まだひとのままでまだ日が出ていた頃から飲まず食わずで事件を追っていた菅野は、はたと見た時計が示す時間に一瞬目眩がした。音もなく時を刻む電波時計は、その流れを容易く麻痺させる。時刻はちょうど丑三つ時、とは言えこうも煌々と灯りがついたままでは、流石の霊も寄り付かないだろう。
「夏樹。交代でシャワー」
「はーい。俺最後で大丈夫ですよ」
「俺とお前以外済んでる」
「え、いつの間に」
顔を上げれば、服部が言外に早く出ろと菅野を急かす。思えば、夜の十時あたりから、誰かと会話を交わした記憶がない。オフィス内も閑散としていて、外出か仮眠か、見知った顔の何人かは出払っているようだった。目に見えない力に引っ張られるように、服部の背を追いかけた菅野は、部屋を出た途端広がる暗がりに、真夜中を嫌というほど実感した。
それは一週間ほど前のことだった。未明に起きた強盗事件で、死人が出た。この仕事に身を置く限り珍しいことでもなかったが、だからその死が軽くなるなんてことは間違っても有り得ない。
簡単に服を整えて、ロッカーの鍵を閉める。菅野は脱衣所を出て、シャワー室の冷えた空気に少しだけ震えた。隣から聞こえる水音に並んで、蛇口を捻る。随分と強張っていたらしい、温水を浴びながら伸びをすると、あちこちの関節が軽快に音を立てた。ほぼ半日デスクに向き合っていたことを思えば当然かもしれないが、血流と共に滞り気味だった思考も済んでいくような心地がする。
「耀さんも先に入って良かったのに。待っててくれたんですか?」
「行けって言っても聞かなかったもんでね」
「……あちゃー」
大方適当に相槌を打って、そのまま没頭していたのだろうが、よりによって服部を相手に、何一つ記憶にないあたりが恐ろしい。見かねて連行されたということだろう。
日々絶えない事件、その一つ一つに向き合うためには、こうした最低限の休息すら時間が惜しい。事件解決には初動が肝心ということもあって、今日までの間そこそこ根を詰めた自覚が菅野にはあった。
「耀さんも結構無茶してると思いますけどね」
「なに」
「実は何回か考えたことあるんですよね。いつ寝てるのか分からない時とか、耀さんって本当に同じ人間なのかな〜って」
根を詰めると言えば、隣の気配も人のことは言えないだろうと思って、声をかける。どんなに切迫した状態であってもいつも通りのように見えるのだから、からくりがあるのなら教えて欲しいものだ。
「残念ながら、どこにでもいるただの人間だけど」
「どこにでもはいないでしょ」
そう言って笑う菅野の声は、湿気を帯びた空間によく反響した。隣のシャワーが止まり、服部が出て行く気配を背後に感じる。思った以上に心地の良い湯の温度が、まだ少し名残惜しい。言い訳と共に、服部が出て少ししたら続くことにしようと決める。
「弔うのって、人間だけなんですって」
まだ扉の手前にある気配が、ひたりと立ち止まる。シャワーの音は止まない。なんとなく、仕切り越しでしか言えないことのような気がした。
「耀さんは、ひとのままでいてくださいね」
返事はないまま、戸が閉まる音がする。今回、菅野が同行した現場検証の指揮は服部に一任されていた。仏に手を合わせて足を踏み入れる服部の姿は、これまでに何度も見てきたそれと変わらなかった筈だ。
自分達の仕事はいつだって、事件が起きて初めて、そこに存在した問題を知るのだ。啓蒙だけで犯罪は消えない。ただのなにかになった人間を、人間であるうちに救い出せるとは限らない。ここで志を共にする仲間の全てが、きっと同じ遣る瀬なさを抱えている。けれど服部は殊更にそれらを、いつまでも飲み下していつも通りの顔をするから、いつか内側から崩れて、そのままひとでなくなってしまうのではないかと。物言わぬなにかに、なってしまわないかと。
そんないつかが、どうか来ませんように。祈るしか、出来ることが見つからなかった。