(治角名)anniversary「今日何日だったっけ」
ロッカーを閉めながら首を傾げるチームメイトに「一〇日じゃなかったっけ。何かあんの?」と角名は壁に貼られたカレンダーに目をやりながら答える。
「今月結婚記念日があるんだよね」
それで? という顔をする角名に「忘れたら怖いんだよ」と彼は肩を竦め、明日は花でも買って帰んないとなあとひとりごちた。
一一月一〇日。記念日。
何かがひっかかる。
「なに? 誕生日でも忘れてたか?」
思考の沼に落ちた角名に気づいたチームメイトの言葉に首を横に振る。
恋人の誕生日は一ヶ月前で、その片割れも双子だから同じ日。
北さん……北さんって誕生日あったっけ。なんかお祝いしたな。
「あれじゃないの付き合った記念日とか、初めてのチューとか」
どこから話を聞いていたのか「ねえねえ」と首に巻きついてくる古森の言葉に、ぶわりと記憶の扉が開く。
誰もいない教室、傾いた陽が机に影を落として、急に冬の気配を増した空気が窓を冷やす。
すなと呼ぶ掠れた声、重なった手の熱、そして……
「なんで……」
「え、図星?」
「違うっ、帰る。おつかれ」
逃げるようにロッカーを飛び出した角名は廊下を走り、表に出ると顔を手で覆う。
「なんで思いだすかな」
治とつきあうよりもずっと前、掠めるように触れた唇の熱。
あれは一一月一〇日だった。
高校に入ったころ、付き合った女の子がやたらと記念日、記念日と言う子だった。
「今日は初めて一緒に帰った記念日だね」
「え?」
なんだそれ。そんなの記念日になるの?
角名の疑問をよそに初めて手を繋いだ日、一緒に写真を撮った日、そして初めてのキスをした日も「今日は」と嬉し気に彼女は口にし、そしてたまに記念日を書いた手帳を見せながら「来年忘れないでね」と言ったものだった。
けれどレギュラーを目の前にして練習に熱が入る角名に応援していると言いながららも、手帳に空白が続く日々は彼女には耐えがたかったのだろう。
結局記念日は一度も祝うことなく、一年も経たずに別れることになった。
別れを告げられた日、角名は別れる日は記念日にはならないんだなとぼんやり思いながら、気持ちの入らないごめんねという言葉を口にしたのを覚えている。
短い交際ではあったけれど彼女の「今日は~日、~の記念日だよ」という言葉を何度も聞かされたせいか、角名は記録したり、祝ったりすることはないけれど、なんとなくこの日はレギュラーになったときも、この日は治が好きだと言ってくれたときも「今日は~日だな」と日にちを確認する癖がついた。
そのうち何の日だったのかは忘れてしまったけれど、カレンダーを見るといくつか引っかかる日があった。
「治は覚えてないよね。きっと」
あれは高校二年の秋。
クラスが一緒になったことで急に治と距離が近づいた。
一年の頃はチームメイトとはいえほとんどしゃべらない治は何を考えているのかわからなくて、裂けていたわけじゃないけれど距離があったと思う。
クラスが一緒になったと目にしたときも面倒だなと思ったのが正直なところ。
なのに治はそんな角名に気づいてか気づかずか「はよ教室いこ」と当たり前のように角名の腕をひいて新しい教室の扉をくぐった。
身長のせいで席替えをしても角名と治はほとんど一番後ろに固められ、共に過ごす時間が増えてあれやこれやと話すうちに、気が付くと部活でもニコイチ扱いされるほどに距離が近くなっていた。
隣にいるのが心地いい。
すな~と呼ぶのんびりとした声が落ち着く。
ごはんの時間が誰より楽しみなのに、ちゃんと食えと餌付けのように口に食事を放り込む顔が優しい。
ひとつひとつ治を知るほどに友情が恋情へとパチンパチンとオセロみたいに角名のなかで色を変えていく。
そしてあの日がきっと恋情が友情の数を上回った日だったのだと思う。
その日は夕方の練習が中止になって、朝練がいつもより早い時間からあって角名も何度も欠伸をかみ殺し、後ろの席では治がべたりと机につっぷしていた。
最後の授業はたしか古典か何かで、一週間ほど代理で授業をしていた若い教師が治の様子に気づいて何度も苦々しい顔を向けていた。
その教師は授業が終わる最後のあたりで治を指名し、寝起きでぼんやりしている治を一方的に責めたてると「今日授業でやったところ全文と現代語訳をノートに書き写して提出するように。提出しない場合はテストで何点取ろうと赤点だ」と言い放って逃げるように教室から出ていった。
言い返されるのも怖いけれど、なにかペナルティを与えずにはいられなかったのか。
「なにあれ」
「俺らのことが嫌いなんやろ。侑もなんややられた言うとったわ」
「私怨じゃん」
「まあまあおるねん」
いろんな意味で目立つ宮ンズを苦手というか嫌っている人間はまあまあいるのは確かだけれど。
「練習なくてよかったわ」
「そうだね。また北さんに怒られるとこだったね」
「せやなあ」
んーと伸びをすると「帰りに肉まん食べて帰ろ」と言うと治は教科書を開いた。
周囲が「災難やったな」「来週には谷セン戻ってくるし。辛抱やで」「飴ちゃんあげるわ」とひとりまたひとりと帰り、教室にはいつのまにか面倒くさいなと言いながら汚い字をノートに綴る治とスマホをいじる角名だけになった。
「北さんもあくびとかしてんのかな」
「せえへんやろ」
「だよね」
「あ、そこ字違う」
「どこ?」
「ここのほらこれ」
乗り出すようにしてノートを指で叩く角名の目の前に、治の顔があった。
ローズグレイの大きな瞳に、目を見開いた角名の姿が映る。
「……すな」
ノートに置いた手に体温の高い手が重なり、なにと問いかける声はそのまま治の唇に飲みこまれた。
思っているよりも柔らかいんだ。
どうしてキスをしてるのと思うよりも先に思ったのはそれだった。
ちゅっと重なった唇は一度離され、もういちど「すな」と呼ばれまた答える間もなく塞がれる。
重ねられた手がぎゅっと角名の手を握った。
「サム~まだおんの」
その声に弾かれたように立ち上がった角名は鞄を掴むと「帰る」と教室から逃げ出した。
「え? 角名?」
「先帰るんか」
侑と銀の声に答えず扉に向かう角名の目に黒板に書かれた日付が目に入る。
一一月一〇日。初めて治とキスした日と角名の心に日付が小さく刻まれた。
家に帰ってもまだ手に残る治の熱が消えず、触れた唇の柔らかさを思い出しては呻き、結局あれほど眠かった寝つけない夜を過ごす羽目になった。
けれど翌日いつもと同じ表情で「はよ」という治に気が抜けた角名は「おはよ」と何もなかった顔をした。
治のなかで何がどうなったのかわからないけれど春になって学年がひとつあがる頃に「なあ角名、好きなんやけど」と治が口にして、ふたりの関係に恋人という名前がついたあともずっとあの日どうしてキスをしたのかは聞かないままだった。
「なかったことになってるのかな」
治にとっては目の前にあったから触れてみたくらいのことだったのかもしれない。
けれど角名にとっては忘れられない最初のキスだった。
「日づけまで覚えてるって、ばっかみたい」
家に帰ったら「ばーか」って電話でもしてやろう、冬の気配がする風にさむっとつぶやくと角名は足を踏み出した。
「どうしたの?」
家の鍵を開くと部屋から明かりが漏れ、美味しそうな匂いに誘われ腹が鳴る。
まさかと部屋に入ると「おかえり。寒かったやろ」と笑う恋人がいた。
両手を広げる胸にぽすんと顔を埋めると「うわ冷たっ」とあの頃よりもずっと厚みを増した身体が角名を包みこむ。
「ほっぺたも冷たなっとるやん」
すりすりと頬をすりつけた治の唇が「すな」と声を漏らし、そして角名のそれと重ねられる。
かさりと乾いた唇が一度離れ、そしてもういちど「すな」と呼ぶ。
もう何度触れたか数えきれないほどキスをしてきたのに、その唇の柔らかさがあの頃の気持ちを呼び起こすのか角名の目がじわりと熱を持つ。
「どう、して」
「あの日も真ん丸の目えしとったな」
「!!」
「可愛ええなあって思ったら止まらんかってん」
「……覚えてたんだ」
「忘れへんよ。角名と初めてちゅーした日やもんん」
「嘘……」
なんで嘘やねんと笑いながらぎゅうと抱きしめると「初めてエッチした日も覚えとるよ」とささやく声に、ばーかと答えた声は少し震えていた。
初めてエッチした日が微妙に違って、「どういうこと?」「失敗した日はノーカンやろ」「さきっちょだけ入ったじゃん」「言わんとって」となるのはまた別の話。