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    unhkiss

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    稲妻編直前のタル空とアヤックスの少年時代捏造

    万華鏡みたいな君の夢学校から帰る途中、アヤックスは灯台に立ち寄ることにした。
    アヤックスは海と森に囲まれたスネージナヤの港町に住む八歳の少年である。
    父親はいわゆる海の男というやつだ。大きな商会に水夫として雇われていて、貿易船に乗り、世界中を旅して回っている。
    今日は父親の乗る船が町に帰ってくる日だった。大好きな父親の出迎えがしたくて、アヤックスは海に行こうとしているのである。
    ただし冬の海は荒れやすく危険だ。凍っている海の上でスケートをしていたら、足元の氷が割れて真っ逆さま、なんて事件は珍しくもなんともない。
    日光に温められて溶けかかっていた氷塊が自重によって沈むこともある。そのときに起きる波しぶきはアヤックスのような小さな子供であれば簡単にさらってしまえる。

    ――忘れるな。この世で最も恐ろしいのは自然の脅威だ。

    というのが父親の口癖だった。
    港は人の行き来が忙しなく、アヤックスがうろちょろしていると邪魔になる。冬は海岸線で砂遊びをしながら船を待つのに適した季節ではない。
    ゆえにアヤックスは灯台を目指した。
    灯台の根本にある掘っ立て小屋には灯台守りが住んでいる。彼は気さくな老爺でアヤックスが灯台を上っていいか尋ねると快く許可をくれた。
    外ではビョウビョウと木枯らしが吹き荒れているが、灯台の内部は静かだ。水を打ったような静寂のなか、窓ガラスがガタガタ揺れる音と、螺旋階段が軋む音がやけに大きく響く。
    この灯台はもう何十年も前に作られたものらしく、鉄製の階段は潮風に散々いたぶられ、あらゆる箇所が錆びてしまっていた。
    コートやウシャンカが錆びで汚れてしまったら、あとで母親に怒られる。アヤックスは注意しながら階段を上っていき、頂上に辿り着いた。
    外の見張り台へと続く扉を開ける。と、すかさず強風に煽られて体がよろけた。

    「う、わ、っと!」

    アヤックスは慌てて手すりにしがみついた。肌を突き刺す冷気に体温を奪われて反射的にくしゃみが出る。

    「ぶえっくしゅん! う~! さっむ!」

    その場で足踏みをしながら両腕を交差させて二の腕をさする。何度か連続でくしゃみをして、アヤックスは眼下へと視線を向けた。

    「……きれいだな」

    頭上は鉛色の分厚い雲で覆われている。しかし雲の隙間から陽光が漏れ、氷海は燦然と輝いていた。光の柱が突き刺さるその箇所だけ氷が青色に染まっている。
    美しく透き通るクリスタルブルーが宝石みたいなきらめきを放っている。その光景にアヤックスは声もなく見惚れてしまった。
    アヤックスのきょうだいたちは常々スネージナヤではなく、モンドや璃月に生まれたかったと不満をこぼしている。春と夏はまばたきほど短く、冬は長く険しい。
    作物や動物を育てるのは難しく、路上での凍死者は絶えない。モンドや璃月であればこんなに寒い思いをすることはないのに、ときょうだいたちは言う。
    「まあ、隣の芝生は青いってやつだな」とその話を聞いていた父親は笑った。「スネージナヤには他の国にはない魅力があるのよ」と母親は生まれたばかりのテウセルをあやしながら、アヤックスたちを諭した。
    アヤックスは他の国が羨ましいと思ったことはない。青と白がまだら模様を描く白銀の海と大地はまさに絶景で、見ているだけで心が躍る。あの水平線の先には何があるのだろうと好奇心を搔き立てられる。

    (それにここには‘あいつ’がいる……)

    耳を澄ませてじっと待つ。今日はあの音が聞こえるだろうか。聞こえないかもしれない。聞こえたらいい。
    手袋を嵌めていてもかじかむ指。カタカタと震える歯の根。睫毛さえ凍りつきそうなほどの気温。
    確かにスネージナヤの自然は厳しく、人間が生きていくには過酷だ。けれど。

    「きた……っ!」

    腹の底に深く響くウォオオオオン……という鳴き声にタルタリヤはハッと息を呑んだ。眼球がこぼれ落ちそうなほど目を見開き、海面を凝視する。
    やがて‘それ’は姿を現した。
    海面を覆っていた流氷がさざ波によって押し流され、ぽっかりと穴が空く。その穴から黒い塊がせり上がってきた。ザバザバと海水が下に流れ落ちていく。ゆるやかに曲線を描く輪郭。濡れてぬらぬらと光る巨大な体躯。アヤックスの何倍もの力を秘めていそうなたくましい背びれと尾びれ。
    一頭のクジラが海面から浮上し、勢いよく潮を噴き上げる。

    「アハッ!」

    アヤックスはこらえきれずに笑った。鼓動が早まり、全身が熱くなる。ぞくぞくする。腕に鳥肌が立つ。
    あのクジラは間違いなく強者だ。生き残るのも難しい冬の海を我が物顔で悠々と泳ぎ回り、王者として相応しい風格を持っている。

    「いつか俺も……」

    あの海を越えていくだけの強さを手に入れたい。あのクジラよりもずっと強い猛者たちに挑み、勝利し、覇者となるのだ。この世界を自由気ままに闊歩するだけの力を自分のものにする。
    何者にも脅かされない強さ。星と深淵に臨む強さ。それをアヤックスは心の底から渇望している。
    今はまだただの夢物語に過ぎない。しかしこの少年の意志の強さは本物だった。
    それから数年後――アヤックスはもう一つの名前と肩書を手に入れる。



    テウセルの前で優しいお兄ちゃんを全力で貫こうとするタルタリヤを目の当たりにしてから、空のなかで彼への印象が大きく変わった。
    あまり物事に執着しない性質の空は珍しく惜しいな、と思った。
    タルタリヤがファデュイでなければ。彼の生まれがスネージナヤでなければ。自分たちは親友になれただろうと確信を抱いたからだ。
    もしもタルタリヤが一介の冒険者であったなら、彼と空はすぐに意気投合していたに違いない。互いにきょうだいの愛しいところ、不満なところを語り合い、兄としての苦労を共有し、共に旅をする。緑したたる大地を駆け抜け、武力を競い合い、満天の星を見上げながら眠る。
    タルタリヤが女皇に忠誠を誓っていなければ、本当の相棒に、旅の仲間になれたかもしれない。
    しかし彼を彼たらしめているものは強さへの執着だ。家族を守るために強さを追い求め、ファトゥスとして修羅の道を行くタルタリヤに空は魅力を感じてしまった。関心を寄せるようになった。
    ファデュイであるタルタリヤとは親友になれない。しかし好敵手にはなれる。
    同等の戦士として刃をまじえ、全力で戦える喜びを存分に分かち合うことができる。
    しかし空は蛍を探すため各地を放浪する身であり、頻繁に璃月に足を運ぶのは難しい。
    立場を気にせず勝負に熱中するためには時間と距離を選ばない場所が必要であり、幸運にも空にはこれらの問題を解決する手段があった。
    タルタリヤと空が同時刻に洞天に滞在していれば、好きなだけ手合わせができるし、お互いの立場を気にせずに振る舞える。
    パイモンは「それって大丈夫なのか? あいつがファデュイだって他の奴らに知られたら、ケンカになるんじゃないか?」と難色を示したが、タルタリヤは馬鹿ではない。その辺りは上手く誤魔化してくれるだろう。
    そんな経緯を経て洞天の通行証は空からタルタリヤの手に渡った。
    空は屋敷内のエントランスホールにテーブル、ソファ、本棚などを並べ、談話室のような空間を設けている。壁には掲示板が掛かっており、個人から個人に、あるいは個人から全員に向けて記されたメモが貼られている。
    数日前、洞天屋敷を訪れた空はタルタリヤが書いたメモがあるのを見つけた。

    ――二日後の二十三時に俺と勝負を。

    メモにはそんなふうに書かれていた。文面を見て空の心は沸き立った。嬉しかった。最近冒険者協会から回ってくる任務は掃除だとか探し物ばかりで、少しだけ退屈していたのだ。
    久しぶりに思いきり剣を振り回せる。日頃の鬱憤を発散できる。
    空はわくわくしながら約束の日を待った。
    タルタリヤは約束した通りの時間に洞天にやって来た。空の洞天は海に浮かぶ群島の景観を模している。
    普段はにぎやかな声援を送ってくれるパイモンは早々に眠ってしまい、辺りは静かだった。さざ波が子守唄を奏でる砂浜で二人きり。星々のさやかな光を浴びながら、空とタルタリヤは純粋な力比べを存分に楽しんだ。
    三度やり合って勝敗はつかなかった。一勝一敗引き分け、というところで二人は体力と気力を使い果たしてしまった。これ以上やれば引き際を見極められず、空がタルタリヤを、あるいはタルタリヤが空を殺してしまうかもしれない。
    「今日はお開きにしようか?」というタルタリヤの申し出を空は快く了承した。

    「今日は外に戻るの?」
    「いや今日はもうここに泊まるよ。疲れたしね。誰かが起き出してくる前に出て行って、そのまま職場に直行する」
    「真面目に働いてる人みたいな台詞だ」
    「失礼だな。俺はいつだって真面目に働いてるよ?」
    「おもちゃの販売員として?」
    「そう。おもちゃの販売員として。さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 今なら独眼坊の人形がお買い得! ってね」

    空がからかうとタルタリヤも調子を合わせてきた。大仰な仕草で客引きをするタルタリヤに空はブハッ! と噴き出してしまう。

    「冗談はともかく……お腹空かない?」
    「空いた。何か食べさせてくれるの?」
    「ちょっと待ってて」

    この場にあらかじめ用意しておいた道具を使って空は手早く野外料理をするための仕度を整えた。赤々と燃える焚き火に当たりながら、キノコと鳥肉を串に差していく。

    「アカツキワイナリーの蒲公英酒もあるよ」
    「最高」

    空が言うとよほど嬉しかったのか、タルタリヤがピュウと口笛を吹いた。空がずた袋から取り出したボトルを渡すと、すかさず栓を開けて中身をマグカップに注いでいく。

    「相棒は? 飲むかい?」
    「俺、お酒はちょっと……」
    「ホットワインなら酒精が飛ぶから、子供が飲んでも大丈夫だよ」
    「……俺って子供?」
    「さあ?」

    空が首を傾げて問いかけると、タルタリヤは愉快そうに目を細めて謎めいた微笑みを口元に浮かべた。

    「俺は君が望むなら大人としても子供としても扱うよ」
    「……俺も飲む」
    「はいはい」

    語尾に音符がついていそうな返答をして、タルタリヤがもう一つのマグカップに赤ワインを注いでいく。空は黙々と串焼きを作るのに専念した。幾何もしない内に十本の鳥肉とキノコの串焼きが出来上がる。

    「それじゃあ」
    「二人の健闘を祝して」

    乾杯、という声が重なりマグカップがぶつかり合う。空はとりあえずマグカップを砂浜に埋め込むように置いて、串焼きにかぶりつく。

    「んー、ほいひい(おいしい)。ふぁふふぁふぉれ(さすが俺)」
    「こーら。食べてるときに喋らない。んー、さすがはアカツキワイナリーの蒲公英酒。まろやかで程々に渋くて美味しい。素晴らしい出来だね」

    タルタリヤはホットワインがお気に召したようで、串焼きには手を付けずマグカップを両手でもてあそんでいる。素朴な夜食を楽しみながら、空とタルタリヤはぽつぽつと近況を語り合った。
    自分の腹に三本、タルタリヤの腹に一本の串焼きが消えたところで、空は「そういえば」と新しい話題を切り出した。

    「ずっと前から聞こうと思ってたんだけど、」
    「ん、なんだい?」

    焚き火に新しい薪をくべながらタルタリヤが視線をよこす。パチパチと燃える炎に照らされて、紅茶色の髪が薄く金色に染まっている。
    その淡い光に見惚れながら空は口を動かした。

    「タルタリヤが元素を爆発させたとき、水が魚の形になるけど……あの魚の名前って何?」
    「…………それ本気!?」
    「わ、あっつ!」

    タルタリヤが薪を取り落としたため、炎が大きく爆ぜた。火の粉が飛んできて空の顏にぶつかる。針に刺されたような痛みと熱に空は思わず顔をしかめた。

    「あ、ごめん! 火傷は? してないかい?」
    「してないけど……タルタリヤがそんなに驚くとは思わなかった。俺、変なこと言った?」

    空が眉根を寄せて尋ねるとタルタリヤは苦虫を噛み潰したような顔をした。その表情を見て空は少しだけイラっとする。タルタリヤはどう考えても「こいつ信じられねえ」と言いたげな顏をしている。

    「そのむかつく顏やめないと殴る」
    「いや……だって……まさか相棒がクジラを知らないとは思わなかったんだ。驚いたりしてすまなかった。謝るから機嫌を直してくれよ、相棒」
    「…………クジラ?」

    タルタリヤを殴りたい気持ちよりも未知のものに対する好奇心が勝り、空は握りしめていた拳をほどいた。
    クジラ。舌の上で転がしてみる。不思議な響きの言葉だ。クジラなんて名前の生き物は、これまで冒険してきた世界のどこにもいなかった。

    「それは魚なの?」
    「魚だよ。哺乳類だけどね。水生生物の中で最も大きな体をしていると言われているんだ」
    「へえ……」
    「クジラが海上で飛び跳ねることをブリーチングと言うんだけど、あの迫力はすごいもんだよ。あの巨体でジャンプするんだからね」

    目をきらきらと輝かせながらクジラについて語るタルタリヤは、闘争も殺戮も知らない普通の青年のようだった。空は目をまたたかせ、タルタリヤを凝視する。そしてふっと微笑んだ。
    タルタリヤは万華鏡みたいだ。いくつもの顔を持っていて、時と状況によって器用に使い分けている。見せたい自分を演じている。けれど今の彼は何も取り繕っていないような気がした。
    飾らず、騙らず、素の自分で空と接してくれている気がした。

    「タルタリヤはクジラが好きなんだ?」
    「まあね。子供の頃は森で遊ぶことのほうが多かったけど、たまに海にも行ったんだ。初めてあいつを目にしたときは息が止まった。こんなにすごい奴がこの世界にはいるのか、って」

    北国の寒さをものともせず、悠々と泳ぎ回るクジラに憧れたのだとタルタリヤは言う。こいつみたいに強くなりたいと思ったのだと。

    「いつかあいつよりも強くなる。一撃で仕留めてやるって、そんなふうに思いながら俺は自分を鍛えてきたんだよ」
    「ふうん……。今でもクジラを倒したいと思ってる?」
    「いいや……?」

    タルタリヤがおもむろに空との距離を詰めてくる。肩と肩が触れ合いそうな距離。タルタリヤが空に向ける眼差しはある種の熱をはらんでいて、近くで見つめられているだけで灼かれてしまいそうだった。

    「今の俺はクジラよりもずっと手強い奴に夢中なんだ」
    「それって誰のこと?」

    空がすっとぼけるとタルタリヤはくすくすと笑った。笑いながらタルタリヤが唇を近付けてくる。おままごとのようなバードキスを繰り返し、空はタルタリヤの首に腕を回した。

    「ちゃんと仕留めてみせてよ、俺のこと」
    「上等」

    タルタリヤが舌なめずりをしながら空を押し倒す。視界がぐるりと回って、星の海がタルタリヤの肩越しに見える。これでようやくお腹がいっぱいになりそうだと、空は力を抜いてやわらかな砂浜に身をゆだねた。
    翌朝。空が屋敷内の自室で目を覚ますと、一緒にベッドに入ったはずのタルタリヤの姿はどこにもなかった。そしてサイドテーブルには見慣れないものが置かれていた。
    窓から差し込む朝日を浴びているのは木彫りの人形だった。ニスが塗られているのか、人形は上品な飴色をしている。
    頭部は丸く胸びれが二つと尾びれが生えている。背中には穴が空き、そこから勢いよく水が噴き出していた。

    ――俺の執務机にずっと飾ってあったものだ。これを君に贈ろう。実物を見たとき、すぐにわかるようにね。

    人形に貼られていたメモに目を通して、空はへなへなと脱力した。床にうずくまり、両手で顔面を覆う。

    「なんて気障な真似を……!」

    タルタリヤがそっと置いていった人形の正体はクジラに違いない。メモから察するに執務机にあったものをタルタリヤはこっそりこの部屋に持ち込んだようだ。
    つまり空がベッドの上で爆睡している間に彼は洞天を抜け出し、北国銀行に行き、もう一度戻ってきた、ということになる。
    空のためにそれだけの労力を割き、そしてまた何食わぬ顔でタルタリヤは日常に戻って行ったのだ。なんの見返りも求めずに。
    そのてらいのない献身と好意は空の身に余る。あのタルタリヤにそんなふうに優しくされてしまったら、拒むことなどできやしない。

    「あー……いつか野生のクジラ見れたらいいなあ……」

    ぱたぱたと火照る頬を片手で仰ぎながら、空はもう片方の手で人形の背中を撫でるのだった。



    ――最後にタルタリヤに会ってから幾日が経ったのだろう。
    しばらく彼と会わない間に空を取り巻く状況は一変してしまった。最愛の妹である蛍と再会を果たしたものの、事態は空の思うように進まなかった。
    彼女はアビス教団に与しており、空と一緒にいることを拒んでどこかに消えてしまった。
    妹の手掛かりを探すため、空は稲妻に行くことを決め、璃月の地に別れを告げた。
    出発の前日に空は友人知人への挨拶回りを行った。一応北国銀行を訪ね、タルタリヤにも事の次第を告げてきた。
    「俺、稲妻に行くことにした」と空が話すと、タルタリヤは何かを考え込むような沈黙を挟んだのちにこう言った。「気を付けて」と。「俺以外の誰かに殺されるのは許さないよ」と。
    それに対して空は「タルタリヤもあんまり無茶はしないように」と答えた。それで会話は終わった。
    そして今――空は稲妻へと向かう船の上にいる。
    船の指揮を執っているのは武装船隊「南十字」の頭領である北斗だ。空は食客として南十字に招かれ、船内の手伝いをしながら航海を楽しんでいる。
    今頃蛍はどうしているのか。なぜアピス教団と行動を共にしているのか。ダインスレイヴは何者なのか。
    洞天でいつでも会えるとはいえ、タルタリヤは空が璃月を去ったことに少しは物足りなさを感じてくれているだろうか。
    悩み事は尽きないが、いつまでも悶々としているのは性に合わない。
    今考えてもわからない事柄は考えるだけ無駄である。今は目の前の物事に集中するべし。
    そんなふうに自分に言い聞かせ、空はそれなりに船上での暮らしを満喫していた。
    今日も今日とてブラシを片手に甲板の掃除をしていると、「空!」とどこからか自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
    手を止めてきょろきょろと視線をさまよわせる。と、反対側の船べりで万葉が大きく手を振っているのが見えた。

    「こっちに来るでござるよー!」
    「? あいつ、なんだかいつもよりテンションが高くないか?」
    「俺もそう思う。どうしたんだろう?」

    いつも泰然としている万葉が声を張り上げているのは珍しい。空とパイモンは顏を見合わせて首を傾げた。とりあえず行ってみようと、二人は彼のいる場所まで移動する。

    「クジラの群れが泳いでいるのが二人には見えるか? 実に素晴らしい眺めでござろう!」

    少し興奮した様子で万葉が海面を指差す。空とパイモンは船べりに身を乗り出した。目を凝らして、万葉が指し示したほうをじっと見る。
    すると遠くのほうに黒い塊がぽつぽつと点在しているのが見えた。その塊は浮き沈みを繰り返している。

    「おおー! オイラ、野生のクジラを初めて見たぞ……!」
    「あれが……クジラ……」

    クジラの群れは少しずつ船に近付いてきているようだった。距離が短くなるにつれ、全貌があらわになる。人間の何倍もありそうな巨躯。海流に抗い続けるたくましいひれ。高く噴き上がる潮水と、存在を主張する力強い鳴き声。
    空が言葉もなくクジラに魅入っていたとき、それが起きた。
    一頭のクジラがぬっと海面から頭を突き出した。かと思えば胸と尾びれが浮上し宙に浮く。空中に跳び上がったクジラはきれいな弧を描き、海面へと落下した。尾びれが勢いよく海面に叩きつけられ、バッシャーン! と水柱が天空に向かって伸び、飛沫をまき散らしながら消える。
    クジラの落下音で大気がびりびりと振動し、空の肌は粟立った。クジラの群れが船から遠のき、見えなくなるまで空の目は釘付けにされたままだった。

    「本当に……すごかった……」

    タルタリヤの言った通り、圧巻の光景だった。クジラのブリーチングは優美で、迫力があり、神秘に満ちていた。
    あんな生き物を見てしまったら、心のわくわくが止まらなくなるに決まっている。冒険心を抑えきれなくなって当然だ。
    この世界はどこまでも広く、新しい発見がいつだって自分を待ち受けている。

    (だから俺は……旅を続けるんだ)

    たとえ何があっても。どんなに辛いことがあったとしても。それに勝る感動があることを知っている。
    蛍と一緒に旅を始めたときの気持ちを空は久しぶりに思い出した。口の中で「ありがとう」とここにはいないタルタリヤに向かって礼を言う。
    いつからか忘れてしまっていた思いと再び出会わせてくれてありがとう。
    いつか彼がただの冒険者になったなら――肩を並べて隣を歩けますように。
    まぶたの裏で夢を見て、空は静かに微笑んだ。
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