それは冷たい雨の降る夜のことだった。
仕事で少しヘマをした。ただそれだけのことだったが、腹に空いた穴は思ったよりも大きく深いものだったらしく、歩けば歩くほどぼたぼたと血を垂れ流した。幸いにも雨が地面に落ちた血をさらってくれるので、血痕からの追跡の可能性は下がっていた。
とはいえ、絶体絶命の状況であることに変わりはない。冬が近づく頃の夜の雨は、容赦なく体温を奪っていくしぐっしょり濡れた服は足取りを鈍らせた。
深夜ともあって人通りもなく、ぼろぼろの男の姿を見て騒ぎ出す人間はいなかった。それでも尚警戒して、人の通らなさそうな道を選んだ。どこをどう歩いたのかもいまひとつ覚えていない。このままではセーフハウスに辿り着く前に意識を飛ばしそうだ。
「まずいな」
つぶやいた声は自分でも驚くほど弱々しく震えていた。情けなさに笑えてくる。
不意に、何かの気配を感じた。慌ててナイフを手に取り構えると、目の前の路地からひょこりと何かが現れた。
「にゃあお」
それは黒い猫だった。猫はこちらの顔を見て、すぐに興味を失ったかのように視線をそらし、どこかへと走り去っていった。
何だ猫か、と心の中で呟いた途端、緊張の糸がぷつりと切れてその場に崩れ落ちた。ナイフがカランと音を立てて転がっていったが、追いかける余裕はなかった。あれが最後の一本だったのにとぼんやり遠いところで思う。
死ぬのかと、地面に落ちて泥まみれになりながら思った。なんて呆気なく意味のない死だろう。本部は自分が死ねば、ちゃんと見舞金を家族に支払ってくれるだろうか。事情を知らない弟妹たちにはどのような説明がなされるのだろう。得意先に向かっている途中で事故に合って死んだとか、そういうことにしてもらえないだろうか。間違っても本当のことは教えてほしくない。今は、まだ。
閉じかけた瞼の裏に親兄弟の姿が浮かぶ。これが走馬灯というやつだろうか。いよいよ死ぬのかと思うと恐れよりも笑いが先にきた。はは、と乾いた笑い声が耳に届いた。
「……これは」
自身の笑い声と雨音に混ざって、知らない男の声が聞こえた。どうも近くに誰かがいるらしい。目が開かないどころか指一本動かせない状態では、それが誰か確認することもできない。そもそも、声が届く距離まで近付かれていたのに全く気付かなかった。相手の腕が凄いのか、自分がもうだめなのか、どちらなのだろう。
「死ぬのか?」
ぴくりと身体が動いた。殆ど、本能からの反射だった。タルタリヤの心は、男の言葉を侮辱として受け止めた。だから否定するため、或いは反抗するため動こうとしたのだ。それが幾ばくもない寿命を縮める行為になったとしても。
「成程……面白い」
その男はくつりと喉を鳴らして笑ったようだった。他人の死を目の前にして何が面白いのか。理解ができない。
「宜しい。それでは――」
男が何かを言った。契約、と聞こえた気がした。
頭に何かが触れる。それは冷たい雨を遮って、タルタリヤの身体に熱を注ぎ込んだ。
+++
地獄というものは随分と庶民じみた場所なのだなと、目を覚ましたタルタリヤは思った。天井も壁も自身が横たわっているベッドでさえも、現世ではよくあるもので、幼い頃寝物語に聞いた地獄の光景とは少しも似ていなかった。
もしかして、とタルタリヤは思う。腕を持ち上げようとしたが鋭い痛みが走った。思わずうめき声が漏れる。地獄は生前の傷を引き継ぐのだろうかなどと考えるのは現実逃避だと、いよいよ認めざるを得なくなってきた。
つまるところ、生きているのだ。あれだけの傷を負って、尚。随分と生への執着が激しい生き物であったらしい。小さな苦笑を己に許し、すぐに気持ちを切り替えた。
生きていることは分かった。しかし、この場所には見覚えがない。周囲を見渡してみるとどうやら誰かの部屋らしいことは分かる。壁にかけられている服などから察するに部屋の主は男であるらしい。戸棚に並ぶ小物や食器類は拘りが見られるし、安くはなさそうなものばかりだ。
それなりの身分の男の部屋で、傷の手当をして寝かされている。奇妙な状況だった。
ふと、部屋の外に人の気配を感じた。タルタリヤは目を閉じ、身体の力を抜く。少し遅れて、部屋の扉が開いた。ノックは聞こえなかった。部屋の主が帰還したと考えるのが妥当だろう。
革靴が木の床を叩く音がする。それは少しずつこちらへ近付いてきた。相手はしばらくじっとしていたかと思うと、ふっと安堵するかのように息を吐いた。
「気がついたか」
こちらの狸寝入りを見抜いた言葉に、観念して目を開いた。警戒心を強めて。
視界に映ったのは、予想通り男の姿だった。すらりと背が高く姿勢がいい。琥珀色の目が笑うように歪められている。タルタリヤが生きて目覚めたことを喜んでいるように見えた。少なくとも表面上は。
「覚えているか? 道端で倒れていたらしい。出血は酷いものだったし、その上、雨で体温を奪われていた。もう少し発見が遅ければ死んでいただろう」
男の言い方から推測するに、あの時タルタリヤに声をかけてきたのは彼ではないのだろう。誰かがタルタリヤを拾い、この男に託した。ただの親切心ならば良いが、とてもそうとは思えない。部屋の内装からいって、ここは璃月かその影響下にある場所だ。
「そう警戒しないでくれ。とって食いやしない。ましてや七星に密告することもない」
まるでこちらの心の内を読んだかのような言葉に、タルタリヤはますます警戒心を強めた。しかし、男はそれを解こうとするかのように友好的な笑みを浮かべ、両手を広げた。害するつもりはないと示すかのように。
「こちらの情報を開示しようか。貴殿は璃月地区で重傷を負い倒れているところを発見された。ここに運ばれたのは単純に現場から近かったからだ。念の為、所持品を確認させてもらった。犯罪者だった場合は七星に突き出さなければならない。それは璃月地区に住む者の義務だからな。だが、貴殿の所持品を調べて分かったのは――貴殿がファデュイの人間であるということのみ」
「それだけで、七星に突き出すには十分な理由じゃないの?」
璃月地区を統治する七人の賢人、璃月七星とスネージナヤ地区の組織であるファデュイは敵対関係にある。七星に媚びへつらう者ならば、さっさとタルタリヤの身柄を彼らに渡すことだろう。しかし、目の前の男はそうはしなかった。七星に外敵に関する情報を渡すことは義務だと言っておきながら。
「七星は璃月に入ったファデュイをすべて敵だとは言っていない。今のところ貴殿が指名手配されている様子もない。そうであるなら、貴殿のための医者を手配することを阻む要因はない」
つらつらと男は述べる。台本を読むかのようにスムーズだ。
男の考えは甘い。仮にスネージナヤ地区で重体の璃月七星の人間が見つかれば、すぐさま捕まりスネージナヤの長である女皇に身を委ねられることだろう。だから七星どころかその部下でさえ、スネージナヤには足を踏み入れない。
璃月は違うのだろう。タルタリヤは他地区について詳しいわけではないが、特別警戒すべき場所とは教えられていない。
「質問は以上か? ならばもう休むことだ。一命をとりとめたとはいえ、貴殿が重傷を負っていることに変わりはない」
男の言葉に素直に頷いて目を閉じることはできない。たとえ相手に敵意がなくとも、タルタリヤにとって璃月は敵地だ。スネージナヤの長である女皇は、いずれ璃月含む他地区を制圧するつもりなのだ。気を抜くことはできない。
じっと男を見ていると、男は「難儀なものだな」と肩をすくめた。
「それでは契約を」
「契約?」
男は頷く。璃月地区において、契約は何よりも重んじられるものだと聞く。それを持ち出すとは、何を企んでいるのか。
「貴殿が不審な動きを見せない限り、この部屋に留まることを許可する」
随分と高圧的な言葉のように思えるが、実質、全面的にタルタリヤに利のある内容だ。どうしてそこまでしてくれるのかと、問うてしまったのも無理からぬことだった。
「折角救った命がすぐに散るのは見たくないからな」
そこに他意はなく、本当にただそれだけの理由で目の前の男はタルタリヤを助けようとしているように思えた。
「分かった。呑むよ、その条件」
「では、契約成立だな」
男が満足そうに微笑む。彫刻のような無駄がなく整った男だった。その笑みひとつで何人の女性を虜にしたのだろうと思ってしまうほど。それこそタルタリヤが女であったなら、自らの立場も忘れころっと落ちてしまっていたかもしれない。
本意ではないが、怪我が治るまでの身の安全は確保されたと思って良いだろう。食事はどうとか何とかこの場所で生活するにあたり必要な情報を男はつらつらと述べた。タルタリヤは相槌を打ちながらそれを噛み砕く。どうやらここは男の家ではなく、職場の一室を住居として与えられているにすぎないらしい。そのような場所に見ず知らずの他人を招き入れるとは、豪胆だと褒めるべきなのだろうか。
「俺からは以上だ。何か質問は?」
「貴方の名前は?」
男は目を丸くして、遅れてからからと笑い声を上げた。そのように笑われることを言ったつもりのないタルタリヤは思わず口をへの字に曲げる。
「すまない。名乗るのを忘れていたし、貴殿の名も聞いていなかったと思ってな。それなのに契約を交わすとは」
笑うことかどうかはさておき、酷く間の抜けた話だという点においては同感だった。商売相手と契約を交わす時は、契約書を作成するし、そこには互いの身分や名も記されるだろう。それもなく、タルタリヤたちは契約を結んだ。
ひとしきり笑い終わったらしい男は、目元に浮かんだ涙を指で拭い、口を開く。しかし、彼が名乗るよりも前に部屋の扉が叩かれ、すぐさま開かれた。現れたのは痩身の男で、部屋の主を見るなり「鍾離先生」と呼びかける。
鍾離先生と呼ばれな男が、もう一人の男に振り返る。
「お客様がいらっしゃいました。堂主様が先生の手を借りたいと」
「承知した。すぐに向かおう」
男は頭を下げて部屋を出ていく。再び二人きりになった部屋の中、鍾離はタルタリヤへ視線を向けた。
「鍾離……先生?」
彼が口を開く前に、彼の名を口にする。鍾離はひとつ頷いた。
「そうだ。ここは往生堂。簡単に言えば葬儀屋だ。俺はここに客卿として招かれている」
故に、往生堂の人間は彼を先生と呼ぶのだという。知識を求められることが多く、彼らの仕事も手伝っている。先程の男の用件も往生堂の仕事絡みらしい。
「そうなんだ。俺の名前はタルタリヤ。よろしくね、先生」
「ああ。こちらこそ。公子殿」
公子、と呼ばれタルタリヤは目を丸くしたが、やがて声を上げて笑った。笑えば笑うほど傷口に響いたが、これが笑わずにいられるものか。
鍾離はタルタリヤの荷物を探ったと言った。それによりスネージナヤのファデュイに属するものであると分かったと。それくらいの情報なら特に問題ない。タルタリヤはそれを隠してもいない。だが、タルタリヤがただのファデュイではなく、その中でも特別な執行官という立場であることを示すものはどこにもなかったはずだ。よもや、タルタリヤに二つ名として公子という名が与えられていることなど知る由もない。
だが、鍾離はそれを言い当てた。彼がどうやってその情報を掴んだのかは知らないが、それを知った上であのような契約を提示してきたのだから、食えない相手であることに間違いはない。
タルタリヤにばかり有利と思えたあの契約は、彼がこちらの動きを牽制するためのものでもあったということだ。
「傷が癒えるまで退屈しなさそうだ」
タルタリヤのつぶやきに、鍾離は微かに眉を上げた。
「璃月は契約を重んじる。くれぐれも……反故にすることのないように」
騙すような真似をしながらよく言えたものだ。