(燭へし)いつもどおり「お呼びかな?」
「主、燭台切です」
「忙しいのにごめんなさいね」
「ううん。ついでにお茶をもってきたから休憩して」
刀が増えたけれどなんとなく八つ時になると厨に軽く摘まめるものを用意してしまう。
審神者が買ってきた駄菓子のときもあるし、野菜を使ったクッキーだったり、果物を煮たものだったり。
遠征から戻ってきた足でやってきた刀には汗を流しておいでと声をかけ、畑の収穫物を持ってきた刀の口に放り込み、御飯を待ちきれない刀に食べ過ぎないようにと釘をさしていた燭台切に「審神者が呼んでるって」と声をかけたのは今日演練の部隊長を務めていた加州清光だった。
「主が?」
「うん。なんか聞きたいことがあるって。急がないって言ってたけど」
「ありがとう。じゃあおやつを持って行ってみるよ。加州君もよかったら食べて」
「着替えたら貰う」
そんなやり取りをして、皆に振舞ったのとは別の手で軽くつまめるチョコレートを用意したのは執務室にいるはずの刀の顔が浮かんだからだ。
甘いものが好きだけど、忙しいときはフォークを使うのも面倒だという顔をする。
朝からずっと執務室に詰めているのだから忙しいはずだ。たぶん。
こちらの数字ですがという声が聞こえる執務室の前で足が止まる。
外に聞こえたら困る仕事であれば扉を閉めるか、そういう術式が使われているはずで声が漏れるということはさほど重要な話ではないはずだ。
それはわかっているのにわずかに躊躇している自分がいる。
慣れた場所なのにわずかに緊張しているようで、どんな顔をして入ればいいんだろうと足が踏み出せない。
「誰かいるのか」
気配を感じたらしい長谷部の声になんでもない顔を作ると燭台切は口を開いた。
「お呼びかな?」
「主、燭台切です」
長谷部が山姥切長義と話す審神者のほうへと顔を向け、告げる声色はいつもどおりだ。
「忙しいのにごめんなさいね」
審神者が燭台切へと顔を向けると、何もなかったかのように端末へと目を向ける。
もう燭台切がそこにいることすら忘れたかのように。
いつも通りのへし切長谷部がそこにいた。
凛と伸びた背、とんとんと額をたたく指も、顔をわずかに隠す髪も、わずかに伏せられたまつ毛が落とす影もなにもかも。
微塵も昨夜の気配を残していない、昨日までと同じ長谷部だった。
汗で額に張り付いた髪も、燭台切の背に何度も爪を立てた指も、弓のように反らされた背も幻だったかのように。
「燭台切?」
「ああ、えっと食品庫を移動する件だっけ」
「うん、それでね」
「燭台切、それもらおうか?」
いつも通り振舞おうとしたのに、どうやらお茶と菓子を乗せた盆を手にしたままで話を始めていた燭台切に審神者がわずかに首を傾げ、それに気づいたらしい山姥切長義が手を伸ばした。
いつも通りでいいのだ。
いつも通りでいたほうがいい。
わかっているのに。
自分だけが浮かれていて、自分だけが些細なことに心を乱されている。
昨夜燭台切と、長谷部は初めて閨を共にした。
はやくに顕現した長谷部と、彼が一線を退くころにようやく顕現した燭台切がいわゆる恋刀という間柄になったのは数か月前のことだ。
顕現以来第二部隊と執務室の仕事を引き受けてきた長谷部は、あまり所縁の刀がいないこともあって初めて教育係を引き受けたのが燭台切だった。
出陣の頻度が減って余裕があったことと、ちょうど伊達の刀たちが長期遠征に出ていて燭台切に近しい刀がほとんど本丸にいなかったこと、そして燭台切の顕現に立ち会ったのが長谷部だったといういくつかの偶然に導かれた縁だった。
同じ部屋で寝起きし、出陣はもちろん内番も、ひとの身の過ごし方も全部長谷部とともに初めてのことを知っていった燭台切が長谷部に思慕の気持ちを抱くにはそう時間がかからなかった。
初めてそれを告げたとき長谷部は「それはヒヨコが初めてみたものを親と思うのと同じだろう」と長谷部には言われたけれど、親に情欲を感じる雛はいないだろう。
「あまり雁字搦めにしてやるな」とあの大倶利伽羅に言われるほどに、長谷部のそばに絶えず居座りこれは恋慕であり、そして欲を伴ったものなのだと言葉を尽くした。長谷部が首を縦に振る頃には、もう燭台切が長谷部のことを「そう」思っていることを知らない刀はいなかったと思う。
「おまえさん、わざとだろう」とあの老獪にして、表に現れる以上に底知れぬ鶴丸にまで、長谷部も怖い刀に捕まったものだと言われてしまったほどに。
ようやく手に入れた長谷部に丁寧に、ゆっくりと時間をかけて触れて、そんな時間をかさねてようやく……だったのだ。
丁寧に身体を拓き、その美しい身体に暴走しそうになる自分を抑えに抑えてようやく繋がったときには目頭が熱くなった。ちょっとだけ泣いた。
もちろん長谷部はそれどころじゃなかっただろうから、気づかれてはいないだろうけれど。
無理をさせないように何度も何度も抱きたい気持ちを押さえ込んで、丁寧に身体を拭いて共に横になったのはそう遅い時間ではなかった。
夜中に目を覚ました時、隣で穏やかに寝息を立てる長谷部の頬を何度も指で触れ、もう僕のものだと幸せな気持ちになったのに、けれど朝起きたらそこに長谷部の姿はなかったのだ。
共に朝を迎える喜びだとか、身体を慮って今日の執務を変わろうかという会話だとか考えていたのは自分だけだったのか。
ちゃんと合意のうえで行われ、初めてゆえの痛みはあっただろうけれど、できるだけ無理をさせないようにしたはずだ。
朝早くから部屋を抜け出し、そのまま執務室に籠られるようなことはなにひとつなかったと思っているのは自分だけなのだろうか。
ずっと顔を見に行きたいと思いながらも、怖くてこの時間まで一度も長谷部の顔を見ないままだった。
けれどそこにいたのはいつも通り、昨日までと同じ長谷部の姿だった。
彼にとっては小さな染みほどの余韻も残らないことだったのか。
漏れそうなため息を押し込むと唇をわずかにあげる。
いつも通りの笑顔になっているだろうか。
「先に配っちゃうね」
それぞれの机に茶と菓子を配り、長谷部の隣に立つけれど長谷部は端末から目をあげようともしない。
嫌われてしまったのかな。
牛乳たっぷりのカフェオレ、そしてチョコレートが載った小さな皿を置いた燭台切の腕に、書類を手にしようとした長谷部の指が触れた。
カタンと揺れた皿が音を立て、その音に弾かれたように立った長谷部がこちらに目を向ける。
燭台切を映した瞳がふるりと揺れ、触れた指先からまるで化学反応を起こしたかのように長谷部の身体が赤く染まる。
指から首、頬、耳の先まで真っ赤に色づいた。
「し、りょ、が」
「え?」
「しりょう、がないんで」
「長谷部くん?」
「資料室に行ってきます」
燭台切の隣をすり抜ける長谷部の目元にはわずかな隈、走るように部屋を出る歩き方にどこか違和感がある。
クソっと小さな声が外から聞こえた気がして「長谷部くん」と追って廊下に出た燭台切の目に映ったのは、さらに桜色濃くした顔でこちらを見ると「ばか」と口を動かす長谷部の姿だった。
腰をわずかに押さえ、もう一度振り向き睨む瞳に力はなくて。
その表情はどうみても……
長谷部の熱が移ったかのように顔がじわじわと熱を持ち、しばらく執務室には戻れないじゃないかと光忠は顔を抑えてしゃがみこんだ。
その夜に「は? いつも通りだと? お前の目は節穴か!」と身体中に散った執着の痕ともに怒られるのだけれど。