責任とってよ ぐうう~と、お腹が鳴った。
「あはは、すごい音。お腹すいたね〜、菊」
フェリシアーノ君が伸びをしながら、私の隣を歩く。
世界会議のお昼休憩。馴染みのない異国の街並みに、快晴の青空が眩しい。
「うう、流石に聞こえましたよね、お恥ずかしい……」
無駄な足搔きではあるが、腹の虫を諫めようとお腹をさする。
「隣でバーガー食べられるの拷問でしかないんですよね。会議中もずっとお腹鳴ってました」
食べかすが飛んでくるのはご勘弁願いたいが、あまりに美味しそうに食べるものだから。私だってジャンクなものは嫌いではないのだ。あの量を食べられるかと言ったら、そうではないけれど。
「ヴェー確かに、あんな近くで見せつけられたらお腹減っちゃうよね……」
心底同情したようにフェリシアーノ君が眉を下げる。
「でもさ」
そこでフェリシアーノ君はパッと表情を明るくし、手振りを激しくして言った。
「俺は仕事なんかの片手間じゃなく、ちゃんと時間をとって食事を楽しみたいな! 今日のお昼もね、菊とルートと一緒に食べられるの、すっごくすっごく楽しみにしてたんだよー!」
「ふぇ、フェリシアーノ君……!」
会議で摩耗していた精神に、フェリシアーノ君の素直な好意がクリティカルヒットした。
「もちろん私も楽しみにしてましたとも!」
その思いに応えたくて、少し力みながらも言葉を返す。フェリシアーノ君はさらに笑みを増し、花を飛ばした。
彼は私が感情表現を上手くできないことを知っているので、私の伝えようという意思を受け取ると嬉しそうにする。それが、彼の豊かな表現力に全く追いついていないにしても。そうしてくれるようになったのは、いつからだっただろうか。出会った頃は、もっと表現することを求められていた気がするのに。いつの間にか気の置けない関係になっていた。それどころか、かけがえのない友人になっていた。私たちの生きる世の中は色々、……ええ本当に色々あるけれど、こうした関係性を築けたことを思うと、国を開いて良かったと心から言える。この場にいないもう一人の友人にも、今すぐに会いたくてたまらなくなった。一見ごつく、怒っているように捉えられがちで、実はとても心優しく、可愛らしい彼に。
「ルートさん、早く来られるといいですねえ」
フェリシアーノ君は、たちまち自分が仕事を言いつけられたようにしゅんとなった。
「ね~、休み時間も仕事してたら休み時間じゃないよねー」
ルートさんは上司に確認する要件があるとのことで、会議場に残られていた。彼のことだから上手く休息は取れているだろうが、このところ忙しくされているようで心配だ。また祈祷でも行って差し上げようか。
「あっ」
そのとき、フェリシアーノ君がなにかを見留め、急に駆けだした。
「フェリシアーノ君!?」
慌ててその背を追う。ルートさんがいらっしゃったのか、という期待はしておくが、きっと違う。
「ネコだ~!」
フェリシアーノ君はさっそくしゃがみこんでいた。私は、まあそんな気はしてました、と苦笑いして歩をゆるめる。
先に二人で食事処を見繕っておこうかと考えていたが、探索するのはルートさんが来てからでもいいだろう、と考え直す。ここでじゃれていれば、ルートさんが来るまでの時間は一瞬で過ぎるはずだ。三人であーだこーだ言いながらお店を決めるのも、会議の合間における楽しみのひとつなのだから。そんなことを思いつつフェリシアーノ君を追って、その隣にしゃがみ込んだ。
「急においていかないでくださいっ」
「だって、ベッラを見たら血がうずいちゃったんだもん~」
フェリシアーノ君はそう言いながら、また血がうずいてしまったのか肉球をぷにぷにと連打し、案の定猫パンチを食らっていた。大丈夫ですか、と問えば、ヴェーと鳴きながら大丈夫と返ってきた。そしてすぐさま復活し、また猫に向き直っては怒られていた。ルートさんの気苦労を、いつもこんなところで感じさせられる。
さて、ご立腹の様子で足先をなめるその子は、フェリシアーノ君の言う通りすらりとした美人猫さんだった。今しがた警戒心を高めてしまったので私は撫でさせていただけないか、とその様子を眺めていると、猫様自ら私の手にすり寄ってきてくれた。自然と頬がゆるむ。写真を撮るために携帯を取り出そうとし、そこでルートさんに今いる場所を連絡しておこうと思い立った。画面を見ると、ちょうどルートさんから電話がかかってきたところだった。どうやら用事が済んだらしい。私はフェリシアーノ君にルートさんがもう来られるそうですよ、とだけ伝えて立ち上がった。嬉しそうな声があがるのを背に、通りの名前が知りたくて数歩そこから移動した。そのときだった。
視界に何かがちらついた。太陽に反射した光。向かいの低い建物でかまえる人影。赤い光が、泳いで止まる。しゃがむ、フェリシアーノ君の額で。
「フェリシアーノ君!!」
ほとんど悲鳴のような声をあげながら、フェリシアーノ君の身体に覆い被さった。猫が驚き、逃げる。
間髪を入れず背中に重く、強烈な衝撃を受けた。
冷や汗が、ぶわりと吹き出す。熱い。衝撃は一瞬で肉を抉りながら進み、内臓を焼きつけた。叫び声だかうめき声だかがせりあがってくる。それを歯を食いしばって噛み殺した。奥歯は砕けた。目がチカチカする。極彩色の視界。体内で血液が氾濫して、たまらず口の端から溢れ出した。狂うな! 耐えろ耐えろ耐えろ! 逃れられない激痛に精神が飲まれそうになるのを必死で抑える。半狂乱に意識を奪われたら終わりだ。そこが最後だ。日本男児の誇りを総動員して、夢中で自我にしがみつく。
パンッ、と乾いた音がした。
――銃声だ。
いくつもの靴が、視界に入り込んでは消えていく。スニーカー、ヒール、革靴。オフィス街のためか、フォーマルなものが多くみられる。撃たれまいと必死に逃げていくその様を、まるで画面の向こうであるかのように眺めて見送った。
今の今まで感じていたはずの激痛は、すっかり忘れていた。全てが遠くの出来事のように感じられて、突然音も聞こえない灰色の海に放り出されたかのようだった。モノクロの世界で、景色だけが流れていく。さっき私が銃声だと思ったのは、フィルムを撮るカチンコの音だったのかもしれない。そうか。そう思い始めると、急に眠くなってきた。瞼が落ちてくる。この映画は、決して退屈じゃなかった気がするのに。
「きく」
そんなサイレント映画のような世界の中で、一つの音が、私の耳にぽとりと落ちた。
ああ、この声は誰のものだっけ。……フェリシアーノ君、そう、フェリシアーノ君の声だ。胸元でかぼそく震えた、不安げな声。
――そうだ、私は。
一瞬乖離しかけた意識が、その一声で現実に呼び戻された。とたんに周囲の怒号や悲鳴が大きくなって、元の、頭に響くほどになる。同時に、息もできないほどの猛烈な痛みも寄せ返してきた。脂汗を滴らせて、低く唸る。私は身体をなるべく刺激しないよう慎重に息を吐いて、自分を取り戻すことに努めた。そうだ、傍観者ぶっている場合ではない。早くフェリシアーノ君を安全な場所へ逃がさなければ。私たちがいつも頼りにしているルートさんは、この場にいない。手にしていた携帯は、この混乱の中でどこかへ行ってしまっていた。フェリシアーノ君が頼れるのは、今、私しかいないのだ。
しかし心では強くそう思うのに、身体は私の言うことを聞いてくれなくなっていた。
胸で息をするしかなく、腕がしびれ、重力に勝てない。身体は内側から燃やされているようなのに、嫌な寒気が止まらない。指先から芯へ、どんどん凍えていく感覚。あべこべな体感に、吐き気がする。荒い呼吸と震えに、私の身体は支配されていた。いくら叱咤しても己を律することができず、かばったはずのフェリシアーノ君にもたれかかってしまう。せっかく彼のためにあつらえられた、綺麗な服が汚れてしまうというのに。今日だって遅刻してきたにもかかわらずスーツはきっちり着こなしていて、その華やかさに感嘆のため息をついたというのに。すでに先ほど吐いた私の血が、フェリシアーノ君の服の背を赤く染めてしまっていた。後悔先に立たず。フェリシアーノ君を突き飛ばせばよかった。
そうだ、なぜそうしなかったのだろう! 私は愕然とした。銃弾がもし私の身体を貫通していたら。ただでさえ失われていく血が、一気に引いていくのを感じた。弾は今どこにあるのだろう。彼に届く前に止められているのだろうか。不覚。気合いでもたせていた体勢が崩れて、フェリシアーノ君の肩口に顔をうずめる形になってしまう。
「き、菊! いやだ! しっかりして!!」
「フェ、リシアーノ、君」
「菊!」
必死に息を取り込みながら、フェリシアーノ君に問いかける。体勢を変えられないので、身体の状態を見るのはおろか、顔を見ることすらできない。
「お身体は、ご無事、ですか?お怪我は?」
荒い息の合間に言葉を放つ。
「俺は、俺は大丈夫だよ、でも菊が……」
ぐずっ、と鼻を鳴らしながら、フェリシアーノ君は手をおそるおそる私の背に回わした。彼の手もまた、おそらく恐怖から小刻みに震えていた。怖い思いをさせて申し訳ないと思った。いつもだったら軽快に私の背を叩く、陽気な手のはずなのに。
――いつも、背を叩く……?
なにか、ひっかかりを感じた。なぜだろう……?だがしかし、今は。
「はやく、逃げてください……」
腹落ちしないなにかを無視し、絞り出した私の言葉にフェリシアーノ君は頭を振って拒否した。
「……さっきね、警察の人が向かっていったんだ。だから大丈夫だよ、その人たちが救急車も呼んだって、そう言って走っていったよ。応援も呼んだって。すぐ来るって。だから、菊、もう少しの辛抱だよ。もうちょっとだけ頑張って。痛いよね。すぐ良くなるからね。ルートもすぐに来るよ。大丈夫、大丈夫だよ」
フェリシアーノ君はそう言ったが、それでも避難させなくてはならない。狙撃されそうになったのだから。無差別なのか彼が狙いなのかはわからないが、ただ一つ確実なのは、もう私ではフェリシアーノ君を守れないということだ。安全な場所に避難してほしい。そのために鼓舞やら説得やらをしなければならないのに、意識が朦朧としていて、なぜか、先ほどわいた疑問に意識を向けてしまう。
いつも背を叩く。私は確かにそう思った。はて、そんな風に言えるほど、こんな形で撃たれたことなど、あっただろうか。
すぐには思い当たらなかったが、少し時間をかけることで答えに辿りついた。その答えは、あまりにこんな場面に似つかわしくなくて、滑稽で、笑ってしまった。笑った拍子に震わせた身体は、痛いなんてものじゃなかった。意識が飛びそうだった。ああ、でも、なんて皮肉なんだろうか。
「……きく?どうしたの、なんで笑ってるの?」
フェリシアーノ君が私の名を呼ぶ。その声は、涙声だった。
彼はふさわしく泣いてくれていた。怖いはずなのに、一目散にこの場から逃げるのではなく、安心させるように私の背を優しくさすって。だというのに、私はといえば急に笑い出したのだ。緊急事態にあって、とうとう気が触れてしまったと思われたかもしれない。
それでも、いつかこんな日が来たら、喜んでくれるじゃないか。そう思っていたから。
「フェリ、シアーノ君、私、自分からハグ、できましたよ」
息も絶え絶えになりながら、そんなことを声に出した。
そう、この姿勢はハグと変わらなかった。いつもフェリシアーノ君からしてくれて、そして、軽快に私の背を叩く――。
果たして、フェリシアーノ君は不謹慎だと怒るだろうか。いつもの冗談の延長として、笑ってはくれないだろうか。
フェリシアーノ君の笑顔。
今思えば、私にとってフェリシアーノ君の笑顔は希望の光だった。
眼前が白んで、気が遠くなる。
そう、あのときも真っ白だった。のっぺらの地球外生命体に地球が侵攻された折。なんとか逃げ延びたジャングルの中。精魂尽き果てようとしたとき、私の瞳に映ったのはパスタをゆでる、彼の焚き火の光だった。生死の境を彷徨った私たちに、彼は能天気にも常と変わらない笑顔を振りまいていた。拍子抜けしたのと同時に、彼のいつものペースにほっとさせられたのを覚えている。
捕まって牢屋に入れられた時。私は恥から切腹しようとした。ところがあろうことか、フェリシアーノ君は笑って楽器を奏で始めた。もちろん気勢がそがれたのは、言うまでもない。おかげで思いつめていたのが馬鹿らしくなった。
出会って日が経たないころはそれこそ呆れの方が強かったけれど、いつしかそれが彼のいいところだと思うようになった。逆境にめげない力だとか、諦めない心だとかは目を見張るものがあって、ひそかに尊敬していた。笑顔と共に私にはできないことを、何でもないことのようにやってのけるのに驚かされたことも数知れず。
そして何より、彼の笑顔に、何度助けられたことか。
フェリシアーノ君が笑っていると、色んな事がどうでもよくなる。私の絶望の先にも、きっと素敵なことが待っている。そう思わせてくれる。それは私にとって救いだった。
ともしびのような、希望の光。決して、私たちを未来へ導く、という予感をさせるものではない。それでも、この世界のどこかにそんな光があるという事実だけで、少なくとも私はあたたかさを感じられる。
だから、笑って。
この先も灯っていると約束して。
たとえ私が、この世界からいなくなったとしても。
私たちは国だ。凶弾に倒れたとしても、人より死なない可能性の方が遥かに高い。そうは言っても、なにも確実なことなどない。今回の件は『日本』がなくなってしまった暗喩かもしれないし、そうでなくとも『日本』となるのがまた私であるとは限らないし、それに、息を吹き返した『私』が私であるとも限らないのだ。
無理強いはしない。私のために泣いてくれるのも、浅ましいけれど嬉しいから。ただ、笑ってくれたらいいなと思っただけ。最期に笑顔が見られたら、それはもっと嬉しいなと、そう思っただけ。
背で震えていた手に力がこめられて、意識が浮上する。そこで一瞬気を失っていたことを知った。フェリシアーノ君はというと無言で、顔を私の肩に押しつけていた。怒っただろうか、と不安に思っていると、加減して、けれどぎゅうっと強く、抱きしめられる。
それは私の熱を失っていく心臓に、フェリシアーノ君のあたたかな心血が注がれていくような、そんなハグだった。
――ああ、貴方はいつもこんなにあたたかな行為をしていたんですね。
もう一世紀以上の付き合いになるが、新たな発見だった。そんなことを、私としたいと思ってくれていたのか。余裕がなくて、いや、壁を作りすぎていたんだろう。知らなかった。知ろうとすら、していなかったから。
ただそのハグに、私にはもう応える力はなかった。
フェリシアーノ君の望みはきっと、これを返してほしいだけだったのに。このあたたかな身体を包み込んであげれば、それでよかったのに。私の両腕は、ぴくりとも動かない。目の前に、泣いている友人がいるのに。今、この瞬間に抱きしめたいのに。もう、抱きしめられないかもしれないのに。私だけが抱きしめられている。心苦しい。悔しい。歯がゆい。申し訳ない。ごめんなさい。どれだけ後悔の言葉を並べたって、謝罪の意を示そうとしたって、叶わない。あとほんの少し力をこめられることができたら。それが、どうしてもできない。こんなに近くにいるのに、とてつもなく遠くて。ずっとここにいたいと思うけれど、フェリシアーノ君が哀れでならないから、どうか早くこの時間が過ぎ去ってほしいと、その腕の中で願っていた。
やがて抱きしめていた両腕は緩み、フェリシアーノ君はゆっくりと離れた。そして私の身体を優しく仰向けに横たえた。離れたことで見えた、フェリシアーノ君のスーツの前見頃は綺麗なもので、ひとまず安心した。良かった。銃弾は私の身体を貫通していない。壁の役割は果たせたようで、胸を撫で下ろす。
「……ねえ。菊」
フェリシアーノ君が言葉を落とす。
いつの間にか私の体の震えは止まっていて、呼吸もいくぶんか楽になっていた。視界が不鮮明になっていくなかで、なんとかフェリシアーノ君の顔にピントを合わせて、言葉を待つ。
いつも笑っているか、もしくは泣いているか。そんな表情をうつす彼は、今も泣いていた。けれどそこで表されているのは、いつもの柔らかな感情ではなかった。じっと私の顔を見つめ、何かに耐えていた。滲んでいるのはなんらかの強い感情。普段、弱音を吐く口元はきゅっとひき結ばれていて。けれど怒っている、と一言で片すには、複雑な感情がないまぜになっていて。
フェリシアーノ君は一段と私の目を強く見据えると、涙でぬれた自分の目元をごしごしと腕で乱暴にぬぐった。あんまり強くこすると腫れてしまうのに、そんなことに構いもせず。
やがて腕をのけたフェリシアーノ君は、無理くり作った、ちょっといたずらっぽい笑顔――ぐちゃぐちゃのそれは上手く笑えていなくて、苦笑いみたいになっていた――をしていた。
そしてその顔で、震える声で、言った。
――責任とってよ、と。
その返しは、あの日が思い起こされるものだった。
あの日――初めてフェリシアーノ君にハグされた日。突き飛ばして、欧米文化を知らなかった私は、そんな言葉を口走りましたっけ。
彼はそれをずっと覚えていて、何度も私にハグをしてくれていたのだろう。何年も、慣れるまで。あのとき、気を動転させた私が、わけもわからず放った言葉だったと知りながら。
私は笑った。といっても、もう口元に笑みを浮かべることしかできなかったけれど。
これはやられましたね。一本取られました。
だけど私は、嬉しかった。
二人だけの言葉だった。不格好な私のハグも、フェリシアーノ君のお返しも。私たち個人の間だけで通じるもの。遠く離れた地にありながら、それでも育んできた友情。それがここまで二人の言葉を紡いだ。
フェリシアーノ君はその言葉を口にするのが精一杯だったようで、笑顔はすぐに曇り、雨を降らせ始めた。
けれどこの雨もすぐにやんで、また晴れ間をのぞかせる。
私は友を目に焼きつけて、瞼を閉じた。
❀❀❀
――フェリシアーノ君、私自分からハグできましたよ。
――ヴェー本当だ! おめでとう菊、頑張ったね。オセキハン炊かないとだね。
いつか、そんな日が来ると思ってた。
それなのにやがて訪れたその日は、ぜんぜん思い描いていたものとは違った。
ハグは相手を思ってするんだよ。ハグをすると、相手の鼓動を感じる。相手を近くに感じる。こころもあったかくなる。素敵だね。だからみんなこうやって挨拶をするんだろうね。人のカタチをしていて良かったと思えるよ。どこかの国では破廉恥だと、突き飛ばされてしまったけれど。
あれからどれだけの年月が経っただろう。同じ口から『ようやくハグできた』って言葉を聞いた時には、耳を疑った。
菊がしてくれたのはハグじゃないよ。こんなのはハグって言わないよ。
息をするたびに、流れていく菊の温度。どんどん俺から遠ざかっていってしまう。それがいやで、でも何にもできなくて、ここにとどめたくて、力が入る。菊にしがみついて、最悪な未来から目をそらす。これはハグじゃない。こんなのはハグじゃない。でもどうしようもなく、菊のことを思いながら抱きついていた。
何年経っても、何年俺たちが向き合っても慣れなかったのに、人の命を引き裂く鉄の塊如きに、それを越えさせるわけがないんだ。
大切な俺の友達。また笑ってみせて、そう思ったさ。けど聞きたかったのは、そんな悲しい笑い声じゃない。お願いだからどこにも行かないで。ずっとここにいて。もう置いていかれるのはたくさんだし、俺はもっと楽しいとか、嬉しいって気持ちで笑ったお前が見たいんだよ。
だけどそんな俺の願いもむなしく、どんどん菊の息は浅くなっていく。痛くて苦しいだろうな。俺はぶたれるのだっていやだよ。それなのに自分から撃たれに突っ込んでくるなんて、菊は昔から変なところで思い切りがいいよね。ハラキリ、とかさ。一緒にいたときに本気で何度かやろうとしてたことあったよね。俺やルートの言動を見てフクザツカイキって言ってたけど、俺からしたら菊の方がフクザツカイキだった。俺には全然理解できないよ。人生は楽しむためにあるのに。
だからこそ、最近ようやく菊の本当の笑い方がわかってきたのは、嬉しかった。だって、あんまり表に出さない菊の、言葉を通り越してこころに触れられた気がしたから。でもまだまだ俺たちはとても遠いね。距離も文化も心も。けれど、お互いに広がるこの小宇宙で、お前が手を伸ばそうとしているから、俺も手を届かせるよ。
俺はゆっくりと、今まさに命尽きようとしている身体を横たえた。離れたくなかったけど、楽にしてあげたかった。
あの日。
菊に言われた、俺がとるべき責任がわからなかった。だから、菊がちゃんとハグできるようになるまで付き合うことにしたんだ。
それが俺の責任。
あのとき勝手に決めちゃった。ごめんね。
そうそう、今回のはハグって俺認めてないから、まだ菊の言った『責任』とれてないんだ。そういうわけで、これからもよろしくね。
それとは別に、菊にだってとらなくちゃいけない責任があると思うんだよ。
――ねえ、菊。
涙を拭って、笑って言ってやる。あの日、菊は真っ赤だったけど、俺は余裕で言ってやるの。
「責任とってよ」
俺を、こんな悲しい気持ちにさせた責任をとってよ。
だからお願い、行かないで。
❀❀❀
フェリシアーノ君はその言葉を口にするのが精一杯だったようで、笑顔はすぐに曇り、雨を降らせ始めた。
けれどこの雨もすぐにやんで、また晴れ間をのぞかせる。
――その晴れを連れてくるのは私だ。
私の名は、日ノ本。私は日の出ずる国。
私はもう、海の上に一人、ぽっかり浮かんでいるだけではなくなった。西のみを見て、暁を支配するだけではなくなった。
たくさんの出会いがあって、大切な友ができた。ここまで歩んできたのは私だ。そしてこれからも。『日本』に友がある限り、私は生き続ける。だからこそ、その雨をやませることが出来なくて、どうして友を名乗れるだろう。ましてや、どうして笑顔を拝めるだろう。
ここを私たちの終着点とすることが、許されなかった。
彼はまた、私の絶望の先を信じている。
――責任を、とらなくては……。
一世紀以上も待ってくれた彼に。
『責任』だけの縁では、結ばれていない彼に。