中学3年 夏春と呼ぶには蒸し暑く、夏と呼ぶにはまだ涼しい。そんな夏の訪れを感じさせるある日の初夜に、平時では見かけない人物がフラフラと秋葉原の街並みを歩いていた。
「あれ、目金君?こんな時間にどうしたんだい」
「おや。こんばんは、漫画萌先生。こんなところで奇遇ですね」
こちらの呼びかけに珍しい人物__目金君は、振り返って穏やかに微笑む。部活帰りに直接訪れたのか学ランに身を包み、学校指定のカバンを肩にかけている。目金君の制服姿は初めてメイド喫茶で会った時以来で、普段は私服姿の彼と会っているからか制服を着た彼はなんだか新鮮なものであった。
「こんばんは。ちょっと足りないものがあったから買い出しに来ててさ」
「ふむ。……その袋を見るに、画材道具ですか?」
「ああ、君の言う通り漫画を描くのに使う消耗品だよ。普段は通販で揃えているんだけど、新しい画材の開拓も兼ねてたまには自分の目で物を見て買いたくてさ」
手にぶら下げていた戦利品を目金君に見せるように持ち上げる。使い慣れた消耗品からSNSで見かけた便利と称されるアイテムなどが入ったそれを目金君はキラキラとした目で見つめる。
「流石は漫画萌先生。今の実力で飽き足らず更なる探究を続けているわけですね!」
「そう言われると何だか恥ずかしいね……。あ、話を戻すけど、君ここで何してたんだい?人のこと言えないけど、もう結構遅い時間じゃないか。そろそろ帰らないと危ないよ」
もう時刻は20時を回っており、中学生が出歩くには少しばかり遅すぎる時間だ。帰りも電車を使うだろうに大丈夫なのだろうかと、おせっかいでしかないこちらの言葉に目金君は気恥ずかしそうに頬を掻く。
「あー。大した用事ではないのですが、ちょっとこの辺りの雰囲気を味わいたくて散歩をしていたんです」
「散歩?」
「ええ。昼間や夕暮れ時はサッカー部の練習があるので、中々ここに来られないんですよ。なので、せめて街並みだけでも眺めて帰りたいなと思ってこうしてこの街を歩いていたんです。するとこうして」
「僕と偶然出会った訳だね。成る程、確かに君は休みの日に僕らのアジトによく足を運んでくれるけど、この街で会うのは今までも滅多に無かったね」
「ご理解していただけて助かります。貴方達と語り合うだけで十分オタクとしての欲求は満たされるのですが、街全体がオタクの為にあるようなこの空間にいるからこそ満たされる何かがあるんですよね」
そう言ってライトアップされた老舗店の看板やゲームの最新作の宣伝広告が描かれた塔屋看板等を眺めるように目金君は顔を上げる。同じオタクとしてその場の空気を味わいたいという気持ちは十分に理解出来るもので、共感すると同時に彼の目を通して見るこの街を共に見てみたいと衝動的に感じた。
「……ねえ、目金君。よかったら君の散歩に僕もついていって良いかな?」
「え。良いですけど……本当にただ歩くだけですよ?それにそろそろ帰らないと君の方こそ親御さんが心配するのでは」
「大丈夫だよ。僕の家はこの街から近いし一人暮らしだからね。……それに、君と語り合いながらこの街を練り歩くなんて、そんな楽しそうな機会を逃すなんて勿体無いからね」
「漫画萌先生……」
「あ、そうだ。その呼び方」
「へ?」
「ずーっと言おう言おうと思ってたんだけど、僕ら来年の春から同じ学校に通う同級生になるだろ?」
「ええ、そうですね」
「ならさ、その呼び方も同級生らしいフランクなものに変えるべきなんじゃないかい?」
初めて会った時からずっと変わらないその呼び名は、萌え漫画家である漫画萌へのリスペクトが感じられて好ましくはあるのだが、同い年の友人に向けて使うには少し硬すぎる。作家としての己が許しても、目金君の友人としての己が許せる呼び名では無かった。
「そう言われましても、僕にとって貴方はこの世で最も尊敬する萌え漫画家の漫画萌先生なので」
「その僕が嫌なの!」
「ええ……」
1年以上用い続けた呼び名を急に否定された目金君はいかにも困っていますと言わんばかりに眉を下げ困惑の表情を浮かべる。だが、1年以上の付き合いで存外彼が押しに弱いと知っているこちらはあと一押しと甘ったれた声を出す。
「だからさ、ね?良いだろ、目金君」
「はあ。では、…………漫画君、で、良いですか」
「うんうん、いいね。一気に距離が近くなった!」
「貴方って変なとこ強情ですよね」
「目金君に言われたくないなそれ」
「んな!どういう意味ですか!」
「ははは!ごめんごめん。さ、そろそろ行こうか目金君」
「……ふふ。ええ、行きましょうか、漫画君」
車も人通りも多い、星々もビルの明かりにかき消される静けさとは無縁なこの街を、何をするでもなくただ穏やかに、二人のんびりと歩き始めた。