(燭へし)煙る吐息は冬に溶け(ワンドロワンライ)のろのろと動く電車に光忠は苛々と何度も時計に目を落とす。
待ち合わせの時間からもう10分過ぎた。
けれどいまだに電車は駅にたどり着く様子がない。
金曜のクリスマスイブ。
そんな日の夕方に取引先に呼び出されるなんて想像もしていなかった。
空気読めよ。それともクリスマス過激派か?
そんな気持ちを押し殺して「わかりました。お伺いしますね」と答えた自分すごい!きっとこのあといいことしか待ってないはずだと思ったのに!
金曜の夕方、絶対に渋滞しているのはわかっていた。
あーどうしようと思った光忠に、上司の代わりについてきてくれた先輩の加州清光が「予定あるんでしょ?直帰していいよ。車持って帰ってやるから」と言ってくれたときは神かと思った。
どうやらエレベーターの中で何度か時計に目をやっていたのを見られていたらしい。
「そのかわり週明けの掃除やっといて。俺テレワークにするから」
「ありがとうございます!」
「ほーい!じゃあまた来週ね。あ、管理部は月末忙しいからね」
最後の最後にくぎを刺した加州はきっとこのあと光忠が長谷部と会うと知っているからこそ、代わってくれたのだろう。
光忠のためではなく長谷部のため。
ほんと仲いいよな。
同期の二人の関係に時折嫉妬めいた気持ちを抱いてしまう。
そんなわけでスムーズにいけば待ち合わせには間に合うはずだった。
ギリギリだけど。
でも一応連絡を入れておこうと取り出したスマホの充電が切れてていて、いつも鞄に入れてある充電器も見当たらない。
そういえば昨日充電してそのまま置いてきたような気がする。
社用のスマホは充電されているけれど、長谷部の番号は入っていない。
入れて置けばよかったか。誰かに番号を聞くか。加州さんは運転中だしな。
でも社用携帯から電話したら怒られるのは目に見えている。
どうにかギリギリ間に合うか、遅れても1分2分だろうから…そう考えた光忠の心を読んだかのように、止まるはずのない場所で突然電車はガタンと止まった。
「先行する列車の車両点検をしております」
何かに押されたドミノがばたばたと倒れていくように、悪いことが次々と襲い掛かってくる。
どうして!初めて長谷部くんと過ごすクリスマスなのに!!!
先輩である長谷部と初めて身体をつないだのは夏のはじまりのころ、そしてじわじわと距離をつめ夏の終わり、秋の色を纏い始めた海でようやくその手を捕まえた。
それから週末ともなれば家に連れ込み、その疲れ切った心と体にたっぷりと栄養と愛を注ぎ込むのが常となった。
「いつか終わるのだろう」という顔をして、行為が終わるとベランダで纏う匂いを消そうとばかりに煙草に火をつけていた長谷部に刷りこむように「僕は離れないよ」「最後まで君の隣にいるから」と言い続け、秋が終わり冬が来る頃には長谷部もおとなしく光忠の腕の中で眠りにつくようになった。
クリスマスだからって特別なことをするのは、まあなんというかあまり格好にいいものではないのかもしれないけれど、それでも「僕は君のもの、君も僕のものになって」というシルシを贈るにはまたとないチャンスだから。
だから。
「家で待っていてっていえばよかったかな」
夕方の打ち合わせだ。伸びれば遅れるのはわかっていたはずなのに。
それならば自宅に迎えにいけばよかったのだ。
それよりも家の鍵をもらってくれたら……
すこしづつ心を緩めてはきているけれど、それでも頑なに合鍵を受け取ろうとしない長谷部とはいつも光忠が暮らす最寄り駅で待ち合わせしている。
社内恋愛、それも同性同士。
別に隠すつもりもないけれど、人目につくところを嫌がる長谷部はいつも駅横にある小さな公園で待っている。
こんな寒い夜にずっと待っていると思うと、気持ちばかりが焦る。
ゆるゆると動いては止まる電車がようやく最寄り駅にたどり着い時には、待ち合わせ時間から30分近く経過していた。
扉から飛び出すようにホームに降りると、階段を二段飛ばしで駆け上がる。
夕方の込み合う人混みをすみません!と声を出しながらすり抜け、改札から待ち合わせの人であふれるロータリーへと足を踏み出すと、吐く息が白く染まる。
こんな寒いのに待っていてくれるだろうか。
不安な気持ちがむくりと顔をだすけれど、あの長谷部はきっと呆れて帰るようなことはしないはずだ。
すうと冷たい冬の空気を吸い込むと、光忠は公園へと向かう。
12月に入ってこの小さな公園も、気持ちばかりだけれど木々にイルミネーションが飾られた。
青や白に光る光を通るひとたちが幸せな表情で見上げ、何かを囁きあっている。
こんななか長谷部をひとりで待たせてしまった。
春に長谷部の身の上に起こったできごと、婚約破棄は相手のことをちゃんと好きではなかったとはいえ長谷部のなかに孤独と遠征的な気持ちを植えつけてしまった。
丁寧にその気持ちをほぐし、言い聞かせるように大丈夫だと伝えていても、やはりすぐには忘れられないだろう。
なのに。
入り口を入るといつもと同じ木の下にその姿はあった。
寒さから鼻が真っ赤にして何度も周りを見回し、手にしたスマホに何度も目を落としていたのに、光忠のほうにチラと目をやった瞬間に「俺は待ってないぞ」という表情をはりつけてポケットから文庫本を取り出した。
こんな暗い場所で読めるはずなどないし、そもそも巻かれた書店のカバーはさかさまだ。
仕事で遅れてきた光忠に気をつかわせたくない、それでいいのだと言わんばかりの姿に涙が出そうになる。
このひとが愛おしくてたまらない。
走ってきたことにも気づいていたのだろう。
「ごめんね」
手を合わせる光忠に「打ち合わせはちゃんと終えてきたんだろうな」と言う長谷部の手を握る。
「こら」
「誰も見てないよ」
「走ってきたんだろう、危ないからやめろ。急がなくてもよかったんだ」
そんな優しい言葉とともに白く吐きだされた息は、クリスマスのざわめく空気へと溶けていった。
その息にわずかに煙草の香りがした。
不安で落ち着かずに吸ったのだろう。
光忠の気持ちに寄り添うほどに長谷部が煙草に手を伸ばす本数は減り、最近はすっかりやめていたのに。
「行こうか」
握った手をそのままにぐいぐいと引っ張り、家への道を歩く。
クリスマスの喧騒が二人をつつみ、光るイルミネーションが長谷部の横顔を照らす。
そうだまだクリスマスイブはこれからじゃないか!
気を取り直した光忠はふと思い出した。
「プレゼント…」
直帰を許してくれた加州が代わりに乗って帰った車。
そのなかにプレゼントを載せたままだった。
「うそ、どうしよう」
「どうした?」
「クリスマスプレゼント、車に乗せたままだ」
「なんだ?指輪でもくれるつもりだったのか?」
「え?なんでわかったの?」
その言葉に長谷部はみるみる顔を赤くして、巻いていたマフラーに顔を隠さんとばかりに埋めた。
「うそだろ」
「うそじゃないよ! 」
はくはくと何か言いたげに動かされた口が閉じ、むすりとした顔になる。
ああ、いやだったろうか。
そう思う光忠の頬に冷たい手が触れる。
「プレゼントは、お前がいい」
「長谷部くん?」
「俺のプレゼントはこれだ」
自分を指さす手ごと長谷部を抱きしめた。
「もう全部お前のものだよ」
「長谷部くん」
言葉が涙で滲み、うまく続けられない光忠の耳にに長谷部の「メリークリスマス」という言葉が届く。
「メリークリスマス。最高のプレゼントだよ」
これまでの人生で一番の。