ロスト・スプリング「……………落ちた」
六畳一間の部屋の中、スマホの画面に写し出された数字の羅列にネロが探していたものはなかった。
◆ロスト・スプリング
見下ろした校庭には、最後の会話を惜しむようにいつまでも生徒たちが残っている。桜が舞うその景色にネロはため息をついた。
頬杖をつきながら見るともなしにその姿を眺めていると、後ろから肩を叩かれる。
「……ブラッドか」
「ようやくこんなところからおさらばだってのによ、辛気くせぇ顔してんなぁ」
隣に並んで肩をぶつけられる。それでも反応しないネロにブラッドリーはつまらなそうな顔をする。
「まだ落ち込んでんのかぁ?」
「…そりゃあ、あんだけファウストに教えてもらっといて落ちるのは、申し訳ねぇつーか…」
はぁ、と聞こえよがしにブラッドリーはため息をついた。
「相変わらずてめぇのことより人のことかよ」
ブラッドリーは胸ポケットから取り出した煙草を咥えて、ライターに火を点ける。ネロの目の前にも、一本煙草が飛び出した箱が差し出された。
「俺やめたって…」
「お勉強はもう終わったんだろ?」
当たり前のように、ネロが吸っていたものと銘柄は同じだ。初めて吸った日、初めて吸った銘柄も同じなのだから。
さらに押し出された箱をじっと見つめたあと、まぶたを伏せて、慣れた手つきでつまんだ煙草を口元へと運ぶ。ブラッドリーが点けた火に煙草の先を寄せて息を吸い込んだ。肺に馴染んだ香りをゆっくりと吐き出す。
「…はぁー、うめぇな…」
「そりゃなにより」
白い煙の下では、あいも変わらず生徒たちが集っている。よくよく見ると、女生徒に誰かが囲まれていた。ネロたちと同じ学ランに、軍服を被った姿がその中を突っ切っていく。
女生徒の中心にいたカインを無理矢理オーエンが引っ掴んで連れ出していた。
「あーあ、オーエンキレてやがる」
「モテるからなぁ騎士さん」
「そういうてめぇもだいぶ揉まれただろ? ボタンねぇじゃねぇか」
「あー…まぁもう着る機会もないしな。ボタンくらいなら別に」
ネロの学ランのボタンはすべてなくなっていた。購買でバイトをしていただけあって、それなりに顔は広い。緊張した可愛らしい下級生からも声をかけられて、最後のボタンを渡した。
「ブラッドこそ、腕のとこのボタンもワイシャツのもねぇな。つかワイシャツなんか持ってたのか」
「俺様が持ってると思うか? 絶対ボタンがなくなるから着てくれってチームの奴らにシャツあさイチに渡されてよ。結果、女達とチームの奴らに見事に強奪された」
「わざわざ支給したのかよ、あいつら相変わらずおっかしいな」
声をたてて笑う。その姿にブラッドリーがニヤリと笑みを浮かべた。
「多少は気分ましになったか」
「…あー、まぁ、久しぶりに吸ったらうめぇし…」
さっきまで落ち込んだ姿を見せてたのに、バツが悪い。どんな空気でも、居心地の良さを作る男だ。
そういうところがたくさんの人を寄せ集めるんだろう。ネロだって、その一人であることには変わりない。
「ま、第二志望は受かってんだろ? だったらそんなに落ち込む必要ないだろ」
「…それはそれ、これはこれなんだよ」
確かに第二志望の大学は受かった。けれど、第二志望は近場だ。
第一志望は遠くの大学だった。それこそあの六畳一間のアパートは引っ越さなければならないし、ここからは気軽に行ける距離ではない。
どうしてそんな場所を選んだのか。
一度、離れて過ごしてみたかった。幼馴染としてずっと一緒に、当たり前のように生きてきて、距離感の境目がよくわからなくなっていた。失うことを必要以上に恐れている。
そんな自分に見切りをつけたかった。執着を手放せるように、物理的な距離を作ってしまえばと。
けれど結果は、奥底にあるネロの本心が透けてしまったのかもしれない。
「…結局また、しばらく一緒か…」
「なんだ? なんの話だ?」
不思議そうに見つめてくるブラッドリーの肩に、わざと肩をぶつけた。
「んだよ、なんだ、慰めてほしいのか?」
茶化したようなふざけ声に、肩に頭を乗せた。
「…珍しいな」
「悪いか。そういう気分のときだってあんだろ」
どうしたって離れられないらしい。それならたまには甘えてみたって許されるだろう。
顎が掬い取られて、軽く唇が触れる。視線はかち合ったまま、二度、三度と触れるだけのものが繰り返される。
「…なんだよ、いまの」
「慰められたいんだろ?」
「それにしたって、あんな、女にするような…」
自分から強請ったくせに優しさが滲むようなキスに気恥ずかしくなってしまった。十分馴染んだ煙草の味だというのに。
「残念ながら女を相手にしたことはないからわからねぇな」
ずっと一緒に、当たり前のように。お互いがお互いしか知らない。それが窮屈に感じるときもあるが、嬉しくてどうしようもないときもある。我ながら、めんどくさいことこのうえない。
離れられないなら、腹をくくるしかないのだろう。
灰になった煙草が落ちて、もう一度咥えて煙を吐いた。
このときの俺は、知らない。
桜がすべて散り終えた頃、ブラッドはもう、あの六畳一間のアパートに来ることはなかった。