夜の海月真夜中、兄さんの呻き声で目が覚めた。
「……ッう、…ギぃ…っ…」
時々このひとは、ぼくたちとはちがう世界の夢をみるらしい。
細く丸い少女の肩を揺り動かし、起こしてやる。
「…ッあ、……て、テオ…?」
「うん、うなされてたよ、兄さん」
「……っはぁ、はー………、そう、ですね、そうです、ゴッホは、ゴッホは…夢を、見ていました、夢、だった…」
まだ少し震えている両手を包み込んで、あやすように揺らしてやる。
「そんなに夢見が悪いなら、お医者様に薬でも出してもらったほうがいいんじゃない?」
ふぁ、と欠伸を噛み殺しながら問いかける。中途半端に起こされたせいで、ぼくはまだ少し眠い。
震える声が怖々と呟く。
「…テオ、テオは、海と空は、似ていると思いますか?」
「ええ?どういう意味?わかんないけど…似てないんじゃない?海には果てがあるけど、空にはないでしょ、多分」
「………そう、そう、ですね、そうです!全然…ぜんぜん似ていない、大丈夫、大丈夫、それならきっと、ゴッホには限りがあるから…!」
ああ、またこうなるのか。
晩年のあんたも、ずっと、ぼくたちには見えない世界を見ていた。
ぼくたちとちがう色彩の世界で、囚われたようにモチーフを探し続けていた。
今目の前にいるあんた、身体を神霊に喰われた兄さんの姿は、先程までの小柄な普通の少女から、白い花の化身のような人間離れしたかたちに変わってしまっている。
不安定な時の兄さんは、姿形がうまく定まらない事がある。
ぼくはぼくの役割をこなす為に、メンテナンスのためのパスワードを打ち込む。
「…大丈夫、兄さんはぼくの知っている兄さん、画家ヴァン・ゴッホのままだよ」
カヒュカヒュと浅い呼吸で瞳を震えさせていた兄さんは、それでようやく、少しだけ落ち着いた様子になった。
スゥ、と取り憑いたものが剥がれるように兄さんの姿がひとの少女のかたちに戻る。
「……ああ、そう、ですよね。…そう、よかった…」
「…ゴッホは、テオの知っているゴッホのまま…」
「そうだよ、ほら、落ち着いたなら寝直そう?明日にさわるよ」
大人用のベッドはこどもの体格のぼくたち2人が寝転がってもまだ余裕がある。
向かい合って手を繋いだまま、呼吸の仕方を教えるように吐息のリズムを合わせてやる。
"本当につらいのは、ぼくたちの心が通じ合えないことだ"
いつか手紙に書いた一節が、振り子のようにぼくの頭の中に押し寄せては離れていく。
ぼくに兄さんが見ている世界は見えない。
兄さんが見る美しい色彩も、恐ろしい邪神の謀略も、ただの商人で常人の、英霊にすらなれない記憶の残り滓のぼくには、きっとずっと理解できない。
(…ぼくは、兄さんの何を知っている?)
浮かんだ欺瞞を白い絵の具で塗りつぶすように、ぼくたちは、まどろみとともにシーツの波にたゆたっていく。