妊娠中の妻が転んだと連絡を受けた時は、目の前が真っ暗になった。
職場を早退して病院へ向かった。眩暈がしそうなほど暑い。
幸いにも、母子ともに影響はないらしい。念のため、1泊だけ病院で休むこととなった。白いベッドの上で申し訳なさそうに微笑む妻を見て、やっと呼吸ができたかのような心地だった。
彼女が入院する大部屋を後にすると、もう夕方が近かった。廊下には、8月のきつい西日が差している。窓は閉められているのに、蝉の声がジワジワと聞こえる。安心したら、急に外の音や温度を意識して、どっと疲れた。
顔を上げると、向こうで誰かがうずくまっているのが見えた。はっとして駆け寄った。入院着を着ている。
「大丈夫ですか」
点滴スタンドをぎゅっと握ってしゃがんでいたのは、高校生くらいの少年だった。顔色は真っ白で、苦痛に歪んでいる。ふさふさとしたまつ毛を震わせて、何かに耐えるように眉を寄せている。
「あの、誰か看護師さんを、」
とにかく俺では対処しきれない事態かもしれない。そう言って周囲を見回すも、廊下には俺しかいなかった。
手首を掴まれて思わず肩が跳ねた。少年の手が氷のように冷たかったからだ。
「……、あの、大丈夫……です」
彼がそう言って立ち上がろうとする。慌てて背に手を回して支える。とても細かった。
「でも、」
「ちょっとふらっとしただけで」
彼は気まずそうにこちらを見て、頭を下げた。耳にかかっていた、伸びっぱなしの前髪が揺れる。
「すみません」
「いや、いや、大丈夫ならいいんだけど。でも誰かに伝えたほうがいいと思う、」
言いかけたところで、少年が困ったように薄く笑みを浮かべた。先ほどまでの苦痛に満ちた表情とは異なり、穏やかだった。
本当にもう平気なのだろうか。しかし、心配だ。
「あの」
どうしようかと悩んでいると、彼が口を開く。
「ご迷惑でなければ、部屋まで送っていただけませんか」
「っ、もちろん」
ほっとした。一人で歩かせて、倒れでもしたら心配だ。でも、俺から彼の行き先を聞き出すのは、よくないことだと思っていたところだった。
彼が点滴スタンドを引いて、ゆっくり歩き出した。その背を、少し距離を取って、しかし注意深く追う。
「トイレの帰りだったんです」
「そうか、」
彼のスリッパの音と、俺の靴音、スタンドの車輪が回る音。少し長い髪に覆われた、丸い後頭部を見つめる。
「お兄さんは、どこか具合が悪いんですか?」
前を歩く彼が顔だけ振り返る。話しかけてくる様子を見ると、体調は少し良くなったのだろうか。
「ああ、妻が……家族が少し怪我をして。その様子を見に」
「そうなんですね」
西日がひどく眩しい。彼の表情が見えなかった。
それから少し歩いて、長い廊下の端にある部屋の前で彼が立ち止まった。
「ありがとうございました」
「うん。お大事に」
「はい」
お互い頭を下げて、彼が中に入っていったのを確認して踵を返す。
少し歩いて、急に気づいた。
あれは彰人だ。
彰人は、俺の幼馴染だった。
体が弱かった彼は、17歳の夏、卒業を待たずして亡くなった。
茹だるような日差しの中、彰人と同じ制服を着て葬儀に参列した。俺の母は、彼の両親とともに肩を震わせて泣いていた。
振り返る。
オレンジ色の西日に照らされて、俺の影が長く長く伸びている。
そして、影だけがそこにいた。
「なんだ」
廊下の突き当たりには影だけがある。
「僕のこと、ちゃんと覚えてるんだ」
真っ黒な影がある。
それはゆらゆらと揺れていた。
いつまでそれを見ていたのだろう。突然、面会終了時刻を知らせる放送が流れた。
廊下の反対側を、書類を抱えた看護師が、俺の顔を見ながら歩いていった。
もう、16時だった。