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    mireoudon

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    mireoudon

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    #腐タマイ版深夜のワンドロワンライ
    小説のまとめです 菅服ばかり
    一部手直しなどしています

    9/19 はやく/菅服


    その体温を知りたくない

    「キスしてくれたら諦めつくかもしれないです」
    無事に業務を終えて帰路に着く駐車場で、菅野は服部を引き留めた。好きですの一言に諦めなと返事をもらうのは、これで何度目だったか。何度も繰り返した問答の中で、例え先に続く言葉を知っていようと、菅野が想いを伝えることを諦めた日はなかったし、服部もまた菅野の言葉を毎度、律儀に最後まで聞く。これは、その中に差し込まれた一つのイレギュラーだった。
    未練を断ち切るための口実、その常套句をまさか自分が言う側になる日が来るとは思っていなかった。もちろん、半分以上が冗談のつもりだったが。菅野は口をついたそれを脳内で反芻して、服部の様子を伺う。一転してしんと静まり返る空気に、他所の車のエンジン音だけが微かに響いた。その空気に居た堪れなくなって、菅野は努めて明るく響くように声を張る。
    「なーんて、冗談…」
    ……その一瞬。ふわりと香ったシャンプーと煙草の匂いに、眩むような感覚を覚えた。口元に触れたのは、骨張った硬い感触。遮るように口を塞いだ右手、その向こうに揺れるワインレッドの髪が、睫毛が、息が、随分と近い。それこそ、このまま手を引いて、その唇を奪ってしまえるくらい。
    「……悪いこと言わないから、さっさと諦めな」
    吐息が混じるその声に、滲んでいるのは仁慈だ。そのまま菅野を置いて踵を返し、車に乗り込んだ服部が駐車場を出るまでを茫然と見送るしか出来ないでいた菅野は、深い息を吐いてその場に座り込む。惜しげもなく離れたように見えた指先が、一瞬唇を柔く押したことに菅野は気づいていた。
    「……いや、これで諦めるとか無理でしょ…」
    凪いだ瞳の揺らぎすら捉えることの出来ない距離。あと一歩のところで踏み込めない場所。突き放すには、らしからぬ手緩さ。その全てが、一人置き去りにされた菅野を、いつまでも揺さぶり続けた。



    指に触れた柔い熱の感覚が、こびりついて離れない。
    車を降り、荷物を下ろしてエントランスに向かう足取りは重い。キーをいじる右手は落ち着かないままで、けれど無機質な何かを触っていないと余計に落ち着かない。その理由に、服部は気付いていた。
    掻き回された内側と裏腹に、頭は冴えている。このままこの熱に全てを奪われることがないように、このまま凪いだ水底に佇んでいられるように。冷え始めた夜の空気に己を晒すように、ふと足を止める。
    「……頼むから。早く」
    諦めて。
    それは、僅かに揺らいだ水面から溢れた、懇願だった。



    11/7 カレー/豪壮


    煮えて溶けて消えてくれ

    ことこと、ことこと。
    地獄の釜は、未だ煮えたぎったまま冷めることを知らない。

    「いい香りだ」
    「今日はカレーです。近頃寒くなってきましたから……鍋とも迷ったんですが」
    台所に立つ宮瀬がその声を拾うのは、はっきり言えば珍しいことだった。底が焦げないようお玉を回す手は止めずに、宮瀬は顔だけを声がした方へ傾ける。
    日頃から宮瀬が家事全般を任されているこの屋敷の主人は、そも、あまり不必要に屋敷を彷徨くことをしない。気晴らし程度に屋敷の中や庭を散歩することはあるようだが、厨房に顔を出すなどということは、それこそ数えるほどだ。特にここのところは抱えた案件が立て込んでいるとかで、昼夜ともに忙しくしていたはずである。
    珍しいですね、と言おうとした声は、九条に先手を打たれたことで静かに霧散した。
    「豪がこの屋敷で過ごすようになって、初めて振る舞われた料理もカレーだったな」
    そう語る九条は、宮瀬の方を向いているようで、もっと遠い何かを見つめているようだった。いつもと変わらない声音の中に、存外穏やかな色が滲んでいることに気付かない宮瀬ではない。
    「……よく覚えていますね、そんな昔のことを」
    ありし日に、二人だけで囲った食卓。その日は確か雨が降っていて、近いうちに梅雨が明けるとの予報を見ながら、自分にも何かできることはないかと、ふと思い立ったのだ。当時は数名ほど先代が雇ったハウスキーパーがいたため、宮瀬は彼らに一晩だけ厨房を貸すように頼んだ。彼らは困惑の表情こそ見せたものの、宮瀬が抱える事情に立ち入らない意図もあって、その要望について深く追及はせずに承諾してくれた。
    「カレーは以前から作る機会がありましたから、まずは失敗がないものをと思って作ったんです。懐かしいな」
    小学校の課外授業でカレーを作ってしばらくの間、宮瀬は母が献立にカレーを選ぶその度に、台所に立つ母の手伝いをしていた。じゃがいもの目を取り、皮を剥き、少しだけ大きめに刻んで、水で満たした鍋に放った。母が玉ねぎを刻む際に、くしゃっと歪めるその顔が宮瀬は好きだった。
    テーブルに用意されたカレー皿は、今やふたつ限りではない。存外健啖家が多く集ったこの屋敷で手料理を振る舞うことは、宮瀬がそれなりにやりがいを感じるものの一つだ。九条もよく口にしているが、食卓は賑やかであるほどいい。けれど、その賑やかな声が、笑顔が、平和が、幸福が、この屋敷の中に満たされるたびに。宮瀬はちりちりと胸の奥が灼けるような思いに苛まれて、惨めな気持ちになる。
    「さて。もうすぐできますから、九条さんは先にダイニングに向かってください。すぐにお持ちしますから」
    「ああ、頼む」
    鍋の火を止めて炊飯器の釜を開ければ、少しばかり冷えた空気に湯気が立つのが見える。ちらりと扉の方を見やれば、九条は姿を消していた。
    穏やかだった母との日々。結局全て、この家の記憶に上塗りされてしまうのだ。九条という、呪われた家の。
    冷蔵庫を開けて、端に見えたのはソース。この屋敷でカレーに添えたのは、九条に初めて振舞った一度きりだ。

    貴方が俺の料理を美味しそうに食べる顔が嫌いだ。
    「……なんて、」
    こんなものは、よく煮えたルーの中に、さっさと溶けて見えなくなってしまえばいい。




    11/14 プロポーズ/菅服


    息を止めて、プロポーズは一瞬だけ

    「耀さんの傍にいていい口実が欲しいです」
    その言葉で服部はいつも、自分が夢を見ているのだと気付く。
    きっかけは覚えていないし、そもそも服部には知る由もないことだったように思うが、本当に何でもない夏の暮れに、目の前の後輩から受けたその言葉を、服部はこうして度々夢の中で反芻していた。
    「……その心は」
    「別に、耀さんのこと幸せにしたいだとか、そんな立派なこと考えてるわけじゃないですよ」
    「なら好奇心?」
    「それもありますけど、それだけでもないです」
    「………」
    その先は言わなくていい。その静止は、たとえ夢の中であろうと、意味を成さないことを服部は知っている。知っていても言わずにいられないのは、この先に続く答えを知っているからだ。
    「とっくに気付いてるんでしょ?欲しいんです、耀さんが」


    白んだ空が、朝日を連れてくる。冷え切った夜の空気が和らぐのも待たずに、服部は目を覚ましてしまった。気づけば随分と薄着でいたらしい、隙間から入り込む冷えた空気に僅かに眉を顰めて、隣の体温に気づかれないように掛布から抜け出す。手近にあった部屋着を羽織って息を吐けば、毛布に残したもう一人が、隣人の不在をいいことに掛布を全て巻き込んで丸くなってしまった。半ば呆れながら端に腰掛けて、ベッドサイドに置きっぱなしの携帯を手に取ったところで、服部はふと、先ほどまでの夢のことを思い出した。まだ日の登りきらない空は、思い切りのない妙な暗さで部屋を満たしていた。
    人間関係を築いていく上で、何らかのリスクを抱えるのはいつだってお互い様だ。特に自分達は、いつ何が起きてもおかしくない場所に自ら進んで足を踏み入れていると、服部は自認している。これもお互い様と言えばそれまでだが、服部は平気な顔をして生傷だらけで帰ってくるこの後輩に、何度苦水を飲まされたかわからない。けれど今日、運のいいことに自分達は、当たり前のように息を吸って、当たり前のように隣を望んで、そしてそれを日々叶え続けている。その当たり前を選び続けた先にあるものに、柄にもなく興味が湧いた服部は、一つ大きく伸びをしてから、徐にベッドに乗り上げた。
    まだ夜の静寂を残した部屋に響くのは、穏やかな寝息だけだ。マットレスが微かに軋んで、それでも毛布の塊は微動だにしない。規則的に膨らんでは縮みを繰り返す掛布を少しだけ避ければ、あどけない寝顔が露わになる。覆い被さるようにその寝顔に影を落として、服部は小さく息を吐く。蹲るように丸めた肩を軽く押して、その上から顔を埋めた。
    息がかかるほど顔を近づけても、穏やかな呼吸は崩れないままだったが、菅野が目を覚ますかどうかを、服部は特に問題視していなかった。これは自分が勝手に押し付けようと思っただけのものであり、それに対する返事も期待していなかったからだ。起きないのならそれまでで、かと言って目覚めたところで何が変わるわけでもない。
    こんな一瞬の気の迷いは、夢のせいにでもしてしまおう。
    「夏樹」
    欲しいものなど、最初から決まっている。
    「……お前が俺を望むなら、」
    その呼吸を、俺にちょうだい。


    下ろした髪が、はらはらと落ちて鬱陶しい。一瞬、軽く触れるだけのキスに小さく息を乗せて、服部は顔を上げた。気がつけばいつの間にやら、薄暗かった窓辺からは朝日が差し込んでいる。眩しさに少しだけ目を細めて、水でも飲もうと振り返った、その時。
    「————、」
    強引な力で引き寄せられた先で、噛み付くようなキスを喰らった。力強い割に隙をついて入り込んだ舌先は落ち着いていて、腹立たしいような気持ちになる。しっかり首に回された腕は、服部の漏らす息一つすら、逃してはくれなかった。
    「……首捻った」
    「あれ、すいません。加減はしたつもりだったんですけど」
    ふと緩んだ拘束に、大きく息を吸い込む。振り解けないほどのものではなかったが、中途半端な姿勢で引き寄せられた服部の状態は、相対的に見れば不利という他なかった。これも全くもって腹立たしいことだが、こういう場面ではおとなしく降伏するに限る。一方、菅野は特に詫びる様子もなく、挙げ句の果てには「耀さんがさっさとそっぽ向いちゃうから〜」などとのたまう始末である。頬に当たる髪を掻き分けて、服部は再びベッドから降りようと振り返る。今度こそ、静止もなく服部は床に足をつけた。
    「耀さん」
    ひたり、床から伝わる冷えた温度に震える。服部は一瞬菅野を一瞥して、そのまま髪を纏めながら扉の方へ足を進めた。
    「欲しいなら、いくらでもあげますから」
    そう言って笑った菅野が、もぞもぞと毛布をどかしながら、肌寒さに一瞬肩を震わせる。存外呑気なその様子に気が抜けるような思いになるのも、一度や二度ではない。簡単にゴムで括った髪が、服部の歩みに合わせて小さく揺れた。
    「……。何か飲む?」
    「あ、じゃあ水で!」
    「汲んでくる間に毛布、畳んでおくこと」
    「はーい」
    返事はいらないと、そう決めて押し付けたはずだったが。
    存外いつもと変わらない答えに呆れて、ふと笑みを溢した。けれど、そこにある当たり前が、より確かな形を持って寄り沿っているのに、気付かぬ振りはできなかった。


    おまけ

    服部がコップを両手に部屋に戻れば、片付いているはずだった毛布はふたたび菅野を包み込んでマットレスを覆っていた。ただでさえ貴重な休日だ、与えられた時間を最大限休息に充てるのも時間の使い方として間違ってはいないが、家主を差し置いてセミダブルのベッドを占領するこの後輩の図太さを、愛嬌の一言で片付けてしまうのは些か癪だ。「水、飲むなら起きな」とサイドテーブルにコップを置けば、毛布の塊はのそのそとその半身を出した。
    「はー寒」
    「何か羽織ったら」
    「着ると暑いんですよね〜」
    「あっそ」
    取り合うだけ無駄だと分かってはいても、この下らないやり取りに、少なくとも煩わしさは感じないのだから厄介だ。なみなみ注がれた水を早々に飲み干して、菅野は毛布を捲って服部を手招いた。
    「耀さんも一緒に寝ましょ?」
    「………………」
    「愛しの恋人がこんなに可愛く誘ってるのにその反応はどうなんですか〜」
    はいはいと適当にあしらいつつ、二人で寝るには狭いベッドと捲れた毛布の隙間に体を滑らせる。誘い文句はともかく、二度寝の誘惑には抗えない。菅野も「いらっしゃ〜い」とご機嫌な様子でいるが、そもそもこのベッドは服部のものである。
    掛布に再び包まってしまえば、眠気が蘇るのはあっという間だった。寒気に強張っていた肩の力を緩めて、マットレスに体を沈める。ふと、隣に横たわる菅野が纏っていた、はしゃぐような空気が失せた。
    「この際だから、もう一緒に住んじゃいません?」
    「………は?」
    随分と突拍子もないことを言い出すものだと思ったが、菅野の様子は存外真剣だ。「朝からちゅーで起こされるのもいいなーって思って」と軽いキスが飛んでくるのを受け止めながら、そこに茶化すような雰囲気が微塵も現れないのが何より厄介だと服部は思った。
    互いの家の合鍵を受け渡して暫く経ったが、そもそも数日家にも戻らないような生活を繰り返している身では、その恩恵を十二分に受けることは出来ないのが現状だ。相手の家に寄ると言っても、大抵は家主が戻らないままの部屋の様子を見るためであることが殆どで、酷い時は緊急入院の準備を請け負うこともあった。いくらお互い様と言えど後者のような事態が度重なるのは願い下げだが、少なくとも今日のように二人で過ごすことが出来たのは、それこそ指折り数える程度だった。
    思えば服部の手を引くのはいつだって菅野の方で、その度にこれは自分が決めたことだと言って笑うから、服部も根負けして、菅野に選ばれることを選び続けてここまで来た。永遠とは、一度誓えば済むものではない。人生は選択の連続で、その中で今を生きる己は変わらずお前を選ぶのだと、示し続けることしか出来ない。言葉だけで未来を縛り付けることなど、誰にも出来やしないのだから。
    何が変わるわけでもない。けれど、この選択を積み重ねた先に、確かな保証が欲しいと思った。その返事を聞かずにいたのは、そんなものは何処にもありはしないと知っているからだ。だからこそ服部には、菅野が出したこの答えを曖昧に誤魔化すことは出来なかった。
    「……具体的には」
    「へ?」
    「どうすんの。部屋とか引越しとか」
    きょとんと目を丸くして数秒、自分で言い出したことだろうに何を面食らっているのかと眺めていれば、返事は案外真っ直ぐにこちらに向けられた。
    「耀さんさえいいなら、ここに住みたいです」
    結論が出ているなら話は早い。やるからには考えなければいけないことは山ほどあるが、それはこの微睡から覚めたら考えればいい。冷えないようにと隣の体温を抱き寄せれば、骨張った体は温かかった。
    「ならまず、この窮屈な寝床をどうにかしなきゃだねえ」
    「キングにします?」
    「ゆとりは多いに越したことない」
    頷いて、心地の良い眠りに身を預ける。「後で寝ぼけて覚えてないなんて言わないでくださいよ」なんて笑う声が聞こえて、誰に向かって言ってるんだとこちらも笑って返してやった。




    5/29 I love you./菅服


    深淵をのぞくとき、深淵もまた


    深い海の底で、宝探しに夢中になっている。

    「夏樹。まだ残ってたの」
    「あれ、耀さん。お疲れ様でーす」
    日を跨ぐ手前、夜も更った庁舎の一角に、煌々と灯りがついている。音もなく近づいた足音に、菅野は珍しく驚かなかったから、その主である服部も大人しく手元の差し入れを手渡す。「やった!お腹空いてたんですよね〜」と呑気に喋る声は、静まり返ったオフィスによく響いた。服部は隣のデスクから椅子を借りて、小気味良い勢いで差し入れのパンに齧り付く菅野の様子を眺めることにした。
    「終わりそうなの」
    「正直終わらないと思ってたんですけど、あと少しってところまで来ました」
    「じゃあ終わったら夜食でも奢ったげよう」
    「え!やったー!」
    こういった素直さは、菅野の美徳の一つだ。ふと緩んだ服部の表情は、デスクを照らす光に揺らいで瞬く間に消えて行く。
    ———今のは『素直でよろしい』とかかな
    その揺らぎを盗み見た菅野は、その解をそっと胸に刻んだ。服部が選んだパンは、エネルギー補給に比重を置いた甘めのものばかり。甘いものの後にはしょっぱいものと相場が決まっている。
    「ラーメン行きましょ!久しぶりにとんこつ食べたいな〜」
    「この時間によく食べること」
    「それ耀さんが言うんですか?」
    普段俺以上に食べてるのにと笑えば、食べ盛りだからねえ、と呑気な返事だけがあった。今のは『適当』だ、と思って菅野はまた笑った。


    服部が考えていることを、心の中でこっそり推測する会。主催は自分、企画も自分、実行するのも自分だけ。完全な一人遊びである。
    きっかけなんてものがあったわけではなかったが、強いて挙げるなら、菅野が思っていた以上に、服部の瞳も人間らしく口ほどにものを言うのだと、うっすらと気付いた時からだったかもしれない。
    服部の言葉はきっと、それを飲み込んだ喉の奥、その胸のずっと深くに沈められていくばかりで。だから、沈められたその海の底にこっそり潜って、せめて何かを拾って帰ってきたいと思う。正直なところ、菅野には今でも服部が何を考えているかなんてことは一割も分からないままだったが。その中でも、時折冴えて見えるように、暗闇に光る星を見つけたように、ぱっとわかる瞬間が増えていくのが嬉しくて、気がつけばその視線を追い、思考を追い、見えない言葉を追った。そんな宝探しを、こっそりと、かれこれ一年以上続けている。
    「今日、珍しく静かですね」
    「みんなお家に帰ったんじゃない」
    「あはは、確かにもう一時回ってますし」
    結局、あと少しを繰り返して一時間も経ってしまった。その間服部はずっと菅野の様子を横で見ていたし、菅野は背筋が伸びる思いで業務を乗り切った。それは確かに、眠くならずに済む適度な緊張感だったように思う。
    閑散とした街並みに響く足音は、きちんと二つ聞こえてくる。隣に並ぶその音が心地良くて、その速度を聞いていた。
    「帰る場所があるのはいいことだからねえ」
    すんなりと耳に馴染んだその声から、いつもは浮かんで来ない穏やかな音がしたから。ふっと顔を緩めた服部の横顔を、こっそり盗み見る。それは夜の街に、守られた静寂という名の平穏に対して。
    ———今のは『良かった』だ。
    深い海の底に光るお宝。また一つ拾い上げて、大事にしまっておこうと思って。ふと、一つ分足音が止む。服部がこちらを向いた。
    ———あれ、
    「夏樹」
    薄々感じてはいたが、服部は恐らく菅野の視線に気が付いている。その視線に込めた意味も、どうして暴きたいのかも。知っていて、今まで触れてこなかった筈だったのに。
    「俺が今何考えてるのか。当ててみ」
    狡い人だな、と思った。この人は結局、全部を口に出してはくれない。だからこそ見つけたくて、けれどそれを見つけたところで、服部自身がそれを分けてくれる訳ではない。そう思っていたし、ずっとそうだった。今までは。
    「可愛い後輩からの熱い視線も満更でもない、とか!」
    「その言い回しは微妙」
    「えー、間違ってはないでしょ」
    止まった足音が、再び軽快なリズムを刻む。菅野は服部の言葉をよく噛み締めて、今日は朝まで付き合ってくださいね、と念を押した。こんなものでは済まないくらい、伝えたいことばは山ほどあった。




    7/17 秘密/菅服


    曇天、残煙に嵐

    服部警視正が愛煙家であるというのは、この桜田門に拠点を据える人間ならば誰もが知っていることだ。喫煙所だと悪目立ちが過ぎるのか、屋上を好んで利用しているということも。とりわけ、課の女性陣がその手の話題に敏感だったから、自分もそうした話をよく小耳に挟んでいたというだけの話だ。
    煙草を吸い始めるのに、大それたきっかけは必要ない。これは私の勝手な持論だが、身近な人間がよく吸っているとか、好奇心や自棄、若気の至りなど、喫煙に至る要素は様々だ。私にとっては張り詰めた思考を鎮めるための手段で、それ以上の恩恵を受けたことはないのだが、煙草付き合いというものから得られる人脈や情報といったものを、上手に活用している人間も何人か見たことがある。それは服部警視正も例外で無かったようで、喫煙所内で他課の人間と何かを話し込んでいる様子を見かけた際に、意外に思った記憶があった。そういった付き合いを好む、ないし進んで選ぶ類の人だと思っていなかった、というのが主である。

    「綺麗な顔してるのに、煙草吸うんですね。意外だったな」
    籠った空気に似合わず響いたのは、その服部警視正と班を共にする直属の部下、菅野という男の声だった。ちょうど煙草に火を付けたあたりで喫煙所に立ち入った菅野に、簡単に会釈をする。音もなく閉まった扉と共に、菅野が連れてきた空気はやけに爽やかだった。問題児揃いで有名な服部班、その中でもとりわけ扱いにくい狂犬との噂が絶えない、良くも悪くも有名な男。そんな人間と、曇りガラスのこちら側で灰皿を共に囲っているこの状況がなんとも不思議で、煙と共に余計な息が漏れる。
    「煙草を好むのに顔は関係ないですよ」
    「あー、確かにそれもそうですね。俺もたまに意外って言われますけど、吸うのが当たり前になってる身とするとイマイチピンと来ませんし」
    調子良く続く、当たり障りのない会話。愛想良く返事をしているつもりはないのに、そこから返って来る言葉はどれも緩やかで拾いやすい。こうして話をしていると、問題児という言葉がそれこそピンと来ないような好青年に見えるから、人間は見かけによらないとはこのことだと思う。噂でしか聞いたことのない私でも、そのじゃじゃ馬っぷりを聞けば聞くほど、自分の部下には絶対にしたくないと強く思うばかりの男だ。いつもより慎重に煙を吐いて、薄暗く濁った空を小窓の隙間から覗く。帰りまでに降るかどうかの、重苦しく湿った空気がやけに気になった。
    「松浦さんも案外気が強いんですか?」
    「……?急に何ですか」
    「俺の母親もよく吸ってたから、煙草吸ってる美人はみんな気が強いのかなって」
    そもそも関わる機会がない他部署の人間の名前を把握していたことに驚けばいいのか、唐突な質問に呆れたらいいのかは、正直分からなかった。一人分の煙だけが延々と立ち込める空間で、そのあっけらかんとした様子をしばらく呆然と眺めていた。菅野は思い出したようにポケットを漁って、煙草を一本、ようやく口に咥えた。
    ——え、
    思わず漏れそうになった声を抑えて、慌てて煙草を咥えて口元を隠す。……それはただの職業柄の癖で、それが完全に裏目に出た。火を付ける仕草、手に持つ仕草、吸口を口元に運ぶ仕草、息を吸うタイミングまで。——そっくりじゃないか。休憩室で見かけただけの、あの鮮烈な赤に。
    「天国に一番近い煙草」
    「……へ」
    菅野がふっと息を吐いて、こちらをそっと横目で見る。その口元は笑っていた。
    「普段はあんまり吸わないんですけど。これだけは、大事に味わおうって決めてるんですよね」
    そう言って灰を落とす手付きまで。そこまで考えてから、一体私は何に巻き込まれているんだと笑ってしまいたくなった。これはきっと、所謂もらい事故と言うやつで、そんなもので馬に蹴られたくはないに決まっている。幸い今日は何事もなければ早く上がれる筈だから、家に帰ったらゆっくり休んで、出来る限りのことを忘れよう。雨が降る前に家路につけたら最高だ。
    「あ。これ、ここだけの話ってことで。内緒にしてくださいね」
    「……特に、言う相手もいないですよ。そんな話」
    「あはは、なら安心ですね!」
    爽やかな嵐を連れた男が、吸い殻一本置いて部屋を去るのを見届けてから、私は一人、大きく煙を吸い込んだ。
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