ふぅ、と小さく息を吐く。呼吸を整えることは大事だ。いつものように、飄々として余裕のある迅悠一で居なければ。久しぶりの友人との喧嘩でほんの少しでも荒れている心を周囲に悟られるのは、迅のプライドが許さない。
椅子を引いて席を立った迅の心は、もう既に凪いでいる。
*
今回は中々に頑固を貫き通すらしい。前方に座る嵐山の背筋の伸びた後ろ姿を眺めた。黒板の板書をまめにノートに書き写す時すらお手本のような姿勢の良さに、さすがは優等生を体現する男だと小さな嫌味も浮かんでくる。
未だに迅と嵐山は仲直りできていなかった。挨拶は、する。一応。まったく話をしないわけではなく、必要があれば言葉だって交わすけれど、ここ最近はそれだけだった。
例えば嵐山の弟妹自慢や愛犬のことだとか、楽しかったこと悲しかったことといった日常における他愛無い会話はめっきり減った。ほぼ0だ。そりゃあ喧嘩をしているのだから当たり前だろう。
休み時間になる度に事情を知るクラスメイトがちらちらと気遣わしげな視線を送ってくるが、迅はそれにへらりと笑って返すだけ。
こんな状況でも平気だ、と他者に言える根拠が迅にはある。その青い目ではっきりと視えている。今の自分達とはそこまで離れていないであろう年頃の嵐山が、迅にいつも通りの眩しい笑顔を向けている未来が。楽しそうに話しかけている先が。
それは確定された未来だった。そこに至る分岐はいくつも分かれて常に先が揺れているものだが、その未来の映像だけは変動がない。どう転んだって嵐山との縁は切れないことがわかっている分、余裕がある。
だから迅は簡単には焦らないし、自ら引きもしない。心配そうに見てくる学友たちに大丈夫だよと笑っていられるのだ。なんせ、実力派エリートなので。
*
柿崎経由で喧嘩の話がいった別クラスの生駒や、他校の弓場ですら呆れるほどに今回の喧嘩は長引いている。引き際を見誤っているんじゃないか、と散々言われたが、迅からすればなんでおれだけ!と物申したい。日頃の行いだろ、と口を揃えて言われるが。
「だから言っただろ、早いとこ仲直りしとけって」
「べつにー?おれ、困ってないし」
迅の飲んでいる紙パックからズゴゴ、とジュースが底を突いた音がする。ストローの先をガジガジと噛んだまま、食べ終わったパンの袋を結んでコンビニ袋に乱雑に突っ込む迅に行儀の悪さを指摘する人間はここには居ない。いつも率先して世話を焼く男が居ないのだからしょうがない。柿崎はあえて注意もしないでおいた。
もうどれくらい昼食のメンバーに嵐山が居ないだろう。そろそろ2ヶ月は経つだろうか。
「さすがにこれ以上長引くと仲直りし辛いんじゃないか?今もお互い引っ込みつかなくなってるだろ」
「そう?嵐山が頑固すぎるだけじゃない」
「おまえがそれを言うのか……」
柿崎からすれば迅も嵐山も同じくらい頑固だ。お互い様というやつだ。
今回の喧嘩の原因は二人して口を噤むためわからない。嵐山の場合は大方、口を割らないだろう迅に合わせているのだろうが。
けれど、二人の掲げているであろう主張が平行線で決着が着かない問題であることはなんとなくわかっていた。伊達に今までこの面倒くさい男たちの友人をしてきていない。
「まあ、俺には詳しいことは結局わからないんだけどよ」
食べ終えた柿崎が弁当箱を包み直しながら迅を見た。
「寂しいだろ。ずーっと喧嘩したままなのも」
換気のために開けられた窓から風が入ってくる。もうすっかり冷たくなってしまったそれが、迅の学ランに覆われた体を撫でていく。
「寒……」
「……風のことだよな?」
当たり前だろ、と迅が笑った。
*
今日は嵐山からの、最近お決まりの言葉をかけられるのすら少し面倒になって、ホームルームが終わると同時にすぐに教室を出てしまった。ちょっと露骨だったかなとちらりと後悔の二文字が浮かびかけるも、コンビニから微かに漂ってくる冬のおいしい香りに思考は霧散した。
「お、肉まん」
コンビニから親子や学生たちがおでんの容器や肉まんを手に出てくる様子をぼんやりと眺めた。
ほかほかとした湯気の多さ。熱い熱いと各々格闘しながらもおいしそうに頬張る姿に、放課後の空腹が刺激される。ただでさえ学生というものは常に腹を空かせているものなのに、とんだ飯テロだ。
「お腹すいた!俺、肉まん食べるわ」
「いいなあ、帰ったらすぐメシなんだよなオレんち」
「半分いる?割り勘で!」
「細かい!」
迅の後ろから歩いてきた中学生の楽しそうな会話がやけに耳につく。肉まん、ピザまん、あんまん……どれにしよう、はんぶんこにするなら何がいいか。期間限定もあるかな。そう話し合いながら、コンビニに向かって元気に駆けていく後ろ姿を見つめた。
迅もお腹は空いているが、元々があまり食べる方でもない。それに、このまま真っ直ぐ玉狛支部に帰れば既に誰かが用意した夕飯が迅の空腹を満たしてくれるだろう。買い食いのせいでそれらを残してしまうのは気が引ける。ああ、でも。
「肉まんいいなぁ〜」
料理中のつまみ食いと同じくらい、学校帰りの買い食いは美味しいのも知っている。ちょっとした背徳感をスパイスに、すっかり寒くなった外の空気に晒されながら、熱々の肉まんを頬張るのはいくつになっても心動かされるものだ。
「半分なら食えるのになー……」
空腹を訴えるお腹に手を当てながらコンビニを通り過ぎた。このまま見ていてもしょうがない。どうせ買わないのだから、さっさと帰ってご飯を食べればいい話だ。
ふと、仲良く肉まんを分け合う中学生の未来が瞼の裏に映る。猫舌だったらしい片方があまりの熱さに舌を軽く火傷してしまうようだ。慌てて水筒の水を飲んで、痛いのに、それがおかしいといった風に笑っている。
嵐山と喧嘩をしていなければ、今頃迅も肉まんを食べていたのだろうか。一個150円のそれを半分ずつ。小銭を出し合って、数種類の中から二人で選んだ味を噛み締めていただろうか。そういえば、去年は嵐山が舌を火傷していたっけ。
「……帰ろ」
首を振って思い出を消す。考えたって意味がない。寒いから思考が鈍るのだ、そうに違いない。うんうんと一人頷いて、みんなが待つ玉狛支部への川沿いの道をいつもより早足で進んでいく。冷えきった体を一刻も早く温めたかった。
*
「迅くん、お隣座ってもええですか〜?」
「生駒っちの裏声初めて聞いた。いいよ〜」
「失礼いたします〜!」
「なになに、なんのノリ?」
「ザキがな、お手上げ言うてきたから俺が代打で来てん」
まあそうだろう。柿崎は優しいがゆえに他人の問題に悩まされやすい傾向がある。口を出すのは最後とは言いつつ、ずっと気にかけてくれているような性格だ。悪いことをしたなぁと思っていると、焼きそばパンに齧り付いた生駒が迅を見る。
「ひんはあやひやむぁほはははほひへんほ?」
「食べてから話してー!」
わかんないよー!と両手を上げて降参する迅にハッとして片手で謝るポーズを取った生駒は、今度は咀嚼に集中したようだった。お互い無言で見つめ合うはめになり、妙な沈黙が広がる。
「……」
「……」
「……生駒っちってめちゃくちゃよく噛んで食べるよね」
「……!」
頷いて親指を立てる生駒の顔の横に星が見えた気がする。よく自慢している祖父の教育なのだろうか、それとも両親か。意外とちゃんとしてるんだよな、とハムスターのようにもぐもぐと口を動かす生駒を観察した。
「で、迅は嵐山と仲直りせんの?」
さすがボーダー随一の旋空弧月の使い手。居合の達人である。切り込み方に容赦がない。迅が話を逸らす間もなかった。
「しないわけじゃないよ」
「そうなん?全然仲直りせえへん〜!ってザキは泣いとったけど」
「大丈夫、大丈夫。だっていつかは仲直りする未来が視えてるからね」
そう言うと生駒はムムと下唇を突き出してうんうんと唸ったかと思うと、その様子を不思議そうに見ていた迅に目を合わせた。
「ううん……なんで怒っとるとか俺も知らんねんけど、それやと嵐山の気持ち置いてきぼりな気するわ」
「え」
「結果的に仲直りするんと、だから何も言わんでも大丈夫ってのはイコールにはならへんやろ?」
それは、そうだ。心臓がさぁっと冷える心地がする。迅にとっては問題を放っておいたつもりはなく、どうせ仲直りするのだから焦る必要はないと判断しただけで。未だに意地を張り続けている嵐山が冷静になってから話をしたほうがいいと思っていて。
未来は無限に広がっているなんて、そんなことはわかりきっているはずなのに、どうして当然のように嵐山と仲直りできると考えていたのだろう。ほぼ確定されているであろう未来をサイドエフェクトが視せたからだ。どの分岐先でも最終的にはその未来に繋がっていて、嵐山が笑っていたから、そう思った。
でも、もしも、嵐山が迅と友だちに戻りたくないという心を選択したら。その道を選ばないとは限らないではないか。迅の未来視は数ある未来を見せてくれるだけで、人の心までは変えられないのだから。
「今の嵐山のことも見たってや、迅」
生駒の深い緑の瞳を見返せないでいる迅は、小さく頷くことしかできない。