子守歌は歌えない 金丹があったころは風邪なんてひいたことがなかった。でも今では随分身体が弱くなって、ちょっとしたことで熱を出したりもする。ふつうの人間というのは厄介なものだ。
この間の大雪の中、散々子供たちと騒いでいた俺はひとり風邪をひいて寝込んでいる。思追も景儀もぴんぴんとしているのに俺だけだ。霊力がないって不便だな。
藍湛は傍で看病をすると言ったが、そんなことで仙督様の業務を妨害するわけにはいかない。さっさと行け!と背中を押して、静室の中で独りうとうとしている。
しんしんと雪がふる雲深不知処に音はなく、時折門弟たちの修練の声がしたり、木に積もった雪がどさりと落ちる音が聞えたりするくらいだ。
ああ、そういえば昔は熱を出すこともあった。まだ結丹する前だ。江澄と雨の日にふざけまわって二人して風邪をひいて寝込んだことがあったっけ。そのときは師姉が看病してくれたんだっけな。風邪のときだけ作ってくれる、卵粥が美味かったな……。
そんな風に一日中うとうとしていたものだから。夜になって俺はすっかり目が冴えてしまった。とはいえ頭は痛いしのども痛い。眠ったほうが楽なことは知っている。
そうするうちに藍湛が戻ってきて、俺は半身を起こして彼を迎えた。
「おかえりー。今日はちょっと早いな」
「君が心配で、早めに戻ってきた」
「はははっ、過保護だなー。思追たちが面倒見てくれたし大丈夫なのに」
寝台の隣に腰かける藍湛を見ながら、すこしくすぐったいような気持ちになる。藍湛はそっと俺の額に手を当てて聞いた。
「具合はどうだ?」
「ん-、頭がちょっと痛いかな。熱はだいぶ下がったみたいだ」
「そうか。じゃあ、横になりなさい」
藍湛が気遣わしげに言った。素直に頷く。
「……ん」
そして身体を横たえようとすると……藍湛が無言で自分の膝を叩いた。
「……え?」
これはあれか。膝枕ってやつなのか。ちょっと恥ずかしくないか?
「早く」
なんでもない事のように言われ、恥ずかしいとか思ってる自分がかえって恥ずかしくなって、そっとその腿の上に頭を載せる。鍛え抜かれた腿に無駄な肉はなく、正直固い。しっくりくる頭の置き位置を探していると、そっと頭を撫でられる。そしてほんわりと頭が暖かくなった。霊力を注いでくれているのだろう。
「目を閉じて。眠っても構わない」
囁くように言うその声は低く心地よく響く。ずきずきと痛んでいた頭には優しい温もりが感じられ、痛みが和らいでいく。
「うん。ありがとう……」
幸せを感じながら目を閉じる。けれど眠りは訪れてくれない。
「……昼間寝すぎたから、眠くないよ。なあ藍湛、子守歌、歌って」
「…………」
いつも「うん」と言ってくれるのに、藍湛は押し黙った。困ってる?
「……前に玄武洞でさ。歌ってくれたじゃん? 忘羨。あの時すっげえ身体痛かったけど、おかげ様で眠れたよ。なあなあ」
ちょっとからかいたくなって、目を開けて藍湛を見つめる。下から見てもかっこいいな。
「……あのときは……鼻歌だった」
「……あ」
って真面目か! 別に子守歌って言ったって歌じゃなくてもいいんだよ。曲でいいんだってば。
「いや曲でいいよ? あの時みたいに鼻歌で歌ってよ。お前の声、すげー好きなんだ」
藍湛は俺に甘い。これくらいのわがままは聞いてくれるはずだ。しかし藍湛は小首をかしげ、なにか考え込んでいるようだ。
「……君のうちの子守歌は、どんなだった?」
「うち? ええと……」
それを聞いてどうするんだ、まさか学んで歌ってくれようっていうのか? 思わず笑ってしまう。だけど子守歌って言われても。
「……江家に行く前のことは、あまり覚えてないな。母上がきっと歌ってくれてたんだろうけど。江家では、子守歌を歌ってもらう前に寝落ちてた」
なるべく重くならないように言う。確かに毎日くたくたになるまで動いていた少年時代は、布団に入るなり眠ってしまっていた。けれど俺は真夜中にうなされて起きることがあって……。その時はなかなか寝付けず、それに気づいた師姉が頭を撫でてくれた。そう、今みたいに。そして子守歌も歌ってくれた。
「……いや。あったな、子守歌。だけどあまり覚えてない。お前のところは? 藍先生が歌ってくれた? それとも沢蕪君?」
師姉のことは……思い出すと泣いてしまいそうだ。なので話を切り替えた。とはいえ藍先生の子守歌なんて想像もつかない。沢蕪君は裂氷で見事な演奏を聞かせてくれそうだ。癒し系の曲ならぜったい眠れる自信がある。
「……いや。うちには子守歌はない。寝られるまでひたすら精神を統一する」
「………だろうな。子どもには辛い」
さすが雲深不知処だ。もしかしたら家規の読み聞かせはあるのかもしれない。それも絶対眠れるな。
「だから……。他の家には子守歌というものがあると聞いたとき、すこし、うらやましく思った」
ぼそりと呟く。そうだ、藍湛だって最初からこうだったわけではないだろう。子供らしい感想に、胸がほわりと暖かくなる。
「そうかー。じゃ、俺が歌ってやろうか? 子守歌」
「ん? 君も子守歌は知らないんだろう?」
「うん。でもさあ、子守歌って、きっと決まりはないんだよ。何の歌でもいい、好きな人が優しい歌を歌ってくれれば。歌詞なんてなくてもいいし、でたらめでもいい。だから俺はお前の忘羨が聞きたいよ」
「………本当は、歌詞もある」
「え?」
思わず見上げた。玄武洞では俺はもう意識を保つのが精いっぱいで、何やら歌っているのは分かっていたけど、鼻歌だと思っていた。
藍湛はふいと顔をそむけた。その耳たぶは紅くなっている。照れている、可愛いな。
思わず笑うと、俺の目にひやりと冷たいきれいな手が置かれた。
「……目を閉じて。眠りなさい」
そして……優しい声が旋律を奏で始めた。藍湛が作った2人の曲を。
……ああ、しかも歌詞がちゃんとある。すごいなお前。そんなこと考えてたのか。
くすぐったくて嬉しくて、幸せすぎて泣きそうだ。
今度は俺が子守歌を歌ってやるよ。ちゃんと歌詞も作っておく。でも笑っちゃって寝るどころの話じゃなくなっちゃうかもな。
優しい歌声と、頭に触れる暖かな手の感触。こんな穏やかな幸せが手に入るなんて思いもしなかった。
その歌声をもっと聞いていたいのに、眠りの世界にいやおうなく引き込まれていく。
――今度は起きているときに聞かせてもらおう、そう思いながら、俺は意識を手放した。