1.
ずっと、何かが足りない気がしていた。
家庭に恵まれ、友達もたくさんできて、少し大変でもやりがいのある仕事について、体調だって少しばかり人より病弱でこそあるがそれでも年に一回感染症にやられる程度で日常生活は人並みに送れる、そんな幸せな暮らしをしていた。
それでも、何かとても大事なものが欠けている気がしていた。
それが突然満たされたのは、ある春の日のことだった。
その日は、俺の働く保育園に一人の男の子が預けられる日だった。ご両親が大手会社の社長と副社長で、面倒を見ている時間がないらしい。
たまたまその子が入る予定のクラスの担当だった俺は、入口のところで出迎えた。
「おはようございます。」まずは母親に挨拶。そして
「おはよう!」子どもの方にも挨拶をしようと顔を覗き込む。
顔を見た瞬間、この子だ、と思った。理由は分からない。だが、俺の「足りなかったもの」は間違いなくこの子だと、そう確信した。
どうやらその子も同じだったようで、俺が突然の事に戸惑っている間に迷いなく抱きついてきた。「おはよう!」と、物凄く嬉しそうな声を上げて。これぐらいの年頃だと人見知りの激しい子も多いが彼はそうではないようだ。
「いや、この子は人見知りはしませんが自分から行くことはあまりないですよ」
「そうなんですか?」
「ええ、相当気に入られたみたいですね」
そう言われて、なぜかいつもより嬉しくて、そしてとても安心した。
だが、俺は保育園の先生だ。子どもたちには平等に接する必要がある。俺は他の子たちと同じように、母親と事務的な事を軽く話し、本人に自己紹介をしてもらった後、母親と別れた。
彼が母親と別れるときに母親など興味がないと言わんばかりに俺になついてきたのにも驚いたが、彼の名が「春水」だと聞いたとき、何度もその名を呼んだような気がして、凄く懐かしい感じがしたことはもっと不思議に思った。
その日、最後まで残っていたのは春水君だった。やはり社長と副社長というのは相当忙しい立場らしく、他の子が帰って一時間以上経っても両親は現れなかった。
春水君は花がとても好きらしい。その一時間の間、俺たちは一緒に庭の花を眺めたり、春水君が思いついたように折ってくれたとても綺麗な折り紙の花を俺が貰って愛でたりしていた。その花を眺める姿や折り紙を折る子どもとは思えないほど繊細な所作に、俺は不思議と相変わらずだな、と思っていた。
ようやく母親が迎えに来た頃には、春水君は俺の膝の上で寝てしまっていた。膝枕をしながらやっていた仕事の手を止め、彼を起こす。
「起こしてしまってごめんな、お母さんが来たぞ」
「ん…うきたけ…?」
「...!京楽…?」
思わずその名を口にしていた。
だが俺には「京楽」という名の知り合いはいないはずだ。「浮竹」という名にも心当たりはない。
けれどどうしても春水君には「京楽」という名がふさわしい気がしたし、「浮竹」が俺だとするとしっくりくる気がしてならなかった。
「…うきたけぇ、もっと、いっしょにいたい…」
「ああ、俺もだよ。俺も京楽と一緒にまだまだいろんな事がしたい。だが今日はもうお母さんのところに行く時間だろう?」
そうだ、寂しくても、懐かしくても、母親を差し置いて勝手に二人で過ごすわけにはいかないのだ。
「でも…」
「明日また会えるじゃないか」
「うん、そだね…それじゃあ、また明日」
「ああ、また明日!」
彼を送り返したあと、家に帰ってもずっと彼について考えていた。俺にとって彼が特別であるように感じたのはなぜか、なんで彼の行動の節々に懐かしさを感じたのか、結局考えても分からなかった。だが京楽に出会えて、京楽と一緒に過ごして、今まで感じたことのないほど幸せだったこと。これは確かだ。
ならば疑問など晴らせなくとも、明日また共に過ごせばよいではないか。そう思うことにして、明日も会うことを楽しみに床についた。
2.
初めて出会ったはずなのに、
「もう二度と、今度は絶対に離れたくない」
そう思ったんだ。
僕はその日、お母さんに連れられて保育園に来ていた。初めての保育園は、正直面倒だった。そんな場所に行くよりも、家で絵本を読んだり庭や公園の花を見たりしている方がずっと楽しいのにと思っていた。
でも保育園に着いて、きれいな白い髪を見た瞬間、目を奪われた。もしかしてと思った。
勘違いだったら嫌だと話しかけるのをためらっていると、向こうから顔をのぞき込んであいさつしてきた。
予想は当たっていた。また会えたことがうれしくてうれしくて、気づくと抱きついていた。
自分のことなのに、何の予想が当たって何故「また」なのか分からない。でも、そんなことどうでも良くなる程うれしくてたまらなかった。ずっと会いたかった、ような気がした。
「君の名前はなんていうんだ?」お母さんとの小難しい話を終えたその人に、僕を抱いたまま話しかけられる。
「しゅんすい!」
「!…しゅんすい……そうか、春水君、か…」
「よろしくな!先生の名前はじゅうしろうっていうんだ!」
「…じゅうしろう?」
「そうだぞ!『じゅうしろうせんせい』と呼んでくれ!」
「わかった!十四郎せんせい!」
なんだかよく分からないけど、うれしくってうれしくって仕方がなかった。ああやっぱり、ぼくは「十四郎」が大好きだ。思わずもっと強く抱きしめたら、苦しがられてしまった。
ずっと一緒に居たかったけど、残念なことにどうやら十四郎せんせいはみんなのものみたいで、すぐに他の子たちに囲まれてしまった。でもその子たちはそのうち少しずつ家に帰り始めて、最後には二人になれた。最後の子が母親に引き取られた瞬間、十四郎にわっと駆け寄ってぎゅっと抱きしめた。少し驚いてこっちを見た十四郎に満面の笑みを見せたら、十四郎も笑ってくれた。
そこからは本当に楽しかった。一緒に庭を散歩して、時には十四郎に肩車をしてもらいながら花やら何やら色々と眺めて、少し疲れてきたら部屋で一緒に工作したり折り紙をしたりして遊んだ。だんだん眠たくなってきてあくびをしたら、「寝るか?」と言ってぽんぽん自分のひざを叩くから、「十四郎のひざ枕!」と大喜びして頭を乗せた。
最初は興奮していたけど、ひざの上で幸せに包まれているうちに眠気に勝てなくなってきて意識を手放した。
夢の中、顔を上げるとそこには大きな桜が一本。近づけばその下に浮竹がいて、思わず駆け寄る。
「浮竹!」
「…京楽?」少し驚いた様子で浮竹はゆっくりと視線を桜から僕に移す。
「ずっと会いたかった…会えて…良かった…」泣きそうになりながらそう言って抱きとめると、「ああ」とだけ言って抱き返してくれる。
「浮竹」
「うん?」
「これからは、ずっと一緒だよ」
「ああ、そうだな」
そう言って微笑む浮竹に、僕も笑い返して、僕たちは互いを離さぬようにより強く抱き締めあった。
………すい…
…んすい…ん…
「春水君っ」
「起こしてしまってごめんな、お母さんが来たぞ」
「ん…うきたけ…?」
「…!京楽…?」
夢から覚めたばかりでまだ寝ぼけていた僕は、十四郎を見てそんなことを言っていた。
…あれ。そういえば。
さっきの夢に出てきた人は間違いなく十四郎だった。それなのになんで僕は夢の中で浮竹と呼んでいたんだ?
いやそもそも、どうして僕は京楽と呼ばれていたんだ?僕の名前には京楽の「き」の字もないのに。
それに、僕たちが着ていたあの黒い着物と白い羽織、それから僕が羽織っていたピンクの着物は何だろう?見覚えがある気がするのに思い出せない。
でも、確かに僕と十四郎は京楽と浮竹だ。そんな気がする。よく分からないな。
あれこれと考えているうちに、浮竹に帰るように言われてしまった。さっき「ずっといっしょ」と言ったばかりなのに、とも思ったけど、浮竹の言うことも正しい。浮竹の申し訳無さそうな声に負けて、お母さんと家に帰った。
それにしても本当に十四郎に会えて良かった。思い出してはうれしくなって、でも同時にすぐにいなくなってしまうのではと少し不安になって、なかなか寝れなかった。
結局翌日浮竹に会ったとき、せっかく会えたのに、ホッとしたのと寝不足だったのとで午前中いっぱいずっと寝ることになってしまったのだった。